3日の昼から工房へ行き、4日、5日の昼までに目標に到達しなければならない。
武器関係は元より半割、先ハメ多いし、エクシアはソードがたくさんあるのでヤムナシ。
GNソード、GNソードⅡもせっかくだから、きちんと塗り分けしたい。
3日の昼から工房へ行き、4日、5日の昼までに目標に到達しなければならない。
花粉がすごすぎて、頭から透明のビニール袋かぶったらどうだろうか、と真剣に思わないでもない、そんな土曜日の昼下がりに、わざわざ混みまくりの銀座へ行って、50分待ちで食べる幸せのパンケーキは、果たして本当に幸せのパンケーキなのだろうか・・・と真剣に考えてしまう。
幸せなんてものは人それぞれじゃよ、ばあさんや・・。
誰だよじいさん。
なんて言いつつ、しっかり食べて、しっかり美味しかった。
想像していたパンケーキとはちょっと違ったけど。
石鹸の泡を食べているような感覚。ふわっふわ。
石鹸というとアレだけど、蒸しパンのすごいフワフワなやつと言えば良いのか。
こういうのなんつったかな、ゲレンデみたいな。
いやはや、日本人の食に対する探究心には毎度驚かされるが、今やパンケーキもここまで進化していたとは。
パンケーキと言えば、パンのケーキと言えば良いのか、あの通常ホットケーキと呼ばれているやつしか思い浮かばない。
家でも作れるので子供の頃はたまに作ってもらいましたが、あれはあれで美味しかった。パンの部分だけ食べてもそこまで美味しくないのに、シロップをかけて食べると別物みたいに美味しくなる。不思議。
久しぶりに食べたくなってきた。
エンディングバレしてますので、ご注意ください。
1月25日に発売だったので、1か月以上遊ばせてもらいました。総プレイ時間150時間ちょい。
7があまりピンと来ず、8は買うのを躊躇っていましたが、買って良かった。
楽しかった。89点。
最終的にイカと戦い始めたところで笑った。
やっぱり巨大生物の部位破壊バトルはコマンドRPG(以下コマピー)に不可欠でしょう。
春日がレベル64、桐生がレベル62。
ハワイは春日、日本は桐生、と2分割パーティになるので、満遍なく活躍させられて良かったと思います。
その分、満遍なく育てなくてはならないので時間はかかるけど。
バトルが億劫にならなかったので、レベル上げが苦にならなかった。
クイックバトルを採用したのが大きいと思います。
ただ敵のカーソルの自動配置をもう少し考えて欲しいとは思いました。
前の人が攻撃した敵に自動配置されるのか、HP残量の少ない敵に配置されるのか、とにかくこちらの意図してない形になりがちでストレスでした。
敵が重なってると、カーソルが手前の敵なのか奥の敵なのか分かりづらいし。
位置の関係ないバトルなら敵の数を減らしてゆくのが鉄則になるので、HP残量で優先する敵を決めて良いけど、
このバトルは攻撃した敵が吹き飛べば、その吹き飛び方向にいる敵も巻き込めるので、必ずしもHP残量が攻撃優先順位にならない。
普通に自分と一番距離が近い敵に合わせてくれれば良いと思います。
気になったのはそれくらい。
ジョブ的には色々とやりましたけど、最終的に面倒になって麻痺系や魅了の行動制限異常が強めの武器で付けられる職業で落ち着きました。
サムライ×2、くのいち、ガンマン、ここらへんか。全体回復持ちがいなくて困ったけど。
街で買える35000$の一番高い武器も一通り揃えましたが、状態異常が付けられないのでアイテムボックス行き。
探索面ではハワイに横浜、神室町と、決してオープンワールドではないけれど、密度が濃かったと思います。
特にハワイは行ったことも見たこともないのでワクワクしました。
龍が如くはタクシーに乗らないとファストトラベルできないイメージがありますが、今回はお金を払えば好きなタイミングでファストトラベルができる。
ピンポイントではなく、決められたファストトラベルポイントへの移動、ということになりますが。
ロードも皆無といっていいくらい一切気にならなかった。
最後にストーリー。
良い感じに敵側が胸クソ悪く、7よりはプレイヤーの目的がシンプル且つハッキリしていて良かったと個人的には思います。
そして、なんといっても今回これだけ楽しく遊べたのは、やっぱり桐生ちゃんの存在が大きかったと思います。
癌を患うという境遇に妙な共感を覚えたというのもあるけど、彼のエンディングノート関連のイベントは感慨深いものがあった。
