明治初め、
日本での しんぶん(新聞)発行で
有名になった、
ジャーナリストの 「ジョン=レディ=ブラック」
その息子、「ヘンリー=ジェイムズ=ブラック」は、
外国人ながらに
はなし(噺)家になり、
「明治落語界」で 一世をフウビする
「快楽亭ブラック」として、
もっと メジャーになります
(あの、三遊亭円朝の向こうをはりました
写真左)
<快楽亭ブラック自伝より、本人談>
「私は、親父がもとこっち(東京)におりやしたんで、
子供の時から自然に日本語を覚えやして、
人に習ったんではござりやせん。
親父が日本へ参りやしたのは、
戊辰より三年ほど前で、
はじめて日本で 新聞をこしらえやした。・・・」
べらんめえ調をあやつり
、
キモノをきて
高座にあがることもあった
青い目の はなし家は、
たちまち・大人気
在日西洋人の、「勘違い失敗談」や、西洋小説の ほんやく(翻訳)話で、
日本のお客さんたちを
ウハウハ よろこばせました
「真打ち」になって、弟子までいた・ブラックししょう(師匠)
でしたが、
よせ(寄席)芸人となり、
日本人とけっこん(結婚)し
日本にきか(帰化)した
ブラックを、
イギリス人・家ぞく(族)は
ゆるしませんでした
・・・・・
ブラック・ししょう(師匠)は、
お母さんのそうしき(葬式)にも 呼ばれず、
妹には メチャ・きらわれ、
弟には 高座中にのり込まれて
引きずりおろされたことも。。
父ゆずりの ひはん・せいしん(批判精神)で、
政治えんぜつ(演説)をぶっていた
若いころ、
ブラックは 父と同じように
政府に はいせき(排斥)されることも
ありました。
うよ・きょくせつ(紆余曲折)をへて、
たましいから 日本人になった息子を、
早くに亡くなった お父さんは
生きていたら
どう みたのかな・・。
今は全員が 同じ場所にねむる
ブラック一家。。
(お父さんが とりなしてくれているといいな)
クリンは ねがいました。
(つづく)