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これまで、岐阜市の古い地図を紹介してきました。
岐阜といえば、長良川の鵜飼です。
今回の品は、明治初期の鵜飼の様子を描いた浮世絵です。
辻万峰画。29.2㎝x51.3㎝。木版多色刷。明治15年。
当時の長良川鵜飼の様子が描かれています。
鵜匠、船頭、篝火、鵜など、現在とほとんど同じです。
中央の山は金華山(稲葉山)、家々(上図、上右)や遊覧船から伸びた放射上の筋は、川面に映った光です。
上図では、右上方と左上方の両方に川があるように見えますが、左が本川、右はワンド(現在もある)です。
烏鬼は鵜飼の別名。
夜景なので、黒々とした山裾に、家の灯りがほのかに見えます。
篝火のはじける音や鵜の鳴き声が聞こえて来るかのようです。
「明治十五年七月三十一日御届 同八月 著者人 辻宗一郎(万峰) 同縣方縣郡長良村二番地 出版人 岐阜縣平民 伊藤儀助 同縣厚見郡フモト郷八番地 定價三銭五厘」
注目されるのは、図の左方の橋(現在の長良橋)です。
明治15年の時点では、まだ、船を繋いだ上に板を敷いた橋であることがわかります。
今回の浮世絵を、先日の『美濃 岐阜市街全圖』(明治15年)と照合するとよくわかると思います。
今回の浮世絵は、地図の矢印の方向から鵜飼の情景を描いています。矢印の先にある水路が、ワンドです。この地図が描かれた当時、ワンドには、小さな橋が二つ掛かっていたことがわかります(現在は埋立)。上方の橋(赤矢印)は、浮世絵の橋(現、長良橋)、下方の橋は現在の忠節橋、いずれも木製で、船を繋いで上に板を張った物です。
浮世絵『美濃國長良川烏鬼行圖』に戻ります。川岸に建つ立派な建物は、料理旅館、十八楼です(現在も営業)。その上方には、芭蕉の句が書かれています。
「十八楼 このあたり めにみゆるものは 皆涼し はせを翁」
貞享5年(1688)夏、芭蕉が、油商、賀島善右衛門(俳号、鴎歩)に招かれ、長良川を臨む水楼で詠んだ句です。高楼から眺めた景色が、中国の名勝、瀟湘八景や西湖十景になぞらえて、十八楼と名付けました。その様子を、「十八楼之記」に記しています。
「十八楼之記」
美濃の国長良川にのぞんで水楼あり。あるじを賀島氏といふ。稲葉山うしろに高く、乱山西にかさなりて、近からず遠からず。田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。さらし布ところどころに引きはへて、右に渡し舟うかぶ。里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひこめたり。もしこの楼に名を言はむとならば、「十八楼」とも言はまほしや。
このあたり目に見ゆるものは皆涼し はせを
貞亨五仲夏
芭蕉が鵜飼を見物した水楼は、現在は残っていません。おそらく、見物席を備えた小高い造りの建物であったでしょう。今回の浮世絵に描かれた十八楼は、万延元年(1860)年に創業され、現在に至っています。この浮世絵は、十八楼が土産として作った物のようです。
この浮世絵や地図に描かれている長良川の大きなワンドは、その後、かなり埋め立てられました。残った小ワンドは、鵜舟を繋いでおく船溜まりとして現在も姿をとどめています。その横には、鵜飼観覧船乗船場や料理旅館十八楼があります。300年以上経っていますが、芭蕉の詠んだ情景を今に呼び起すことができます。
良い浮世絵ですね!描かれている人物がかわいらしいです。
その浮世絵に描かれている舟橋から当時の地図と照合するとは前回は伏線だったのですね!(^^)
蒐集品も繋ぎ合わせるといろいろな情景をみせてくれますね。
それをしっかり解釈して解説し言葉にできる遅生さんがすごいのですが(^^;)
蒐集品も喜んでいそうですね(^^)
描写が細かいですね! 篝火など、どうやればこのように表現できるのかな~と感心します(^-^*)
芭蕉が訪れて句を詠んだ時から300年以上が経つのですね。
でも、芭蕉の詠んだ情景を今でも呼び起すことができるのですね。
この地は、それほど大きく変わってはいないのですね。
ところで、この浮世絵が摺られてからも140年以上が経つのですね。この浮世絵は、その中間時点でも、300年以上前と変わっていないことを証明しているわけですね。
明治になったとはいえ、この頃はまだ、江戸の情緒が多く残っていたのだと思います。
この頃はまだ、浮世絵関係の職人は健在だったので、技術は確かです。ただ、色使いは、明治の調子ですね。それと、和紙が江戸の物より、だいぶ、分厚くなっています。
明治の浮世絵は、今ではほとんど評価されませんが、歴史の記録物としては貴重ですね。
日本では長良川の鵜飼いが有名ですが、ご存じかも知れませんが、起源は長江下流だそうです。個々の人々が倭人と呼ばれていたようです。それが日本人のルーツのひとつのようです。長良川はナーガ、つまり龍蛇神を信仰する人々がつけた名前ですので、とても興味深く拝見させていただきました。また珍しい骨とう品を教えて下さい(#^.^#)
貴ブログで、いつも古代史について深く勉強させてもらっています。
鵜飼の歴史は相当古いようですね。
日本独自にあみ出したとの説もありますが、やはり、中国をルーツだと考えるのが妥当だと思います。
いずれにしろ、どうやってこれを考えついたのか、驚きです。