遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

能楽資料36 日露戦争風刺謡曲替歌・ポンチ絵

2021年07月14日 | 能楽ー資料

今回は、日露戦争を風刺した謡曲替歌とポンチ絵です。

17.8 x 25.4 ㎝、明治時代(1905年、明治38年頃)

瓦版のようなチラシの類、それとも雑誌の付録でしょうか。一枚のペラッとした紙に印刷してあります。

 

謡曲「高砂」、「田村」のパロディー調替歌が上に・・・

 

下側には、中央の男性を政治家や庶民があざけっています。

 

例の「高砂や・・・」の小謡い(替歌)です。

 剛情流(ごうじょうりゅう)  謡初  春郊 
       高砂
「高砂やこの勝艦に 砲をあげて
 敵ぼろ〳〵に負しほの。艦は旅順の
 嶋かけや。情なきほど打沈み
 早魚の餌になりにけり〳〵」

 

本来の「高砂や・・・」は、こちら。

「高砂や。此浦舟に帆を上げて。此浦舟に
 帆を上げて。月もろともに出で汐の。
 波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖
 過ぎてはや住の江に。着きにけりはや
 住の江に着きにけり

 

謡曲「田村」の小謡い(替歌)です。

「へまも其 名の汚たる泥水の。深き破れも
 数々に。戦争の後手の数々 様々の違ひ
 あまねくて。けにや頑固の露西亜でも。
 今この負を自認して。我等
 は駄目と観念し へこむも
 おろかなるべしや〳〵

本来の謡曲「田村」の小謡いは、こちら。

「今もその。名に流れたる清水の。名
 に流れたる清水の。深き誓も数々に。
 千手の。御手のとりどり様々の誓普(あまね)
 くて。国土万民をもらさじの。大悲の
 影ぞありがたき。げにや安楽世界より。
 今此娑婆に示現して。われらが為
 の観世音あふぐも愚なるべしや。あふ
 ぐも愚かなるべしや。

「高砂」「田村」ともに、パロディー版と本物を較べてみると、他愛のない替歌ではありますが、結構、よくできています。実際に謡ってみると、調子がいいです(^^;

日清、日露と戦争が続いて、当時、日本中が戦勝気分に酔っていました。

しかし、一方で、戦争が続き、兵役、増税、物価高に苦しんでいた人々は、戯れ歌で鬱憤を晴らそうとした側面も否定できません。

日露戦争(1904‐1905、明治37、38年)が終わって、明治38年、ポーツマス講和条約が結ばれましたが、ロシアから賠償金が得られず、人々の不満が高まり、東京では日比谷焼打事件が起きました。

特に、全権特使としてポーツマス講和会議に出席した外相、小村寿太郎は批判の的となりました。

この風刺絵の中央に座っているのは、小村寿太郎でしょう。

右の二人は、民間人だと思われます。

「やヽトッピ〳〵

「ヤア お目出度い
       男だナ 

 

左の燕尾服を着た三人は、政治家だと思われます。

「何んだ
 ヘナチョコめ

「明いた口が塞がぬぞ

「可愛さうに
 一生懸命
          だヨ

中央の男は、羽織を着て、扇子を下方に構えています。これは、素謡いを始めるときの姿勢です。ですから、今回の資料は、謡曲「高砂」、「田村」を謡おうとする小村寿太郎をパロディー化し、嘲笑うものだったのです。小村は、民と官の両方から、総スカンをくっていた訳です。

もう一つ、今回の資料で注目されるのは、「高砂や・・・」です。明治38年頃には、替え歌に登場するほどポピュラーになっていたことがわかります。

江戸幕府によって保護されていた能楽は、明治にはいって滅亡の危機に瀕しましたが、それを乗り越えて能楽は復興しました。明治中期以降には、一般の人の間で、謡曲を愛好者が急増しました。