思えば20年近い付き合い。本当に友達の最後を看取るような、そんな気持ちになった。
でも最後から察して、大道寺一派から解放されはしたのだろう。
今回の廃棄物が公になれば、とうぜん現与党は信頼を失い、民自党が与党になり、そんなこんなで桐生もお役御免となったのか。
いずれにしても大道寺一派からは開放され、自分の名を取り戻せたのだと思う。
お見舞いに来たと思しき遥が、桐生の事をおじいいちゃんとハルトに言っていることから、もう既にあの時点で再会は果たしているのだと思う。
それで恐らくきちんと癌の治療をする決意をして、あのエンディングに至ったと。
893に核にと今回の後始末はかなりデカい。
今回の廃棄物の件を公にしないのなら、今度は春日たちが危険だろうし、公にしたとしたら893をどうするのかという展開になるし、9に続くとは思うけど、9はさすがに桐生の出番はないような気がする。
このエンディングを見るまでは、9の始まりは春日が桐生の墓参りをしているとこから始まるだろうと予想していたけど、たぶん桐生は沖縄のひまわりで治療を続けながら静かに余生を送っている、という文で終わってしまう気がする。
桐生が出てこないと、やっぱり買わなくなるのかな。
春日も良いキャラなんだけど、聖人すぎて感情移入ができない。
もう桐生ちゃんはサザエさん枠で良いと思います。
両親のマイナカードと保険証の紐づけ作業をしに、先週末にぷち帰省してきました。
自分のマイナンバーカードの手続きもまだしてないのに、よくやる。
去年のちょうど今頃に父が軽い?脳梗塞を患い、それを機に運転免許を返納させてしまったので、車が無いと色々と不便だろうからちょこちょこ帰らんとな、とは思いつつ、なかなかそうも行かず。
車がないので自分がレンタカーを借りて行かないといけないというのも腰を重くさせる。
一番安い軽自動車だって24H借りると、なんだかんだでファイナルファンタジー7リバース買えちゃうくらいの金額になる。決して安くない。
そして帰省するたびに気になるのが、父の足の衰え方。
まだ歩けてはいるし、父自身も毎日1時間程度歩くように心がけてはいるが、やや衰えの進行スピードの方が優勢に見える状況。
脳梗塞を患ったことも影響しているのだろうか。脳からの命令が足に伝達しづらくなっているとか。
正直なところ脳梗塞前後で見た場合にはそこまで顕著に衰えてはいない。
100%無関係でもないのだろうが、今の足の状態に決定的な影響を及ぼしている要因ではないと思われる。
やはり仕事をしなくなり、家にいる時間が長くなってから年々衰えていっているのは間違いない。
そんなわけで足が健康であることの重要性については以前から考えていた。
そうそう他人事でもなくなってきているし。
昨年の12月に10日間入院し、退院してすぐまた1週間ほど正月休みでダラダラして。
休み明けの初日、家を出て、駅の階段を上がり、ホームについたところでゼイゼイと呼吸が乱れていることに気づき、なんじゃこりゃと。
12月に入ってから事務所に入り浸り、1日5000歩前後しか歩かない日々を送っていたのも大きい。
入院~正月にかけて太ったので、体重が重くなっているというのもまた1つの要因か。
正月はともかく、なんで入院中に太るのか意味が分からん(看護師さんの目を盗んでお菓子を食ってるからだろ)。
なんだか膝も痛いし、こりゃ何かしないと、こっから先は衰えの一方通行。
足を鍛えるのに一番良さそうなのは自転車。
でも置く場所ないし、都内はどこ走れば良いのか謎すぎるし(車道?歩道?)、難しい。もう少し自転車が走りやすくなるようにして欲しい。
そういえば2年前くらいに買って放置してある足のウェイトがあったなと思いついた。
買って2週間くらい付けてたけど、夏だったので熱中症になりかけてヤメたんだった。
足のウェイトと言えばHさん。片足2、5㎏のウェイトを付けて幾星霜。
今や足だけ北斗の拳みたいになってる。
自分が知ってるだけでも10年くらい続けてるので、ウェイト外したら飛んでっちゃうのではないかと心配になる。
まぁでも歩きの速さでも敵わないし、山登りしても全く疲れてないし、効果があるのは実証されているのだ。
というわけで、正月明けから片足1㎏付けていますが、さすがに1㎏はなんともなくなってきた。
で、このウェイト巻くたびに思うのだが、今はこの砂タイプしかないのかしら?
