クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

快楽亭ブラック~横浜山手散歩・11

2015-05-10 | まち歩き

明治初め、

日本での しんぶん(新聞)発行で 

有名になった、

ジャーナリストの 「ジョン=レディ=ブラック」

 その息子、「ヘンリー=ジェイムズ=ブラック」は、

外国人ながらに

はなし(噺)家になり、

「明治落語界」で 一世をフウビする

「快楽亭ブラック」として、

もっと メジャーになります

 (あの、三遊亭円朝の向こうをはりました 写真左)

 <快楽亭ブラック自伝より、本人談>

「私は、親父がもとこっち(東京)におりやしたんで、

 子供の時から自然に日本語を覚えやして、

 人に習ったんではござりやせん。

 親父が日本へ参りやしたのは、

 戊辰より三年ほど前で、

 はじめて日本で 新聞をこしらえやした。・・・」

 べらんめえ調をあやつり

キモノをきて 

高座にあがることもあった

青い目の はなし家は、

たちまち・大人気

 在日西洋人の、「勘違い失敗談」や、西洋小説の ほんやく(翻訳)話で、

日本のお客さんたちを

ウハウハ よろこばせました

 「真打ち」になって、弟子までいた・ブラックししょう(師匠)でしたが、

よせ(寄席)芸人となり、

日本人とけっこん(結婚)し

日本にきか(帰化)した

ブラックを、

イギリス人・家ぞく(族)は

ゆるしませんでした

・・・・・

ブラック・ししょう(師匠)は、

お母さんのそうしき(葬式)にも 呼ばれず

妹には メチャ・きらわれ

弟には 高座中にのり込まれて 

引きずりおろされたことも。。

 父ゆずりの ひはん・せいしん(批判精神)で、

政治えんぜつ(演説)をぶっていた

若いころ、

ブラックは 父と同じように

政府に はいせき(排斥)されることも

ありました。

 うよ・きょくせつ(紆余曲折)をへて、

たましいから 日本人になった息子を、

早くに亡くなった お父さんは

生きていたら

どう みたのかな・・。

今は全員が 同じ場所にねむる

ブラック一家。。

(お父さんが とりなしてくれているといいな

クリンは ねがいました。

(つづく)






 


 

 

 

 

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ブラックと新聞初年~横浜山手散歩・10

2015-05-09 | まち歩き

 「外国人墓地に眠る人」その2は、しんぶん(新聞)人・ブラックです。

 明治初年、イギリス人・ブラックは、「ジャパン・ガゼット」という

日刊英字しんぶん(新聞)を 発行しました 

 次に出した、日本語しんぶん(新聞)・「日新真事誌」は、

政治

ろんせつ(論説)