一方、日本で結婚式が一般化したのも、明治以降と言われています。皇室にならった神道式の結婚式です。謡曲の普及と相まって、先のブログで紹介したような式次第が確立しました。そこで謡われたのは、「高砂や・・・」ではなく、「四海波・・・」です。

ところが、明治38年と思われる日露戦争風刺の替歌謡曲には、「高砂や・・・」が登場しています。この時代には、「高砂や・・・」が人々の間で広く謡われていたことがわかります。謡曲愛好家にとって、「高砂や・・・」は特に愛唱するような魅力がある謡いではありません。とすると、明治後期のこの時期には、結婚式では、もう、「高砂や・・・」の謡いが主になっていたと考えられるのです。

明治時代、謡曲、そして結婚式が普及はじめてから非常に短い期間で、お目出度とは直接関係しない謡い「高砂や・・・」が結婚式の定番となったのです。

なぜそんな事が起こったのか、謎は深まるばかりです(^.^)

 

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能楽資料35 珍品『カード型小謡集』ー徳川忖度の「鉢木」をどうする?ー

2021年07月12日 | 能楽ー資料

明治以降の小謡集6種のうちの残り二つです。

いずれもケース付き。

 

『カード式 獨吟小謡集』観世流改訂本刊行會

観世流の謡本の改革を志した丸岡桂の発行です。

 

小謡いが書かれたカード(8.5x12.3㎝)がぎっしりと入っています。

なかなか珍らしい品です。

最初はやはり「高砂」から。

裏面にも「高砂」。裏表で、No.1のカードです。が、やはり、「高砂や・・・」のくだりはありません。

最終は、No.100のカード。

これなら、手のひらに楽々のせて謡えます。

アイデア商品ですね。さすがに、発明家でもあった丸岡桂の品です(^.^)

 

No.55のカードには、「白髭」と「盛久」が載っています。裏側まで「盛久」です。

ところが、もう一枚、No.55のカードが入っていました。

「盛久」の続きです。しかもペンで手書き(^^; 手慣れた書き方です。出版元があわてて追加したのか、それとも所有者が自分で書き加えたのでしょうか。熱意がつたわりますね。

結局、「盛久」では、No.55が2枚になっています。

 

もう一つの品です。

たいそうなケースに入っています。

発行所などは書かれていませんが、先ほどのカード型小謡集と同じと思われます。

一応、目次が付いています。祝言、仏事など、目的別に分かれています。しかし、Noが振られていないので、バラバラになったら大変です。

先のカードより少し大型(9.0x14.3㎝)です。字が大きくなった分、目の疎い老人にもやさしいカードです(^.^)

やはり、「高砂」が最初に来ます。

「高砂」のカードは4枚(裏表)もあります。が、やはり、「高砂や・・・」の部分は載っていません。

 

このカードで一番面白いのはこれ。

「鉢木」の小謡いです。

人気のある薪の段の最後の2行だけが載っています。

先の『カード式 獨吟小謡集』では、「鉢木」の小謡い自体が載っていませんでした。

 

他の小謡集はどうなっているのでしょうか。

 

『観世流 独吟集』檜常之助、明治44年(初版は36年)。

 

『観世流獨吟小謡集』観世流改訂本刊行會、大正13年。

 

『宝生流獨吟 花月抄』わんや書店、昭和14年(初版は8年)

厳寒の雪の中、旅僧に身をやつした北条時頼をあばら家に迎え入れた佐野常世が、暖をとるべく、大切に育ててきた梅、松、桜を切って、燃やす場面です。

「・・・・・松ハもとより烟(けむり)にて。薪となるもことわりや切りくべて今ぞ御垣守。衛士の焚く火ハおためなりよく寄りてあたり給へや」

最後の部分が変更されています。これは、江戸時代、徳川幕府に忖度し、松平の松を燃やすのは畏れ多いとして、次のように変更されました。

「・・・・・・・松ハもとより常盤にて。薪となるは梅桜切りくべて今ぞ御垣守。衛士の焚く火ハおためなりよく寄りてあたり給へや」

 

