With A Little Luck!

趣味と生活と衝動買い日記です!(笑)。

春の思い出2

2005年03月15日 | 仕事
おととい書いた、日記の続きを書く!。
長くなりそうだけど、今の自分にも関係あることだし、自分にとっては大きな出来事だったから、書いておこう。


社長は、自分に反発、意見する人間はわりと露骨に遠ざける人だったから、「ああ、来たか…。」とその時は素直に思った。
しっかし、たったひとりで山口なんて、いまどき島流しじゃないんだから、ありえないんじゃないかい?。
でも、同時に、自分は見た目と違って負けず嫌いというか物事を重く考えないタチというか、落胆した気持ちの半分、「おいしい。やったるで。」という気持ちが、今思えば悪い方に考えたくないという逃避だったか知れないが、ふつふつと沸き起こっていた(笑)。

この頃、実は迷っていることがあったが、何も言わないまま山口に行くことに決めた。この判断が、後々自分にダメージをくれることになるが、その時の自分の心境では、そう判断するのがベストだと思ったし精一杯だった…。

そしていざ山口へ…。

自分を待っていたのは、想像以上の状況だった。
買収した会社とは、ある得意先がもともと設立した会社で、創業以来14年間、ずっと赤字の会社だった。都合のいい売却理由だが、「本業に専念」、というわけでうちの会社に売却の話が来たわけだ。

そこで働く従業員達は、今の時代、ちょっと反発が起きてもおかしくないくらいの冷遇のされかただった。定年近い人でさえ、自分より余裕で年収低かったし、残業代も当然のように無し。休みも交代で週に一度だけ。中には365日出勤してる人もいた!。労働環境もひどく、関東のうちの工場に比べたら劣悪と言っても言い過ぎではなかった。初めて工場を見た時の印象は「ここが自分の働く場所か…」だった。

先に工場長(兼取締役)として入っていた元上司からは、「買収された会社の人間は、買われたという意識が強い。一方で、買われた先の人間がうわついた気持ちで入ってくると、顔には出さないがすぐになめてかかる。お前が山口に来てくれるのはいいが、『わざわざ東京から来たけれど、売り上げは上がらない』と、彼らから一瞬でも判断されると、ここでは人間扱いされない…。」なんて、マジなんだか、脅しなんだかよくわからない歓迎の言葉をいただいた(笑)。ただ、必死でやってくれ、という願いに近い気持ちだけはしっかりと受け取った。

自分にこの場所で課せられたことは、とにかく一時でも早く、安定した供給先を見つけて、経営の安定化、つまり黒字化してみせること、利益を出すことと理解した。うちの親会社からは、いつも「清算」、というナイフを突きつけられていたから。

従業員達は、露骨に不信感を浮かべた眼差しを向ける人もいたが、先の上司の言葉とはうらはらに、おおむね優しくて人なつっこい、田舎のとっちゃん、かあちゃん達が多かった。

知的障害を持つI君は、雨が降ろうと、雪が降ろうと、毎日工場から4キロ離れた自宅から自転車で山を、時にびしょ濡れになりながら登ってくる。発する言葉も、正直ままならない感じで、それでも自分に対してせいいっぱい大きな声で挨拶をしてくれるし、気遣いの言葉までかけてくれた。そして彼なりに、この仕事と自分の作る商品にプライドを持って働いていてくれていた。
借金取りに追われ、家族ともバラバラになり、ここに流れ着いたオッサンもいた(借金取りに事務所の電話番号教えんなよなあ!、怖かったよ)。
生活の苦しさから、この仕事の他に、夜の代行運転業までこなすオバチャン達。
生活苦しいって言うわりには、工場に住み着いたネコに高いキャットフードを買ってきては食べさせていたっけ…。

そんな人達を見ていると、実際に外に出て商談してくるのは自分しかいないので、物言わぬ彼らの期待(されてたかどうかはわかんないけど)に応えなきゃって思った。自分一人の力なんて、実際大したことなんかできやしないけれど、そうやって思い込むしか、やってられなかった。


着任早々、動きまくった!。本当によく動いた。山口を拠点にして、広島、福山、尾道、愛媛松山、九州の小倉、果ては岡山まで…、一日の平均走行距離は400キロはくだらなかった。時間と経費をかけて、毎日商談を続けた。問屋にもどんどん商談に連れ出してくれるようアプローチした。必死だった。

一番しんどかったのはやはり一人ということ。権限が何もないペエペエの社員を一人で置いとくというのは、今だにひどいし、いかがなものかと思う。この業界は即答を求められる緊迫した場面が多く、工場を背負っちゃってる分、常に緊張した状態が続いていた。

プライベートな面でも困ったもんで、土日の休みがきても(実際はあまり休めなかったが)、とりあえずしゃべる相手もおらず、当然一緒に遊ぶ仲間もいなくて、ひとりドライブが少ない休みの定番となっていた(哀)。一人で街をぶらついて時間を過ごしたりするのは全然苦じゃなく、むしろ好きな方なんだが、さすがにこの転勤でのひとりぼっち感はこたえた…。そんな自分を見かねたのか、それともボヤきが届いたのか(笑)、「お前ひとりじゃけえ、寂しかろう!?。」と、得意先のバイヤーは釣りに連れて行ってくれたり、問屋や、他のメーカーの営業マンは、広島の夜を食べ歩き、飲み歩きに連れ出したりしてくれた。今思えば、刺激のない田舎暮らし、彼らも自分をだしにして楽しんでたというむきもあるが…(笑)。それを差し引いても、向こうの人達にはよくしてもらった。お互いまったく別の会社にも関わらず、自分の仕事をフォローしてくれたり、今思い返しても感謝の気持ちでいっぱいだ。(ホント救われましたよ)。

半年経過したあたりから、徐々に営業の成果があらわれはじめ、夏には冷夏だったにも関わらず、ついに利益を出せるようになった!。当然自分の力だけでなく、商品の力がマーケットに支持された結果であるが、とても嬉しかった。心底嬉しかった。工場のみんなの顔も明るくなってきた。30過ぎて、こんなさわやかな喜びを得られるなんて思ってもみなかった。
関東の連中からはもう忘れられてるかも知れないけれど、自分はまだまだ終わってない、やってるぞ!って思った。

冬の声が聞こえ、来年の春のプレゼンの準備にとりかかろうとしていた頃、唐突に、関東営業部への異動の内示が出た。
実績を出したから帰れるのかな、なんてうぬぼれた考えも浮かんだが、関東の売り上げの急降下、親会社による、うちの会社の関東、関西の分割売却案などが出、若い社員を戻せと、社長が動いてくれたと後から聞いた。

わずか1年に満たない転勤だった。
この転勤がなければ、生活は変わっていたかも知れない。考えてもしょうがないけれど、たぶん変わっていたと思う。する、しない、どっちが良かったなんて比べられないけれど、とりあえず、一人になる、という貴重な体験ができた。自分をみつめるなんて感傷に浸る時間はあんまりなかったが、その時間を、数えられない人に出会い、数えられない孤独感や達成感を味わうことによって埋めてきた。東京に戻ってきて一年、ようやくあの一年のことが自分の中に活きてきてる実感がしてきた。

たぶんまだ途中だと思うけど。