海外・経済・地方・・

充実の紙面が ひょうばん(評判)となり、

スタート・わずか8ヶ月で

明治政府から 声がかかり、

「機関紙」になったほど

 とはいえ

政府の「御用新聞」になっても

手先になるようなことは 

しない

政府の フトコロじじょう(事情)をあばいたり、

 いたがきたいすけ(板垣退助)の 「自由民権運動」をスクープしたりと、

大いそがし

「ジャーナリズムって、こういうものだぜ

ってことを

ブラックは、世に示します

しかし

 都合のわるいことを いろいろバラされた・明治政府は、

ブラックをだまして 

しんぶん(新聞)から手を引かせ、

あっという間に

「日新真事誌」を

はいかん(廃刊)に 追い込みます

その後も、

ことごとく・ふっき(復帰)をはばまれた

ブラックは、

一度日本を はなれますが

病気になってから

日本をなつかしんで 再来日し、

さいごは

日本で 亡くなりました

 モレルたちの鉄道が まだ・なかったころ、

ブラックは

ヨコハマから東京まで

馬や馬車で

ひっきりなしに 行き来し

ライブかん(感)をもって

世の中のうごきを 伝えました

「新聞は、毎日読むものなんだ!」

と、

生きた・ろんせつ(論説)で

伝えたかったのです

 日刊にこだわったのも、駅売りをはじめたのも、

 社屋の前に、その日のしんぶん(新聞)を はり出すのも、

みんな、

ブラックが 広めた・ワザ

世の中のじしょう(事象)を

はば広く とらえる

その青い目は

 後につづく・日本のしんぶん(新聞)人を 生みだしました

 「外国人墓地」の 向かいに、「大佛次郎記念館」が ありますが、

 次郎さんの 小説の中に出てくる・ブラックさんは

こんなことを 言ってます

 「 ところで、わたくしは、士族が好きです。

ただ、刀を差している士族ではなく、

刀を捨ててしまった士族に限るがね。

私の店に働いている士族、

みな、礼儀正しい。

文章を書かせても 上手。

熱心に働きますね、偉いです。

 ・・・どうして、この人たちが、頑固で旧弊で、刀がなければいけないのか。

わけわかりませんね。

平等、みな同じで いいでしょう。

日本人が国のためにする仕事は、まだたくさんある。

刀は野蛮の時代の習慣、

邪魔なのです。

あなた方は若い。それを考えなさい。

わたくし、考えます。

新聞は、日本の士族の仕事になりましょう。

刀は要りません。

言葉が刀の代わりします。

わかりますか。」


・・・・・・・

 あたらしい世に 生きるなら、あたらしい考え方が ある。。

(つづく)








 

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外国人墓地のモレル~横浜山手散歩・9

2015-05-08 | まち歩き

「外国人墓地」にねむる人、

一人目は

イギリス人の モレルです

明治初めに やって来た、

「大英帝国の鉄道技術者」・モレルは、

ニュージーランドや

オーストラリアに

鉄道をしいた じっせき(実績)を買われ、

日本最初の 鉄道こうじ(工事)を

まかされました

 それは、東京と ヨコハマをむすぶ、汽車のせんろ(線路)づくり

 出発地は、大都市の「新橋」。そこから、開港地の「横浜」まで、

おかじょうき(陸蒸気」で 1時間

それまで、

半日・かかっていた 道のりを

一気に たんしゅく(短縮)できる

とあって、

 黒い汽車は、 文明開化のシンボルに なりました。

 

そうぞうするに・・・

その 「陸蒸気」からの けしき(景色)は

       こんなかんじ・・   

 

モレルは、

ほぼ・海にそって

せんろを つくったのです。

 私、鉄子じゃないけど、この陸蒸気には

あこがれる!

だって、

片方の眺めは、ずっと海なんだよ」 (チット)

 明治日本に、あたらしい時代の 汐風を吹かせた、

モレルと仲間たち

自分たちの

さいりょう(裁量)と はたらきで、

若い国の きそ(基礎)をきずく・・

そんな気負いは

ほこらしさにもなって

現場での

ねず(寝ず)の作業にも たえさせました

しかし、

かれらのうち 何人もが

 鉄道ふせつ(敷設)中に、かろう(過労)がたたって 死んでしまいます

・・・・・・

かみの毛はなく、

長いヒゲ。

てっきり

おじさんだと 思い込んでいた・モレルが、

 たったの29さい(歳)で 亡くなっていたことに気づき

 うちのチットは ぼ(墓)前に 立ちつくしていました・・。

(つづく)


 

 

 

 




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外国人墓地~横浜山手散歩・8

2015-05-07 | まち歩き

 「えの木てい」のほど近く、

山手本通りの はしっこに、

 「横浜外国人墓地」があります

 日本の有名・みなと(港)町 には、たいてい・外国人ぼち(墓地)が

つきものですが、

ここ、ヨコハマのは

ロケーション、

きぼ(規模)、

美しさ、

どれをとっても イケていて

 ほかのところよりも、どうしても 「観光名所」っぽく なっちゃっています

十字か(架)や横文字で かざられた・おはか(墓)、

 白いマリアさまや 聖人のぞう(像)・・ (ワォ~外国~)


明治100年を きねん(記念)して、

1968年

ぼち(墓地)の門に かかげられた

レリーフには、

こんな し(詩)が きざまれていました

 「 美人の栄華  富豪の驕奢  孰づれか無常の風に 逢はざらん

光栄の路  問ふ所は墳墓のみ 」  

(by トーマス・グレー)


たしかに、

ここにねむる 4200人は

日本で 名を成した、名士たち

ぼうえき(貿易)で もうけた商人も

たくさんいるようです。

  しかしながら ここにねむる・人々のすべてが、

「美人の栄華 富豪の驕奢」か?