それが、明治以降もずっとそのまま続いていたわけです。

ここに紹介した3種の小謡集でも、江戸時代に変更された歌詞が、そのまま載っています。

心ある人々からは、早く元に戻すべきだという声が上がっていたのですが、これらの小謡集が出た昭和初期頃までは、そのままでした。

改訂謡本刊行會を組織した丸岡桂も、早くから不合理を訴えていたのですが、謡本の本文自体を変更することは、観世宗家しかできないことだったのでしょう。上の写真のように、『観世流獨吟小謡集』(観世流改訂本刊行會、大正13年)では、江戸時代以来の忖度歌詞をそのまま載せています。

ところが、2種類のカード型小謡集の一方では、「鉢木」の小謡い自体を不掲載にし、もう一つのカード型小謡集では、

「切りくべて今ぞ御垣守。衛士の焚く火ハおためなりよく寄りてあたり給へや」

と、最後の2行だけを小謡いにしています。

これなら、文句のつけようがありません。丸岡桂の精一杯の抵抗だったのでしょうか。

しかし、この2行では、肝心の謡曲が台なし。何が謡われているのかさっぱりわかりません(^^;

 

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能楽資料34 『謡曲手帖』ー「高砂や・・」は婚礼とは無関係 ー

2021年07月11日 | 能楽ー資料

先回の写真にあった小謡集の一つ、ポケットサイズの品です。

 

『謡曲手帳』吉田書店、大正13年。

謡曲を嗜む人のために、実際的な事柄が書かれています。吉田書店は、能の流儀に関係なく、鼓の本などを出していた出版元です。この手帳にも、◯◯派向けとは書いてないですが、記述内容から考えると、観世流向けの品だと思われます。

素謡い(囃子などが入らず、謡うだけ)の場合の扇の扱い方。

 

謡う時の心得。

 

謡曲の基本的事柄。

 

舞台の作法。

 

さらに、30曲ばかりの小謡集が付いています。

 

おお、「高砂」が・・・

しかし、「高砂やー・・・・」の部分は、どこにも載っていません。

他の頁をくると、「婚礼式場略記聞」との項目があるではありませんか。

結婚式の進行と謡曲との関係が書かれています。

  婚礼式場略記聞  
昔は宮中公卿大妙小名町人等謂ゆる禁裏方及士農工商と各々その家の格式によりて自ら軽重あり。従って婚礼の儀式も様々になりてあり。各々流儀々々により、多少の差異ありしやに承る。近頃は宮中及華族を除きては、先左の二様を心得置けば足れりとす。即ち流名及六ケ敷儀式は略し、他日別に述る處あるべし。(諸礼敷一覧)など見給はばあきらかならむかし。
 ◯正式        ◯略式とす
 正式の方図面     略式の方図面


而して此席上謡ふべきは左の三種とす。古来極りあるもの故、猥りに替へる事はなりがたし。能的注意すべし。
      第一席 夫婦盃 高砂の四海波
      第二席 親子対面 玉井の長き命
      第三席 親族対面 俊成忠則の松の葉
総て祝言謡いは、盃終り、酌人悉く図面に記す一に復し、総立ちに起ち、床に向ひ歩み出したる時、
 (四海波静かにて)と謡い出し、床の前へ行きつきし時(松こそめで度かりける)と謡ひ、元の座に向き直り歩み出したれば、(實にや)と謡ひ、源の座に戻り、正座し礼をなすと同時に、(君がの恵ぞありたき)と納むべし。 

親子の対面の時は・・・・・

親族の時は・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
総じて婚礼の時は、可成聲を和に仕用し、朗々と謡ふべし。而して座敷の都合にて大なる座敷なれば、長永と息を仕用するをよしとす。詰りたるはわろしと知るべし。
 

