少し前、朝ドラ「らんまん」に南方熊楠のエピソードが出てきました。
だいたいの筋は…、
ある日、東京に住む牧野富太郎(ドラマでは槙野万太郎)のもとに、和歌山から植物標本が送られてきた。熊野の近くの田辺町在住の南方熊楠からだった。標本は、120年に一度しか咲かないという竹の花の標本。牧野富太郎は「ハチク」と鑑定した。南方熊楠は、当時の国策である「神社合祀令」に反対し、賛同を求める手紙を有力者に送りつけていた。東大教授の松村任三(徳永政市)もその一人。国策に逆らいたくない松村は、牧野に、「この問題にかかわるな」と言い、国策に沿って満州の植物調査を勧める。しかし牧野は満州には行かず、南方熊楠の住む熊野へ行く。帰ってきた後、松村に叱責されるが「熊楠には会わなかった」という。
牧野が南方の送ってきた標本を鑑定したこと、熊野に行ったが南方には会わなかったことは、おおむね史実にそっています。
ドラマからは、牧野も南方の「神社合祀令反対」に賛同しており、熊楠に一目置いていた、という印象を持ちました。
実際に牧野富太郎が南方熊楠をどう思っていたのか。
『南方熊楠』(鶴見和子著、1981年、講談社現代新書)に、南方熊楠の死後に発表された追悼文(「文藝春秋」1942年 2月号所載)が引用されています。
南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれまた世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが決して大なる植物学者では無かった。植物ことに粘菌についてはそれはかなり研究せられたことはあったようだが、しからばそれについて刊行せられた一の成書かあるいは論文かがあるかというと私はまったくそれが存在しているかを知らない。
…
南方君が不断あまり邦文では書かずその代りこれを欧文でつづり、断えず西洋で我が文章を発表しつつあったという人があり、また英国発行の”Nature”誌へも頻々と書かれつつあったようにいう人もある。按ずるに欧文で何かを書いて向こうの雑誌へ投書し発表した事は、同君が英国にいられたずっと昔には無論必ずあった事でもあったろうが、しかし今日に至るまで断えずそれを実行しつつ来たという事は果たして真乎、果たして証拠立てられ得る乎。
※ 実際には、南方熊楠は「ネイチャー」や「ノーツ・エンド・クィアリーズ」などに、1899年から1933年まで、在英時も帰国後も継続して英文の記事を発表しており、たんに牧野が知らなかった(調べていなかった)だけ、ということです。
牧野が田辺町に行ったのに、南方熊楠を訪ねなかったことについては、
何にも吾れから先きに進んでわざわざ先方へ足を運ぶ必要は決して認めないとの見識(ハヽヽヽ)でとうとう同君の門を敲かなかった。
という記述があり、鶴見和子氏の説明では、牧野は南方から植物の名前を聞かれ、答えたことがあるから、自分は南方の師である。師が自分の町に来ていれば、弟子の方から挨拶にくるべきものを、南方はそれをしなかった。…「アカデミーの学者が、南方をどのように評価していたかをしるための一つのよい見本といえよう」となっています。
ハチクの標本を送ったのが1903年、牧野が熊野を訪れたのが1924年(関東大震災後)でかなり時期が異なり、ドラマの設定とは違いますが、牧野富太郎は1903年は東京帝国大学の助手、1924年は講師で、結局教授にはなっていません。牧野を「アカデミーの学者」の代表と見ることができるのかは、やや疑問。
「小学校中退」という学歴だったため、アカデミーから冷遇され続けていた牧野は、在野の大博物学者、南方熊楠に親近感を持ってもよさそうな気がしますが、実際は、日本の学界を無視して海外で活躍していた南方を、よく思っていなかったようです。
ところで、私は最初の職場で、『Newton』という科学雑誌の編集をしていました。編集長は、元東大教授の竹内均。東大退官後、旺文社の大学受験講座などをするかたわら、科学雑誌『Newton』を創刊しました。
当時の連載記事に「人物科学史」というのがあり、著者は「もりいずみ」となっていましたが、これは竹内均のペンネームでした。
創刊して8年間で、100人近い世界の科学者が取り上げられていました。企画会議では、日本を代表する植物学者である牧野富太郎も取り上げるべきでは、という声が上がり、竹内編集長に提案すると、竹内氏は「でも、彼は小学校しか出ていないからねえ」と言って難色を示しました。
編集担当の先輩はとても憤慨して、飲みに行ったときに、そのことをぼやいていました。結局、牧野はその後の記事で取り上げられましたが、1980年代においてもなお、牧野について「アカデミーの学者」からは差別されていたことがわかるエピソードです。
※ 1903年に開花した「ハチク」を南方が採取してから、今年で120年。一部地域で、ハチクの開花が見られるということです。
※ 実際には、南方熊楠は「ネイチャー」や「ノーツ・エンド・クィアリーズ」などに、1899年から1933年まで、在英時も帰国後も継続して英文の記事を発表しており、たんに牧野が知らなかった(調べていなかった)だけ、ということです。
牧野が田辺町に行ったのに、南方熊楠を訪ねなかったことについては、
何にも吾れから先きに進んでわざわざ先方へ足を運ぶ必要は決して認めないとの見識(ハヽヽヽ)でとうとう同君の門を敲かなかった。
という記述があり、鶴見和子氏の説明では、牧野は南方から植物の名前を聞かれ、答えたことがあるから、自分は南方の師である。師が自分の町に来ていれば、弟子の方から挨拶にくるべきものを、南方はそれをしなかった。…「アカデミーの学者が、南方をどのように評価していたかをしるための一つのよい見本といえよう」となっています。
ハチクの標本を送ったのが1903年、牧野が熊野を訪れたのが1924年(関東大震災後)でかなり時期が異なり、ドラマの設定とは違いますが、牧野富太郎は1903年は東京帝国大学の助手、1924年は講師で、結局教授にはなっていません。牧野を「アカデミーの学者」の代表と見ることができるのかは、やや疑問。
「小学校中退」という学歴だったため、アカデミーから冷遇され続けていた牧野は、在野の大博物学者、南方熊楠に親近感を持ってもよさそうな気がしますが、実際は、日本の学界を無視して海外で活躍していた南方を、よく思っていなかったようです。
ところで、私は最初の職場で、『Newton』という科学雑誌の編集をしていました。編集長は、元東大教授の竹内均。東大退官後、旺文社の大学受験講座などをするかたわら、科学雑誌『Newton』を創刊しました。
当時の連載記事に「人物科学史」というのがあり、著者は「もりいずみ」となっていましたが、これは竹内均のペンネームでした。
創刊して8年間で、100人近い世界の科学者が取り上げられていました。企画会議では、日本を代表する植物学者である牧野富太郎も取り上げるべきでは、という声が上がり、竹内編集長に提案すると、竹内氏は「でも、彼は小学校しか出ていないからねえ」と言って難色を示しました。
編集担当の先輩はとても憤慨して、飲みに行ったときに、そのことをぼやいていました。結局、牧野はその後の記事で取り上げられましたが、1980年代においてもなお、牧野について「アカデミーの学者」からは差別されていたことがわかるエピソードです。
※ 1903年に開花した「ハチク」を南方が採取してから、今年で120年。一部地域で、ハチクの開花が見られるということです。
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