遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

高札と高札場の行方

2023年06月07日 | 高札

先回のブログで、日本の高札制度があっけなく終了したことを書きました。では、高札制度廃止後の状況は如何であったのでしょうか。
明治6年2月末に、高札撤去の太政官布告が出た翌月、各縣令は高札撤去の布達を出しました。しかし、それらは統一されたものではありませんでした。高札や高札場の処置について、明治政府から明確な指示がなかったのでしょう。明治政府にとって、高札の始末など、どうでもよい事であったのかもしれません。

岐阜縣の場合、次の布達を出しています。


明治六年三月(日付無し)岐阜県令布達 第三十一号 
「掲示高札取除キ右跡ヘ御布告並達書類ヲ掲示セシム」


「五榜の掲示を取り除き、その後の高札場には、布告や布達などを掲示せよ」
との布達です。太政官布告と同じく、高札の処置については何も述べていません。

一方、栃木縣では、全く異なった対応をしています。
 

杤木縣令布達書、明治六年第廿三號  15.2㎝x22.1㎝、5丁。

『太政官布告』や『内外新報』と同じ体裁です。活版印刷で糸綴じである点が異なっています。      

「先般諸御布告書掲示其外之儀ニ付御達有之候就テハ左之通可相心得事
一各村町宿ニ有之従来ノ高札場ハ自今張出場ト可相心得事
 但是迄高札場脇ヘ別ニ張出場ヲ拵ヘ有之文取除候儀ハ可勝手事
一是迄ノ高札取除候上ハ戸長副立合ノ上一切可致焼却事
 但焼却致シ候上ハ其段可届出事
(読み下し)
先般、諸御布告書掲示其ノ外ノ儀ニ付キ、御達コレ有リ候。就テハ左ノ通リ相心得ベキ事
一各村町宿ニコレ有ル従来ノ高札場ハ、自今、張出場ト相心得ベキ事
 但シ、コレ迄高札場脇ヘ別ニ張出場ヲ拵ヘコレ有る文取リ除キ候儀ハ、勝手スベキ事
一コレ迄ノ高札取リ除キ候上ハ、戸長副立合ノ上、一切焼却致スベキ事
 但シ、焼却致シ候上ハ、其ノ段届出スベキ事

 「これまでの高札は、戸長、副戸長立ち会いの下で、すべて焼却せよ」というのです。しかも、「焼却したら、届け出よ」とまで述べています。
このように2つの県の対応には、非常に大きな違いがありますが、その理由は不明です。
両県ともに共通しているのは、高札場の処置についてです。従来の高札場を壊すのではなく、各種掲示物を張り出す場所として活用するのです。

杤木縣の布告には、高札場の役割が、高札の掲示から布達書の掲示に変わるにあたっての触れ書きが続いています。

 一以来御布告書張出シ候ハ、三十日間ヲ不過
内ハ次ノ御布告書ヲ其上へ張掛掩蔽候儀ハ
不相成前二掲示有之分ノ地ヲ避ケ其下段或
ハ右傍へ相掲ケ可申事
一御布告書之儀是迄多クハ張下ケ二致シ候様
相見へ候處自然風雨等二被曝反張破裂文字
難相辨廉モ有之二付以来ハ紙ノ大サニ適シ
候板ヲ拵へ置紙ノ下二糊シ堅固二貼付候
伹塗板等相用ヒ候儀ハ其地ノ可為便宜事
一司法省壬申第四十六號御達ノ儀ハ己二相掲
ケ有之候トモ緊要ノ事二候条更二大字二書
寫致シ張出場第一上段歟二相掲ケ可申事
一近来御布告書張出方等閑遂二其侭閣キ候歟
或ハ遷延致シ候向モ有之哉二相聞へ甚以不
相済事二候条以来ハ尚一層注慮致シ及布達
候次第何事二不限早速張出シ候様可致事
右之通相達候条可得其意モノ也
   明治六年三月    杤木縣令鍋嶌幹

(読み下し)
一以来御布告書張出シ候ハ、三十日間ヲ過キヌ
内ハ次ノ御布告書ヲ其上へ張掛掩蔽(えんぺい)候儀ハ
相成ラズ。前二掲示コレ有分ノ地ヲ避ケ其下段、或
ハ右傍へ相掲ケ申スベキ事。
一御布告書之儀コレ迄多クハ張下ケ二致シ候様
相見ヘ候處、自然風雨ナドニ被曝シ、反張破裂文字
相辨ジ難キ廉(かど)モコレ有二付、以来ハ紙ノ大サニ適シ
候板ヲ拵へ置キ、紙ノ下二糊シ堅固二貼リ付ケ候。
伹シ、塗板等相用ヒ候儀ハ、其ノ地ノ便宜為スベキ事。
一司法省壬申第四十六號御達ノ儀ハ、己(すで)二相掲
ケコレ有リ候トモ、緊要ノ事二候条更二大字二書
寫致シ、張出場第一上段カ二相掲ケ申スベキ事。
一近来、御布告書張出方等閑(なおざり)遂二其侭(そのまま)閣(開?)キ候カ、
或ハ遷延致シ候向モコレ有ル哉二相聞へ甚ダ以ッテ
相済マヌ事二候条、以来ハ尚一層注慮致シ及ビ、布達
候次第何事二限ラズ早速張出シ候様致スベキ事。
右ノ通リ相達シ候条其意得ルベキモノ也
   明治六年三月    杤木縣令鍋嶌幹

