生涯学習の部屋

資格取得数241。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

雨、、、

2011年05月28日 06時05分49秒 | その他
本当は、今日、子どもの運動会があったはずだった。

朝起きて外を見ると雨が降っていた。この状況では運動会は順延に違いない。そもそも、今日はスクーリングがあるのですべてのプログラムは見れなかったのだが、午前中の一部でも応援に行ければよかったのに・・・

これで、月曜日以降の平日に順延されるため、まるっきり参加できなくなってしまった。自然の脅威には逆らえない・・・

せっかく、長男も次男も同じ中学に在籍しているのに。でも、やはり平日に休みを取って運動会を見に行くことはムリだな。
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「奇跡の人智ちゃんの光」

2011年05月27日 21時53分12秒 | ちょっと立ち止まって・・・
「あけぼの」という和菓子屋があります。

多くの店舗を出しているので、目にされた方も多いと思います。その特徴のある「あけぼの」というロゴを書いたのが社長の次女の「智ちゃん」。私より1年早く生まれている方を「智ちゃん」と呼ぶのは失礼に当たるのかも知れません。しかし、この画像の本にも「奇跡の人智ちゃん」と記されているのでご容赦願いたいと思います。

この本は聖心会のシスター鈴木秀子氏の書かれた本です。ちょうど、死生学やグリーフケアを学んでいたときにシスター鈴木の書かれた本を読み始めたのですが、この本ではダウン症として生まれてきた智ちゃんが紹介されています。

>「終戦後、新しい日本の夜明けを願う気持ちをこめて名付けた"曙"。1991年に曙の新しいロゴを作り
>ました。娘の智子が書いたものです。ダウン症で背が小さいですが、仕事が大好き。誰かが悲しんだり
>淋しがっていると必ず一緒にいてくれ、自分に正直に生きています。
>1994年に、今は亡き妻・澄子と町田市の忠生(ただお)に障害者が働けるお菓子工場を作りました。
>今も工場では、障害者と健常者が一緒に働き、お菓子を作っています。私もたまに工場で一緒にお菓子を
>作ります。
>智子が生まれた時、父は“智子を会社の基準にお菓子作りを しなさい”と言いました。働く人である前に、
>一人ひとりを大切な人間として見ること。自分らしさを発揮し、一生懸命働くことに人の役に立ち、自分の
>人生の充実感を味わえるような会社にしたいと思いました

和菓子の「あけぼの」にこのような背景があったとは知らなかったし、そもそも「あけぼの」という、それこそ、どこぞの書道家が書いたのではないかと思っていたロゴが、この本の主人公が書いたものと知り驚いています。

「ダウン症の智ちゃんが書いた」ということではなく、武蔵小山の商店街の「あけぼの」の前を通るたびに注意を引かれたロゴを描いた「智ちゃん」に、今、私が辿りつくことができたことに「運命」を感じ、驚いているわけです。

奈良にいた時も、目黒にいた時も、ダウン症の子どもを持つ方々と普通に交流を持っていました。「療育」ということで、自閉症やダウン症の子どもたちと一緒に夏休みを山で過ごすのが毎年恒例の行事でした。

世の中、健常者の方々だけで成り立ってはいません。障害者の方々もこの世界の主要な構成者であり無視することはできないのです。私の場合、障害者の方々と一緒に過ごす時間をたくさんもてたことと、大学や大学院で障害児・者について深く学習できたことが、偏見を払拭させてくれたのだと感謝しています。

「あけぼの」という企業が、障害者と健常者が一緒に働き、お菓子を作っている企業なんだと知ることができたこともうれしいのですが、それ以上に、この本にめぐりあえたことが私にとって奇跡だなとしみじみと思っております。
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乱雑に積まれた本を見ながら・・・

2011年05月26日 22時38分28秒 | ちょっと立ち止まって・・・
机の上にも、書棚にも、挙句、部屋中のいたるところにも本が積まれている。

ざっくり見回したところ、MBA+キャリア関連・生涯学習+教育関連・宗教+死生学+人間学関連が多数を占め、それぞれ3等分という感じだろうか。

大学や大学院で学んだことがそのまま本に置き換わっているようなものである。一見、MBAと生涯学習と人間学は関連の無いように見える。しかし、私はこの3つに共通するキーワードを体得したと実感している。