といえば、

まったく そんなことはなく、

日本の開国や

近代化につくし

その はってん(発展)のために

命をけずって、

「異国の土」になった人

かなり いるらしい

 そんな人のうち、気になる人を 3・4人、とりあげて

クリンが しょうかい(紹介)いたします

(つづく)




 




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えの木ていのチェリーサンド~横浜山手散歩・7

2015-05-06 | まち歩き

 山手のおみやげ、と言えば、

西洋かん(館)の洋がし(菓子)店、

「えの木てい」

の スイーツが

もっとも・有名

 「横浜土産」として、赤レンガそうこ(倉庫)とかでも

やきがし(焼き菓子)が

一部 売られていますが、

 本店・支店と、系列店でしか買えない、おかしがあるので

せっかく 近くまで行ったら

ついでに買っておくことを

オススメします。

 クリンの イチオシは、「チェリーサンド」

 洋酒につけられた・ダークチェリーが、バタークリームにはさまった、

甘いクッキーサンドで、

西洋かん(館)のイメージにピッタリの、かわいい形 

 (チェリーサンド・ショコラもあり

3時のおやつに、

これを食べれば、

だれだって

おじょうさま(お嬢様)に なれる

 

 「だれだって・・・ 」

・・・・・・・

 (まれに、れいがい(例外)もありますが)  (つづく)

 

 

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山手お嬢様のポートレイト~横浜山手散歩・6

2015-05-05 | まち歩き

 (・・・あの場所がいいな

    「ウフ♪」  (山手お嬢さまのポートレイト

「クリン~、先行くよ~。」(チットたちの声) 

 「おいてかないでよ

(つづく)

 

 

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喫茶・ローズガーデンえの木てい~横浜山手散歩・5

2015-05-04 | まち歩き

せっかく 山手に来たのなら、

ティーブレイクも 

洋かん(館)で

 ということで、クリンたち、山手111番館 の地下にあるカフェ、

「ローズガーデンえの木てい」

に 

入りました

 軽食と きっさ(喫茶)ができる このカフェは、

    中も かわいければ・・ 

 お庭もイイ (ローズガーデンが、すぐそば)

つまるところ、

じつに 山手なお店と言えます

 NHKの朝ドラ・「まれ」の さつえい(撮影)にも使われたそうで

自家せい(製)のケーキ

こだわりの紅茶

ちゃんとある。

 元町こうえん(公園)向かいの 「えの木てい」本店は

いつも こんでいるけど

 支店のこちらは、まだ それほど有名じゃないから、

ゆったり・してます。


かわいくって、

おじょうさまっぽくって、

ゆうが(優雅)な ひととき・・

 「クリンたちのためのお店じゃない」  「だね~。」(←チット&ジェマ。つづく)




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西洋館ギャラリー(234番館と111番館)~横浜山手散歩・4

2015-05-03 | まち歩き

 「横浜・山手」の たんさく(探索)におとずれた、クリンたち

今回の目的は、

 西洋かん(館)ギャラリーの 下見です

アートの お仕事をしている、

お友だちの ジェマちゃんは

 「そのうち、個展やりたいけど、どこか良い展覧会場、ないかな~?」

って

さがしていました

 そしたら、ここ・山手の西洋かん(館)が、

ギャラリーを へいせつ(併設)している、

との ジョウホウを

キャッチしたのです

目をつけたのは、

 「234番館」と、

 「111番館」。

どちらも、

山手の いい場所にある

むりょう(無料)公開の たてもので、

中も ステキです

 <234番館>

 <111番館>

ギャラリーの申し込みは

ちゅうせん(抽選)で、

倍りつ(率)も 高いけど、

こんな場所なら、

知り合いを 呼んでも、よろこんで来てくれそう

 それに、通りすがりの かん(観)光客も、

フラッと 見てって・くれるよね

クリンは

今から ワクワク しはじめました

 「ねえ いつやるの こてん(個展)