『小謡集』には、どうして「高砂やー・・・」が載っていないか、その理由がわかりました。祝言のときに謡うべき『高砂』は、「四海波・・・」だったのです。

先のブログで、江戸の小謡集を紹介しました。やはり、「高砂や・・・」が載っている小謡集は少なかったです。いずれ、江戸時代の小謡集もふくめて、『高砂』の小謡いについてまとめたいと思います。

以前、何人かの能楽師の方に、結婚式の高砂について伺ったことがあります。いずれも、うかぬ顔をして、「どこにも目出度い言葉は出てこないし、あまり謡いたくないのだけど・・・」・・・仕事だから、依頼されれば仕方がないのでしょうね。本来は、「四海波静かにて・・・」なのですから。

『高砂』(高砂や・・・・)
高砂や。この浦舟に帆を上げて。この浦舟に 帆を上げて。
月もろともに出汐の。波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖過ぎて。
はやすみのえに着きにけり。はやすみのえに着きにけり。

『高砂』(四海波静かにて・・・・)
四海波静かにて。国も治まる時つ風。枝を鳴らさぬ御代なれや。あひに相生の松こそめでたかれ。げにや仰ぎても。事も疎かやかかる代に。住める民とて豊かなる。
君の恵みぞありがたき。君の恵みぞありがたき。

 

結婚式などで「高砂や・・・」を謡うのは、たいてい謡曲におぼえのある人です。でも実際、この謡いは、素人が謡うには難物なのです。謡曲は、歌と詞とが組み合わさってできています。そして、歌(旋律のある部分)には、柔吟(ヨワ吟)と剛吟(ツヨ吟)の二つがあります。柔吟の旋律は、普通の歌とかなり似ていますから、慣れれば調子よく謡うことができます。しかし、剛吟は謡い特有のもので、音の上がり下がりがほとんどありません。中音と下音の間を行き来するだけです。ですから、それぞれの言葉を、張りのある強い音(必ずしも大きくはない)で押して謡わないと、全く滑稽で惨めなものになってしまいます。実際には、非常に微妙な音の変化も伴うのですが、そのように謡えるようになるまでには、かなりの修練を要します。

同じ剛吟ながら、「四海波静かにて・・・」の方が、「高砂や・・・」より少しテンポが速いので、アラが目立ち難い。その点でも、もし私が謡うなら「四海波静・・」(^^;

 

それにしても、近代(多分、明治時代)に入って、結婚式で「高砂や・・」が定番になったのは、どうしてなのでしょうか。大きく帆をあげて、人生の船出をする二人にふさわしい、では説得力に乏しい(^.^)

 

 

 

 

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能楽資料33 明治以降の小謡集 ー「高砂や~」がない ! ー

2021年07月10日 | 能楽ー資料

今回は、明治以降の小謡集です。

小謡集とは、謡曲の聞かせどころを抜粋して集めたものです。

以前、江戸時代の小謡集を、11種ほど紹介しました。小謡集は、明治以降も盛んに発行されました。それらとの比較も含めて、手持ちの小謡集を、数回に分けて紹介します。

私の手もとには、明治以降のものとしては、6種の小謡集(もしくは、それに相当する物)があります。

 

今回は、右側の3種の小謡集です。

観世流の小謡集が2種、宝生流の小謡集が1種です。いずれも小型で、片手に持って操作できる大きさです。持ち運びを第一に考えてあります。この点は、江戸時代のものより、はるかに優れています。また、江戸時代の小謡本に多くあったような、能にまつわるミニ知識のようなものは一切載っていないのも大きな違いです。実用に徹したといえるでしょう。

古い物から順に見ていきます。

『観世流 独吟集』檜常之助、明治44年(初版は36年)。

訂正者、発行者からしても、当時の観世流の正統謡本をもとにして、抜粋された小謡集といえます。

 

これなら、どこでもさっと取り出して、謡うことができます。

 