高校生の頃に腕に巻くやつ買ったことあるけど、鉛の板を入れる仕様だったので、薄くて上着を着ているとほとんど装着しているのが分からなくて良かったのに。
この砂タイプはどうしても目立つ。腕にも巻きたいのだが、ちょっと無理っぽい。
ウェイト付ける前は1万歩あるくと腰が痛くなってしまったが、ウェイト付けてから1万歩あるいても腰が痛くなくなった。
足廻りが鍛えられてそうなったのか、はたまたウェイトを付けていることで重心の掛かり方が変化して痛くなくなっているのかは不明。
前者であれば良いけど、後者だとウェイト付けてないと痛くなるわけで根本的な解決にはなっていないので、ぬか喜び。
なんだか最近、病気の話かゲームの話しかしてないような気がする。
この文章を誰かが目にしているという事は、きっと僕はもう手術を終えて不通に暮らしているのだろう。
普通逆じゃない?この手紙を読んでいるということは、きっともう僕は生きていないのだろう、的な。
もうだいぶ前の話になりつつあるが、去年の7月に左腎臓にガンがあると診断され、ガーン!となり、12月に左腎癌の除去という手術を受けた。
手術前日の夜、病院のベッドに横たわりながら、いつになく緊張していて、なかなか寝付けなかった。
それと言うのも、もしかしたら全身麻酔で自分がもう2度と目覚めないかもしれない、という疑念が沸いたからである。
全身麻酔の場合、そういう事が稀にある、と病院側から事前に嫌というほど念押しされた。
ほんとうに稀なの?
あれだけ念押しされると、何かのフラグが成立しそうで逆に怖くなる。押すなよ!ぜったい押すなよ!みたいな。ちょっと違うけど。
医者の立場からすれば0.01%でも起こり得るのであれば、しつこく言うしかないのだろうという事は理解できるのだが。
麻酔で死んだからって別に訴えたりしません、という同意書だけで良いと思うんだけど。手術よりも全身麻酔をすることの方が怖くなってしまった。
知らぬが仏とはよく言ったものだ。
そうして、もしかしたら2度と目が覚めない、つまり死ぬという事について、悶々と考えていた次第であります。
この時まで所謂「死」というものについて、考えて来なかったわけではない。
死というものは初めて考えたのは小学校の高学年くらいだったろうか。
何処からともなく耳に入ってきて概念として植え付けられた天国やら地獄などといった死後の世界というものは、実際のところは存在しないのではないかと僕はごく自然に考えていた。
別に何か根拠があるわけでもなく、なんとなくそう思っていた。
でもそれを否定するのは、子供の頃の僕にはまだ怖かった。自分の存在が無になる事を考えると怖くて眠れなくなった。
拡がり続ける宇宙の末端と、末端の先、まだ宇宙ではないその空間に何があるのか、宇宙でもなく何でもない、その空間(でさえないかもしれない何か)こそが死そのものではないのか。
そういう事を考えている時と似た恐怖だ。
やがて死について考えることはやめた。別に年がら年中そんなこと考えていたわけではないが、積極的に自分から首を突っ込むようなことはしなくなった。
そういう事を考えそうになるとそっと意識を閉じた。臭いものに蓋をするように。
そうしてしばらくやり過ごしていたが、やはり歳を取るにつれて、どうしても死について考える事が多くなってゆく。
自分の死というものを実感したからだろうか。はたまた親の死がそう遠くないうちに必ず訪れると考えるようになったからだろうか。或いはその両方か。
死んでほしくない、死にたくない、と感じるのは当たり前の感覚であると同時に幸せな事なのだと思う。そう思うことすらできない環境がこの世界にはあるのだ。
しかし誕生してしまった以上はいつか終わりを迎えなければならない。
もっと言えば、この宇宙だっていずれは必ず終わりの時が来る、と言われている。
それを知ったときの衝撃のスゴさを言い表すと、もうなんかスゴい衝撃でした。
宇宙の終焉後というのは、宇宙の先にあるであろう、まだ宇宙になっていない状態になるのだろうか。子供の頃によく夢想していたアレ。
当然そういうことなのだろう。
始まっていない状態と終わった後の状態というのは繋がっているのではないか。
完全な無というものが、どういう状態なのか、無知の自分には想像ができない。
白っぽい濃密な霧みたいな空間なのか、一切の光が届かない闇のように黒い空間なのか。そういう概念さえ無い何かなのか。考えれば考えるほど深みにハマってゆく感じがする。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているとニーチェは記していた。
それはイケメン主人公のゲームに感情移入している最中、ふと画面が暗転した際に画面に映る自分の顔面を見た時のような感覚だろうか。誰が深淵みたいな顔だ。
無を考えることと深淵を覗く事が同義ではないが、その深みに嵌まってゆく怖さは似たようなものではないだろうか。