掩蔽(えんぺい):覆い隠す
廉(かど)モ:いきさつも

このように、高札場に紙の布達書を張り出す場合の要領や注意点を事細かに指示しています。


しかし、その後、各地の高札場は次第に使われなくなり、やがて壊されて、現存する物はほとんどありません。その理由は、高札場が街道筋の一等地に設置されており、その後の道路拡幅や開発などにより、取り壊されていったからだと思われます。
また、明治6年3月5日の司法省布達第27号により、諸令は、地方裁判所前、戸長宅前、県庁門前前などに掲示することになった事も、高札場が衰退していった理由にあげらるでしょう。

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高札制度の廃止

2023年06月05日 | 高札

明治6年2月24日、太政官布告 第六八号(明治5年以降、布告は各年度毎に通番)で、次のような布告が府縣に向けて発令されました。 
 「布告発令毎二三十日間便宜ノ地ニ掲示シ並ニ従来ノ高札ヲ取除カシム」
これによって、徳川幕府以来300年以上続いた高札制度は終わりました。しかも、五榜の掲示発布時の意気込みとは異なり、ひっそりと、むしろ、こっそりと終えたのです。


布告の文面は次の通りです。
「自今諸布告御発令毎ニ人民熟知ノ為メ凡三十日間便宜ノ地ニ於テ令掲示候事
  但管下ヘ布達ノ儀ハ是迄ノ通可取計従来高札面ノ儀ハ一般熟知ノ事ニ付向後取除キ可申事」
(読み下し)
自今、諸布告御発令毎ニ、人民熟知ノ為メ、凡ソ三十日間便宜ノ地ニ於テ掲示セシメ候事。
  但シ、管下ヘ布達ノ儀ハ是迄ノ通リ、取計ウベシ。従来高札面ノ儀ハ、一般熟知ノ事ニ付キ、向後取除キ申スベキ事。
(意訳)
今後、諸々の布告は、人民が熟知するよう、発令ごとに、約30日間、適切な場所に掲示すること。但し、管下への布達は、これまで通り取り計るようにせよ。従来の高札の文面は、広く熟知されているので、今後、取り除く事。

この太政官布告は、二つの内容から成っています。
1.これから発する布告は、30日間、適切な場所に掲示する事。
2.これまでの高札は取り除く事。
高札を廃止することを、付け足しのように、後に持ってきています。高札廃止の事実を、少しでも薄めようとしたのでしょう。
さらに、高札撤去の理由を、「一般熟知ノ事ニ付」としています。切支丹厳禁を含め、「高札の内容が一般民衆に周知されたから撤去する」というのです。強弁、詭弁の類と言われても仕方ありません。それとも、撤去しても五榜の掲示の精神は生きている、と本気で思っていたのでしょうか。
高札制度廃止の理由は、もちろん、「一般熟知」のためではありません。五榜の掲示が新しい時代に合わなくなったこと、切支丹禁制などに対する諸外国の反発、さらには印刷技術の発達などが考えられます。
いずれにしても、明治政府の富国強兵政策にそぐわなくなってきたことは間違いありません。

このように、強引に決めた政策がうまくいかなくなった時、苦しい言い訳を添えて、そっと幕引きすることは、時代が変わってもよくあります。

国会で、黄色い声で「ニッキョーソ、ニッキョーソー」と唾を飛ばしながら叫んでいた、あの安屁¨元総理。2007年6月、改正教育職員免許法を強引に成立させ、教員免許更新制度を2009年4月1日から導入しました。教員免許に有効期限を設け、更新延長するために、10年に1度の更新講習を義務付け、その費用を教員に払わせるというものです。安屁¨元総理の薄い頭が、生長の家残党や神社本庁の戦前回帰策で洗脳された結果でしょう。今から思うと、統一狂会が一枚かんでいたのですね。なにしろ、洗脳ですから(^^;  気にくわんヤツラを締め上げてやれ、ということでしょうか。更新制度を医師免許にも導入するならわかります。でも、献金&集票マシーン、医師会の御意向を無視するはずがありません。
さて、件の教員免許更新制は大不評。当然ながら、この頃から、教職の人気は急降下。おまけに、子供を縛りつけるはずの部活が、教師も縛る。ブラック労働が敬遠されて、教員志望の学生も急減し、教員確保もままならない事態になってしまいました。これでは学校が立ちいかない。さすがに文部省はあわてて免許更新制を再検討。2022年5月、教員免許更新制度は廃止されました。この時の文部大臣は、安屁¨元総理の子飼い、萩生田光一。皮肉なもんですね。萩生田センセー、統一狂会のお許しは得たのでしょうか(^^;