それは「人間の成長」である。

そう、私は「人」を切り口とした研究にエネルギーを投下しているといえる。単なる資格マニアと思われがちだったのが、一転、資格もそこそこに、教育機関で学び続けて早8年目。長いようで、実際、あっと言う間の出来事であった。

人間の成長について、自分なりにある種の思いを持つことができたのだが、残念ながら、自分の中だけに留まっている。とはいいつつも、今の自分の生き様が、その実践に近い形なので、言葉では言い表し難いが、理解していただけるとは思う。

所詮、人生、一瞬のうたかた。その一瞬をどのように生きるか。その生き方こそが、「人」と「動物」の超えがたい垣根を構築しているといえる。だからこそ、できるだけ長い刻を、「動物」ではなくて、「人」らしく過ごしていきたいものである。

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「大学院生物語」

2011年05月26日 05時14分52秒 | 読書
書名が絶妙なので読んでみた。

感想は、「読んでよかった」とういものである。架空の大学の事実と思われる内容。理系博士取得までの道のりにおける指導教官の苦悩ともいえる作品であった。

博士課程ではないが、大学院という世界に足を踏み入れたので背景は理解できる。しかし、実験実験の理系は大変と思いつつ、文系の方が厳しいよな・・・とも感じてしまう。

「帯」に書かれているように、笑ってしまう反面、納得してしまうこともあり、読んでよかったと思っている。そして・・・院生指導における筆者の「ご苦労」には頭が下がる思いである。
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昨日の富士山!

2011年05月26日 05時11分10秒 | 富士の高嶺
非常に見えにくいけど、確かに富士山は見えています。

「心眼」を使えば、見える人には見えます。(使わなくても見えるか?)
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そろそろ次の進路を・・・

2011年05月24日 22時14分00秒 | ちょっと立ち止まって・・・
まだ、武蔵野大学大学院のM2が始まって2ヶ月弱、でも、そろそろ、次の進路を決めないと、場合によっては間に合わない。

自分の研究を拾ってくれる奇特な指導教官がいるのなら、博士課程も候補の1つなのだが、「教育学」「社会学」「経営学」「経済学」「心理学」「人間学」・・・いずれとも識別できない私の研究は、残念ながら、指導できる教授がいない・・・というか見つけられない。

ということは、また修士課程で修行の日々を送ることが候補として上がってくる。無論、大学でも短大でもいいのだが、もし、後日、博士課程に行くチャンスが見つかった場合、直近の学習歴が大学院の方が面接のとき話やすいと考える。短大⇒大学院(修士)はありえる話だが、さすがに、短大⇒大学院(博士)は聞いたことがない。もし、実現すれば、それはそれで、伝説となるかもしれないのだが。

で、候補として考えているのが以下の2大学院である。

・放送大学大学院
・京都産業大学大学院

桜美林大学大学院もいい先生がたくさんいるので候補だったのだが、桜美林大学の初年度1年分が上記2大学院においては2年間のトータルの学費に匹敵する。

決して桜美林大学大学院が高いのではない。子どもの塾の学費の方が高いという方もいるはずだ。月謝として月割りで考えるなら、桜美林大学大学院は全部込み込みで5万円強なのだから。国立の大学院より安い価格設定なのだが、住宅ローン抱えたサラリーマンとして、その金額に耐えれない・・・(泣)

ある意味、行ける大学院でないと続かないことを実感している。

どちらの大学院にも、このブログでよくコメントを下さる方が修了生としておられるので、情報をいただきながら検討したい。なんせ、放送大学は10月、京都産業大学は11月が試験で、もう半年を切っている。準備すべきは準備していかないと、試験すら受験できなくなってしまうから。

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放送大学の通信課題提出!

2011年05月24日 22時10分39秒 | 放送大学
とりあえず完成している4通を提出することとした。

・社会の中の科学
・国文学入門
・日本語基礎B
・ヨーロッパ政治史

以上の4通である。まだ、完成していないものが3通もある。後手後手となっている自分が情けない。でも、できないときはできないし、書けないときは書けないんだよな・・・

インターネットでも提出できそうなのだが、郵便切手は15円×4通=60円分なので、提出することに躊躇はない。
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うれしいメール!

2011年05月24日 21時22分15秒 | その他
今朝、起床したら思いがけない方からメールが届いていました!