とにかく無があり(というのも変だが)、何かの拍子にまた今の宇宙のようなものが誕生し、またその中の地球のような環境に恵まれた星に生命が生まれる。
宇宙が生まれ、太陽が生まれ、そこから程よい距離に惑星があり、そこに生命が生まれる。その生命には知能が備わっている。
知能を持った生物は必ず同一の方向へ向かう。グレンラガンのドリル。
本当にすべて偶然なのだろうか、と思ってしまうほど良くできている。
すべてが偶然だとしたら、偶然生命が誕生した星が他にあっても何ら不思議ではない。よって、地球外生命体は存在すると思います。
なんの発表。
宇宙ですら死ぬという事を知ってから、死を考えるとき、どうしても宇宙のそれと併せて考えてしまう癖がスゴイ。
宇宙が到達していない空間が無であり死である。最終的に宇宙はそこへ向かっている。やがてまた始まる。
イース8のエンディングで大地神が目覚めた時に、目覚めこそが覚醒である、というようなことを言った、違うな。力こそパワーか。
この世界こそが彼女の夢である、というような表現をしたけれど、それと同じことなのだろうか。
森羅万象あまねく誕生と死を繰り返すという法則があるのなら、人知では表記のできないような永い時間をかけて繰り返していく。今もまたその繰り返しのうちの何兆回の1回なのかもしれない。
それを生まれ変わりというのであれば、そういう事もあるのかもしれない。
それとも永遠にもう何もない無なのか。
この未来永劫、無の中を漂い続けるという感覚に人は恐怖を感じるのだろうか。
今働いている事務所の所長が事あるごとに、人は死んだらどうなると思う?と訊いてくる。
死んでみないと分かりません、というのは目上の方に対する返答としては不適切に思われるので、無だと思います、と答える事にしている。
すると、無ってなんだよ、無になることを考えると怖くてたまらないと所長は言う。
無は無です、とぼく。
だからその無はどういう状態なんだ、と所長。
ムムムム。
そんなこと的確に説明出来るのであれば、もっとなんか別の人生を歩んでます。
僕の感じている無というものを簡単に言うと眠りと同じ。そう、まさに手術の麻酔と同じで何も感じない。恐怖もないし、苦痛もない。怖いも何もない。1秒だろうが3万年だろうが永遠だろうが同じこと。覚醒がないだけ。
いや、これはあくまで個人的な考えにすぎないですので、予めご了承ください。
実際は本当に三途の川を渡り、六道輪廻に落とされるのかもしれない。
それは冗談ではなく死んでみないと分からないことであるが、死んでなおそんなヒドイ目にあいたくないと僕は思う。
いや、そんな目にあっても人は自分というものの存続を願うのだろうか。
深刻に考えたところで真実に近づくわけではない。馬鹿の考えなんとやら、という辯もある。
だが実際に明日そうなるかもしれない、と思うと、やはり考えないわけにはいかないものである。意味のない無駄な行為だとしても。
医者からも言われたが、いちおう遺書のようなものを書いておくべきなのだろうかと考えた。
誰宛に?いや親宛なのだろうけど。親に宛てた悔恨の手紙。こんな夜中にそんなの書き始めたら死にたくなる。いや死ぬかもしれないから書くんだけど。
まぁ学も無くスポーツが得意なわけでもなく、なんの展望も計画性もなく生きてきたにしては、可もなく不可もなくといったところではないだろうか。
運が良かった。
小学校の先生から「もう少し頑張りま賞」くらいは貰えるかもしれない。
心残りといえば、夜中に家を抜け出して体育館の屋根に登っていたらテロリストと間違われて機動隊に囲まれ、モッコモコにされたあげくバッチリ指紋を取られてしまったことがあったのだが。
今にして思えば、時期が悪かっただけで、いたいけな中学3年生を掴まえて、テロリストだなんだと国家権力でメッタメタにすることはなかっただろうに。
事情聴取で何時間監禁されたことか。何べんも同じ事を聞かれ、書かされ。もう年齢でテロリストではない事くらい分かるだろう。ヒイロユイか。
問題はここからで、ようやく釈放されてから一緒に捕まった友人たちと、そもそもなぜ侵入がバレたんだ?という考察が始まった。
公安からマークされてる、なんてことがあるワケもなく。侵入した小学校の周りは団地もあったので、きっと我々が屋根に登っているのを団地の人が見つけて通報したのだろう、というところで落ち着いた。
でもきっと真相は僕が最初に不用意に体育館の窓を開けちゃったせいだと思います。てへ。
そんなこと言ったら機動隊にモッコモコにされた上に友人たちからヘッコヘコにされてしまうので、真相は心の闇の中へと葬りました。
その真相を隠していることに対してちょっと心残りがある。
だって、どうせどこも戸締りされてて開かないと思ってたら開くんだもの。ガラって。いや開いちゃダメだろ、てすぐ閉めたけど。
戸締り忘れた人が悪いと思います。
いや謝れよ。
文章を書きだしても脱線して着地できないのが悪いところ。もっと頑張りま賞。