最初に高砂、江口、鵜飼・・・と続きますが、どういう順なのか理解に苦しみます。何よりも、目的とする謡いを探すのが大変です。

高砂は、江戸時代の小謡集でも、多くの場合、最初にありました。なぜ高砂なのかよくわかりません。目出度い脇能なら、翁(神歌)の方が適当だと思うのですが。

いずれにしろ、多くの小謡集では、高砂が最初に来ます。

小謡集にしては、元の謡い本から、かなり多くの部分が掲載されています。

が、ここで、ん❓❓

結婚式で定番の、「高砂や、この浦船に帆をあげて・・・・・・・はや住之江に着きにけり」の部分が、どこにもありません

 

もう一つの、観世流小謡集はどうでしょうか。

『観世流獨吟小謡集』観世流改訂本刊行會、大正13年。

観世流の謡本を外から改革するという志をもって改訂本を刊行していった丸岡桂の出版物です。当然、観世流正統の謡本とは異なる、改訂謡本から小謡いを抜粋したものです。

やはり、高砂が最初にきた後、田村、江口、班女、鵜飼・・・と続き、どういう順なのかよくわかりません。

しかし、もうひとつ、いろは順の目次がついています。これなら使い勝手がよいです(^.^)

では、「高砂」はどうなっているのでしょうか。

「高砂」の小謡いには、やはり、「高砂や・・・・・」の部分は載っていません。

 

3つ目の小謡集は、宝生流です。

『宝生流獨吟 花月抄』わんや書店、昭和14年(初版は8年)

目次が、他のものと違います。あいうえお順です。さらに、()の中に、小謡いの出だしの文句が書かれています。これは使いやすそうです。

「高砂」の小謡いです。

やはり、「高砂や・・・・」はありません。

謡いと言えば、高砂やが浮かびます。一番広く知られている謡いではないでしょうか。特に結婚式にはつきもの。小さい頃から、たくさんの「高砂や・・・」を聞いて(聞かされて)きました(最近はこういう結婚式自体が稀(^^;)。しかし、小謡集には載っていません。

『小謡集』は、手軽に持ち運べる謡いの簡易テキストです。いろいろな催しの際に、さっと謡うには便利です。特に結婚式。そこで定番の「高砂や・・・」が載っていないのは大変不思議です。

残りの小謡集を手掛かりにして、この謎に挑戦したいと思います(^.^)

 

 

 

 

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能楽資料32-4 『謡曲大観』別巻

2021年07月05日 | 能楽ー資料

佐成謙太郎『謡曲大観』別巻(最終巻)です。

この巻は、『謡曲大観』全7巻の最終巻ですが、ボリュームは他の6巻とほぼ同じです。

この別巻には、蘭曲曲舞集と謡曲語句総覧の二つが収められています。

世阿弥は謡曲を、祝言、幽曲、恋慕、哀傷、蘭曲の5つに分類しています。そして、蘭曲は、他の4種の上位にあり、最高の芸位に達した者が自在な境地で謡う最も美妙な闌(た)けたる曲であると言っています。

 

能楽5流のうち、蘭曲の謡本を刊行しているのは、観世、宝生、喜多の3流です。この巻では、57曲を集録しています。そして、各曲について、3流のどの流派にあるかを◎で示し、由来の完曲名、作者とともに、一覧表にしています。

各曲は、いずれも短いものですが、その表記の仕方は、一巻から五巻までの謡曲についての方法と同じです。

 

まん中に、謡いの本文。

 

上欄に、難解語句の説明。

 

下欄に、口語体訳。

蘭曲集が現代口語体に訳されたのは、佐成謙太郎『謡曲大観』が最初です。

 

別巻のもう一つは、謡曲語句総覧です。

別巻の大半を占め、380頁もあります。

著者は、一巻から五巻までに掲載した337番の現行謡曲について、詳細な語句集を編んでいるのです。拾いあげた語句は、曲柄に関する事項、術語に関する事項、固有名詞、引用句、謡曲慣用語句・特殊文法、狂言詞など多岐にわたっています。これらを、五十音順に並べ、その語句が使われている謡曲名と謡曲大観五巻中の掲載頁が記されています。

