
写真:興津要編『古典落語(上)』(講談社文庫、1972年)
このところ、2~3か月に一度のペースで飲み会をしている職場の元先輩と、国分寺で飲みました。これで3回連続国分寺です。駅のそばに、隠れ家的な和食の店がたくさんあるからです。


国分寺「祝い家」のお通しと刺し盛
この先輩は、昨年6月に退職した後、ラグビー日本代表を追いかけて全国を回ったり、日本酒の利き酒イベントに通ったり、趣味にエネルギーを費やしています。
「最近は、何にはまっているんですか?」
「落語」
「落語!」
「今日も行ってきたんだよ。これで4日連続」
「4日連続!」
「おかげで落語界についてくわしくなった」
複数ある協会、それぞれに属する落語家、「~家」とか「~亭」とか、いろいろ名前が出てきますが、私にはちんぷんかんぷん。
「寄席って、もっぱら古典落語をやるんですか?」
「新作もあるよ。新人も女流も出る。最後に出てくるのが真打ち」
「ぼくの父方の祖父のお姉さんが、初代円歌(圓歌)にお嫁に行ったと聞いたことがあるけど…」
「三遊亭圓歌? 今は4代目だね」
「初代は明治の人らしいです」
私は生まれてから一度も寄席に行ったことがありません。ところが、古典落語にはけっこう詳しい自信があります。
下町生まれの祖母、父から寿限無とか時そばとかまんじゅうこわいなどの古典落語を聞かされ、興味をもったのが小学校高学年の時。そして、当時講談社文庫にあった『古典落語』シリーズを買い込み、全6冊を読破したことがあるのです。
私の古典落語の知識は、寄席を見て、ではなく、「読書」によって得たものでした。
その後、たまにテレビで寄席の放送を見たりしますが、「笑点」はあまり見ませんでした。
「新作落語って、楽しめますか?」
古典音楽(クラシック音楽)が、知っている曲でないと楽しめない、という話は前に書いたことがあります。
音楽鑑賞
「古典落語ならだいたいの筋とオチがわかったうえで見るので、噺家の芸に集中することができるけど、初めて聞く落語は楽しめないんじゃないかと…」
「いや、新作も楽しいよ。時事ネタを入れたりしてね。それに古典落語の場合も、噺家がいろいろアレンジするしね」
「なるほど。そういえばクラシックのコンサートもよく行くんですよね」
「うん、読響の会員になってる」
「このまえ、角野隼斗のドキュメンタリー映画を見たんです」
「角野隼斗は行ったことないな。辻井伸行は2回行ったけど」
「映画の中で去年の武道館コンサートをやっていて、演目がショパンで始まって、角野自身の作曲したもの、最後はボレロ。角野の編曲で、2台のピアノとシンセサイザーを一人で演奏してました。なんか、寄席と似てるなと思って」
「まあ、寄席は一回の公演でいろんな人が出てくるのが違うな。寄席にもよるけど落語だけじゃなく、漫才とか講談とか奇術までやる場合もあるし…」
クラシック音楽の場合、「新作」がないわけじゃないけれど、稀です。20世紀に入ってからの現代音楽は、技法が複雑・難解になって、素人が聞いて楽しめる曲は少ない。その点、落語のほうが創作が活発のようです。
「古典作品」があって、それを演じる人がいる、それを見る観客がいる…。
古典落語は、基本的な構造が古典音楽(クラシック音楽)と似ているけれども、新作が常に生まれ、また演じる人の裁量に任される部分が大きいという点に違いがあるのだと感じました。
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