「・・・・・

 まだ、作品の数が少ないから、

  5年後か、10年後。 」 (ジェマ)

         「けっこう、先だね。。」  (つづく)



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山手の魅力~横浜山手散歩・3

2015-05-02 | まち歩き

<ブラフ18番館~外交官の家へ

 さて、ブラフとよばれた ヨコハマ・山手ですが、

ここは、西洋かん(館)が 立ちならぶ、

 みどり・あふれる、花のまち(街)

 そして、教会と ミッションスクールが 点在する、

  キリスト教の、しずかな丘・・ 

 <山手カトリック教会

 <山手聖公会

<横浜雙葉やフェリス女学院・・

 クリンたち、ロマンと けんい(権威)に弱い・女子たちが、

ただただ・ひれふすばかりの、

 「本格的異国情緒」に みちています

 とくに、うちのチットは、おや(親)につれられ、

子どものころに「横浜デビュー」を

してるので

はまり方も

ねんき(年季)が入っており、

語りだすと、止まりません

 (「ヨコハマ物語」のえいきょうも、じん(甚)大でした

 「初めて、山手のこの道を 歩いた時さあ・・、

あまりに素敵で

子ども心に 感動したよ!

まさにカルチャーショック

そこらへんの家から聞こえてきた

ピアノの音色、

今だに おぼえているもんね

 あっ ここ、入居者募集してる! いいな~、住みたいな~

と、

さわぐ チットのかたわらで、

お友だちのジェマちゃんが

ボソッと言いました。

 「・・・私、横浜市民だけど、山手に来たの、生まれて初めて。」


・・・・・・・

・・・・

(絶句)

 「ホラ~、私、学校も職場も東京だったし、家からだと渋谷のほうが近いし~。」(ジェマ)


ジェマちゃんのような人のことを、

「横浜都民」

と 言うらしい

(つづく)









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開創期の居留地~横浜山手散歩・2

2015-05-01 | まち歩き

 クリンたちの「横浜山手・西洋館めぐり」、

そのスタートは、石川町えき(駅)です 

 このあたりにくわしい、チットによると、

これから 坂道をのぼっていく

山手地区には、

 明治~昭和にたてられた、西洋かん(館)が たくさんあるとのこと

 みどりゆたかで、春のお花が咲きほこる

ステキな 高級住宅地

 それが、山手であるらしい

 <現在、無料公開されている7軒のうちのひとつ、「ブラフ18番館」

 しかし、そもそも・なぜ この地に 西洋かん(館)がたつことになったのか?

その きげん(起源)は、

ばく(幕)末に さかのぼります

 

 1853年、黒船が来こう(航)し、開国することになった・日本

ペリーたちを

応せつ(接)するため

えらばれたのが、「横浜村」でした。

さらに そのあと、

「貿易もやろう」ってことになって、

ヨコハマこう(港)は 5年後、

大々的に ひらかれるのです

 それまで、神奈川宿・近くの、「一漁村」にすぎなかった ヨコハマは、

急きょ!開発され、

日本一の ぼうえきこう(貿易港)に

へんぼう(変貌)

外国人も、

ドドドーー っと入ってきて、

きょりゅう(居留)地に

住みはじめました

 ただ、港のすぐそばに もうけられた・「居留地」は、

今の関内あたりですが、

当時は 不えい(衛)生で、

かつ、

外国人ぎらいな日本人がうろつく

あぶない地いき(域)だったため、

 「丘の上に移りたい」 と、西洋マダムたちが、さわぎ出したそうです

 そうして、山手は 開発され、かれらはここを

   ブラフと呼ぶように なりました。 (つづく)











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