 

謡曲語句総覧は通常の書籍の索引に相当するものですが、ここまで徹底して体系的に語句が集められると、単なる索引の域を越え、謡曲のデータべースとしても利用可能です。

 

 

「老」や「恋」で始まる語句は約1頁分。

 

「心なき・・・」「心の・・・」など、「心」で始まる語句は2頁にわたっています。

 

「神の・・」「神は・・」などの語句は、3頁の分量があります。

 

「月に・・」「月も・・」などは、3.5頁。

 

「花」ではじまる語句は、4頁と最多です。

以上、謡曲の中の語句の出現頻度を単純に比較してみたわけですが、謡曲(能)というものの成り立ちや性格がある程度浮かんでくると思います。

 

ブログで通算4回にわたって、佐成謙太郎『謡曲大観』を紹介してきました。これほどの大作を、一人で書き上げた事にはただ驚くばかりです。しかも、「書き上げるのに、さほどの年月を必要としなかった」(序文)と述べているのは、さらに驚きです。

著者の佐成謙太郎とは、どのような人なのでしょうか。

佐成謙太郎(さなりけんたろう、1890年5月23日-1966年3月4日)は、国文学者。滋賀県出身。京都帝国大学文学部卒。1924年女子学習院教授。戦後大東文化大学教授、鎌倉女学院理事長。中古・中世文学を専門とし『謡曲大観』全7巻、『対訳源氏物語』の業績がある。(Wikipediaより)

 

『謡曲大観』につづいて、『対訳源氏物語』を著わしています。全謡曲の口語訳だけではなく、源氏物語も対訳しているのです。この人は、大作に挑戦するのが得意なのでしょうか(^^;  『対訳源氏物語』は、『謡曲大観』と似た構成です。源氏48帖を、第一巻から第七巻に訳出し、八巻目の別巻には、源氏物語の概説、人名辞典、系図、年表、図録がまとめられています。あまりにも複雑な源氏物語ですが、この別巻を読めば、相当スッキリすると思います。とりあえず、別巻だけでも読むことにしましょう(^.^)

 

もう一つ驚いたのは、「夢幻能」という言葉を、佐成謙太郎が最初に使ったという事実です。

能は、現実の人間だけが登場する能と霊的な存在が主人公の能の二つに分かれます。
後者の能、即ちシテが霊的存在の能の多くは、前段と後段の二部構成です。まず、諸国をめぐる僧がある場所にやって来ます。すると、その地に住む謎の人物(里の女や老人)がやってきて、その土地にまつわる物語や自分の身の上を語り、去って行きます。
その夜、僧が亡き人霊を弔っていると、先ほどの人物が幽霊の形で再び現れ、ありし日の自分を回想し、舞いをまい、夜が白々と明ける頃、幻の様に消え去ります。と同時に、僧は夢からさめるのでした。

・・・井筒、江口、野宮、花筐、半蔀、夕顔、松風、忠度、敦盛・・・

このタイプの能は、世阿弥が最も得意とするもので、人間の内面を描きだし、掘り下げます。しみじみとした情感の中に、人間というものを深く省察させてくれる、能らしい能です。

このような能に対して、「夢幻能」という言葉をつくり出したのが佐成謙太郎です。大正15年11月15日、『国文学ラジオ講座』「能楽の芸術的性質」の中で、はじめてこの言葉を使ったと言われています(田代慶一郎『夢幻能』朝日新聞社)。そして、昭和5年、『謡曲大観』首巻『能楽総説』の中で、夢幻能について、詳しい解説を加えています。

 「夢幻能」という言葉は、能の本質を直感的に理解できる語句です。そして、私たちは、「夢幻能」の舞台、或いは、その脚本である謡曲を触媒にして、幽玄の世界を自分の内につくることができるのです。

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