今日は図書館に行ってきた。
家内の協力もあって、本を20冊ほど借りてきた。すべて新書。通勤での時間つぶし。重い本だと手が疲れてしまう。いや、それ以前に、重い本を20冊も借りると図書館から自宅まで持ち運ぶのも一苦労である。
20冊と言えども、1週間ほどで読みきってしまう。1日4冊読んだとして5日分にしかならない。「そんなに本を読めるの!」と驚くことなかれ。噂によれば、
新聞(朝刊)は新書2冊分の文字数があるらしい。私の読書量より、「朝、全国紙はすべて目を通している!」と豪語しているビジネスマンの方が、より多くの文字に目を通しているといえる。たとえば、日経、読売、朝日、毎日、産経と5紙を毎日読んでいる人は、年間3,650冊の新書を読んでいるのと同じ分量の文字に目を通しているといえるのだから。
とはいえ、今まで人より少し多めの本を読んできた結果が、色々な資格や学位につながってきたと思っている。取得した資格は、国家資格32、公的資格112、その他資格88の合計232、取得した学位は修士4、学士13、短期大学士1の合計18。内容はともかく、数は無言の力を有する。特に、一朝一夕ではいかんともしがたい世界においては、その差を縮めるのは並大抵のことではない。
しかし、それは、時間さえかければなんとかなりそうな世界ともいえる。資格については、学生の時代から2桁ほど取得していたので、ゼロからのスタートとはいいがたいのだが、学位については、その取得の課程を容易に振り返ることができる。
珍しくもなんともない大卒サラリーマン=学士×1つだったのが10年前。ライバルというか、目標というか、仮想敵国というか、そのような存在を発見し、追いつきたい、追い越したいと思って、ガムシャラに走り続けた結果、10年後18の学位が手元に残っていた。
正直、そんなに数があっても使いようのない学位。資格も同様、数があっても仕方がないのである。振り返ると、ムダに時間をすごしてきたかのようにも見えなくは無い。だが、それを証明するには、誰かがやってみて、振り返りを行う必要があるのである。やってみた結果が現状である。資格や学位をたくさん取得しても、それだけでは、偉くもなれないし、お金持ちにもなれない。ヘッドハンティングされて華麗な転職をすることもなかったし、メディアに登場して有名人になることもなかった。
まあ、本来、それが順当であり、当然であり、妥当なのである。一部、雑誌やテレビで登場する方々は、ある意味、「特殊」という範疇の方々であり、それを当然と誤解した場合、「資格」も「学位」も、あなたを裏切ることとなるだろう。
ということで、今まで、ムダな時間や、ムダなコストを投下してきたともいえるのだが、それは、「地位」や「名誉」や「お金」といった、俗人的な成功だけを「成果」と見た場合の話である。
本音ベースで、私は、この10年を十分楽しんできたのである。「失われた10年」ではなく、「勝ち取った10年」と言ってもいいだろう。普通のサラリーマンをやっていたとすれば、絶対、得ることのできなかっただろう様々な事象を、思う存分経験することができた。
例えば、過去の会社以外のすべての飲み会は、社会人大学生をやっていなければ、ありえなかったものである。友と呼べる人々も、ほとんどが消え去ってしまうだろう。恩師もいなくなれば、先輩も、後輩も消えてしまうのだから。
そもそも、このブログさえ存在しえなかった・・・
そう考えると、ムダに思えた10年間も、それほどムダではないように思えるし、むしろ、価値のある10年間に思えてしまうのである。「凡人なれど、時に凡人ならず」。振り返った結果、自分としては、それぐらいの立ち位置がちょうどいいと思う次第である。