その方から近況を知らせるメールを受け取り、大変うれしく思っております。また、その方なりに、ご自身の生涯学習の成果を積み上げられていることに安心し、そして感心しました。

学びを志す人の数だけ、生涯学習の形は存在します。学ぼうとする意欲さえあればすべてが正解。答えは出ているのですから、あとはその道にしたがって歩んでいくだけでよい。時には立ち止まってもよい。回り道も大歓迎。回り道と思ったことが、実は、一番大切な事象に繋がることもあるのだから。

はっきり書けないのがもどかしいのですが、今年、私が最もうれしく感じたことなので記事にとどめておきます!

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食べ合わせ?

2011年05月23日 21時46分56秒 | 読書
「日本社会の決まりごと」と言う本のp98に「食べ合わせ」について書かれたページがあった。

この記事によると貝原益軒の「養生訓」には、豚肉とショウガが食べ合わせとして紹介されているそうな・・・っていうことは、「豚肉のしょうが焼き」はどうなるのだろう?

あと、牛肉とニラも食べ合わせということだ・・・っていうことは「レバニラ炒め」はどうなるのだろう?

無論、迷信で科学的な根拠はないとしているが、他にも食べ合わせについて、民間で伝承されている例もあげられている。

・スイカと天ぷら(これは有名!)
・柿と蟹
・蕎麦とタニシ
・ミカンと蛤
・梅と蛸
・松茸とアサリ
・キュウリとコンニャク
・枇杷と小豆
・鮎とゴボウ
・雉と茸
・蕗と蟹
・ウナギと梅干し

食べ合わせ以前に、タニシや雉なんて、なかなか手に入らない食材となっている。それに、柿を食べながら、蟹を食べることなんか想像できぬ。

強いて言えば、キュウリとコンニャクはなんとか一緒に食べれそうかしら?

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普遍の原理

2011年05月22日 06時49分08秒 | 生涯学習
「生涯学習」を標榜しているブログの管理人として認識している「普遍の原理」。

それは、「学習」しない限り「成長」はありえないということである。追加的な学習を行うことで、それが成長へと繋がるという原理である。すなわち、何もしない限り成長はありえない。

この場合の「成長」とは身体的な成長ではなく、精神的(あるいは知識的、経験的)な成長である。何もしないのに、メキメキ知識が増えたり、経験値が高まっていくことなどありえない。自明の理でもある。

だから、何かしら成長したいと願うのであれば、それに見合うだけの学習をしなければならない。それが私の信念である。大体、何の努力もせずに人間が成長するなら苦労はいらない。寝ているだけで人間的に一回りも二回りも成長するグッズがあるなら、私も購入したいものである。

「学問に王道無し」とのことわざの通り、やるべきことをやらなければそれなりの成果は現れるはずがない。平々凡々としているうちに、人生の砂時計は、確実にその時を刻んでいる。だからこそ、自分の人生に意味づけをするためにも、何かしら取り組むべきものを見出したいものである。

仕事を自己実現のツールとしてもよい。しかし、給与としてお金をいただいている以上、仕事と自己実現との関係は、得てして、相反することが多い。また、仕事の選り好みも当然できない。それが宮仕えの厳しいところである。

自分の身銭を切ってでもやりたいこと。そういうものがあるなら、その人はほっておいてでも成長していくだろう。自分もそうだが、お金を払った以上、最後まで取り組まないと勿体無く感じるから。お金が潤沢にある人ならフトコロは痛まないかもしれないが、平凡なサラリーマンとしては、コストのかかる「最履修」とか「留年」は避けねばとプレッシャーになる。

学費自体、数十万円と高額なのだが、逆に、学費が1万円程度だったら、「別に落としてもいいかー」って気になってしまうだろう。何とか工面すれば払えるくらいの金額でなければプレッシャーにはならないだろう。(無論、払う立場としては、学費が安ければ安いほどいいのだが・・・)

とはいえ、多くの私立大学のMBAコースなら、初年度の学費は軽~く100万円を突破する。今の私では手が出ない金額である。経済的手当は学ぶ者共通の課題ということであろうか。

学んでこそ、それが将来の糧となる。転職等直接的な効果となることもあれば、仕事の上で役立つという副次的な効果もあるだろう。あるいは、金銭的なものでなく、自我を構成する精神的な影響という効果なのかもしれない。形はどうであれ、学んだだけ、何かしらの効果は、自分の生き方に派生してくるのだ。

しかし、インプットしたエネルギーがゼロなら、アウトプットされる成果のゼロである。それは「普遍の原理」であると私は思っている。
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