GW明けてから確実に通勤の電車内の人が増えたと思う。
時差通勤で6時の電車に乗っているにも関わらず増えているのだから、それ以降の時間帯は推して知るべしである。7割戻っているのではないか。
もちろんそれを目の当たりにしているのだから自分も通勤しているわけで、あまり人が増えることに対してどうこう言えた立場ではない。
けれど、未だにマスクもせず電車内でひっきりなしに会話したり咳き込んだりしている輩たちを見ると、所詮クラスターだソーシャルディスタンスだと賢そうな言葉を並べてみてもやっぱダメなんじゃない?と思う。日本語で話したら理解できるというわけでもなさそうだけど。
未だに政府からマスクが届かないのだから、着けていない事に関しては単純に責められるものではないが、なければないで無いなりに少し頭を使って工夫はした方が良いのではないかと個人的には思う。
基本的にはまだ家から出るなよという状況なのだし、どうしても出るのであればせめて被害を広げるような事にならないよう出来る限りの努力するべきだと思う。自粛を迫られ明日も見えず苦しんでいる接客業の人たちや、何か月も家に閉じ込められている子供たちに申し訳が立たない。彼らにこれ以上なにを強いるつもりなのか。
姪っ子や甥っ子たちの境遇は聞くに堪えないというか、痛ましい。高校生に中学生、まだ世界は自分中心に回っていて、恋や遊びに没頭し、悩みは尽きなくとも1度しかない特別な時間を謳歌しているはずだし、謳歌する権利があるはずなのに、その貴重な何ページかがコロナで黒く塗りつぶされてしまったのだ。
こればかりは何が悪いというわけでもないし、時代の巡り合わせとしか言いようがないが、1日も早く彼ら彼女らが日常を取り戻せるよう、もう本当にこれ以上感染者を出さないように出来る限りのことをしなくてはならない。
しかし、こういう状況下においてラインというものは便利なもので、ケンタッキーやらアイスやらのギフトを簡単に送れるのはすごく助かる。
そんなものは何の支えにもなりはしないのだろうが、ほんの少しでも気が紛れるのではないかという淡すぎる期待を込めて。
そんなコロナの陰であまり目立っていないけど、岐阜・長野周辺で先週くらいから起こっている群発地震も怖い。
ようやく回数が減ってきたかな?と思ったら東京湾で起こり始めているし。
もうほんとコロナでHPゼロに近いので、地球さんにもしばらく活動自粛して頂きたいのだが。
頂きたいのだがで頂いていただけるのであれば苦労はない。何もない事を祈るばかりである。
最近のコロナ関連のニュースやら何やら見ててつくづく思うのが、なんでわざわざ英語を使うのか。意味が分からん。
緊急事態宣言を受けても、幸運な事にさして生活は変わらずにいられるような。今のところは。
マスクも金もいらんから、政府にはとにかく仕事したくてもさせてもらえない人たちを救ってほしい。
311の時も思ったけど、いかに「いつもの日常」というものが有難く、またそれがいかに脆いものの上に成立しているのかという事を痛感させられる。
アフターコロニーならぬ、アフターコロナの世界はAI化がますます進むのだろう。
職場の近くに公園とはいえないまでもちょっとした広場があり、昼食を買いに出かける際にその横を通ったが、子供たちが群がってはしゃいでいる。
今は家に籠っているのが望ましいのだろうが、子供は元気に外で遊んでいた方が頑強になるのではないかと思ってしまうのは前時代的な考え方だろうか。病は気からというけれど、ことコロナに関してはそういう精神的な作用でどうにかなるものでないか。
とはいえ、もし自分があのくらいの年頃の時に同じ状況になったとして、大人しく家に閉じこもっていられただろうか。
若い世代が出歩いているニュースを見ても、自分がこの年頃だったら・・・とつい考えてしまう。
しかしもうそんな事を言っている状況でもなく、実際に多くの人が犠牲になっている。
コロナが全ての原因であるが、それによって浮き彫りになるものもある。
無関心さ。
自分さえ凌げればと他はどうでもいい、と生活用品を買い占めるのは他人への無関心さ。
自分は若いからかかっても重症化しないと出歩き、高齢者へ感染させていくのも無関心さ。
無関心さが人を殺す。
しかしそんな偉そうなことを言っていられるのは自分自身が他に守るものも、誰かに必要とされているわけでもない、根無し草のようなものだからではないだろうか。
子供がいて、愛する人がいたら、そんなこと形振り構わず自分の家族の為に我先にと生活用品を確保するのではないか?
さんざん自分だって無関心に生きてきたくせに、今さらええかっこしい事を言うなと自我が責める。
人生に対して もっと大きい信頼を寄せているなら、
おまえたちはこれほど瞬間に身を委ねる事もないだろうに
ニーチェ