 

教員免許更新制の廃止について、文部省のホームページには次のような文面が出ています。


 「教育公務員特例法及び教育職員免許法の一部を改正する法律」が成立
5月11日(水曜日)
教育
  5月11日、参議院本会議において、今国会に提出していた「教育公務員特例法及び教育職員免許法の一部を改正する法律案」が可決、成立しました。
  本法律は、公立の小学校等の校長及び教員の任命権者等による研修等に関する記録の作成並びに資質の向上に関する指導及び助言等に関する規定を整備し、普通免許状及び特別免許状の更新制を発展的に解消するものです。
  グローバル化や情報化の進展により、教育を巡る状況の変化も速度を増しています。このような中で、教師自身も高度な専門職として新たな知識技能の修得に継続的に取り組んでいく必要が高まっています。また、オンライン研修の拡大や研修の体系化の進展など、教師の研修を取り巻く環境も大きく変化してきました。
  このような社会的変化、学びの環境の変化を受け、令和の日本型学校教育を実現するこれからの「新たな教師の学びの姿」として、主体的な学び、個別最適な学び、協働的な学びが必要であると考えております。
  今後、本改正を踏まえ、個々の学校現場や教師のニーズに即した新たな研修システムを整備するとともに、文部科学大臣が定める教師の資質向上に関する指針の改正や、それに基づくガイドラインを新たに策定することを予定しています。
  なお、教員免許更新制の解消に伴う、施行日(※)までにお持ちの教員免許状の取扱いについても、別途分かりやすく周知する予定です。
  全国で「新たな教師の学びの姿」が構築できるよう、現場の先生を含む関係者や関係団体の皆様の御意見も伺いながら、文部科学省として必要な取組を着実に進めてまいります。

ダラダラとした文面はほとんど言い訳の羅列です。

中味はここ☟
『 本法律は、公立の小学校等の校長及び教員の任命権者等による研修等に関する記録の作成並びに資質の向上に関する指導及び助言等に関する規定を整備し、普通免許状及び特別免許状の更新制を発展的に解消するものです。』

内容は二つ。
1.公立の小学校等の校長及び教員の任命権者等による研修等に関する記録の作成並びに資質の向上に関する指導及び助言等に関する規定を整備する。
2.普通免許状及び特別免許状の更新制を発展的に解消する

『発展的に解消する』とは笑わせますね。
どうでもいいことを最初に持ってきて、その後にくる本題への注目をそらす ・・・・・・・・
クズ政治家や官僚の姑息なやり方は、明治初期から150年以上たった今も変わらないのです。

 

 

 

 

 

 

 

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五榜の掲示の変遷

2023年06月01日 | 高札

これまで、何回かにわたって、五榜の掲示について書いてきました。そして、明治初期という激動の時代を反映して、五榜の掲示をめぐる情勢は、発布から撤去までの6年間にめまぐるしく変化しました。主なものは、次の4つの布告によるものです。


1.五榜の掲示発布
 慶応4年3月15日 太政官布告 第百五十八号
『諸国旧来ノ高札ヲ除却シ定三札覚二札ヲ掲示ス』
 
2.第二札『切支丹禁止』の改訂
 慶応4年閏4月4日 太政官布告 第二百七十九号
『切支丹宗門及ヒ邪宗門禁止ノ制札ヲ改ム』
 
3.第五札『郷村脱走禁止』の撤去
 明治4年10月4日 太政官布告 第五百十六号
『戊辰三月掲示ノ高札中第五札ヲ取除カシム』
 
4.五榜の掲示の撤去(高札制度の廃止) 
 明治6年2月24日 太政官布告 第六八号
『府縣ヘ 布告発令毎二三十日間便宜ノ地ニ掲示シ並ニ従来ノ高札ヲ取除カシム』
  
このうち、1.五榜の掲示発布と2.第二札『切支丹禁止』については、すでにブログで詳しく見てきました。
今回は、3.第五札『郷村脱走禁止』の撤去を取り上げます。実際の掲示時期がはっきりしないこと、地域や掲示時期による違いがあること、第三札『切支丹禁止』の条文が最初の発布からすぐに変更されたことなど、五榜の掲示については、不明な点や意外な出来事がいろいろあります。
しかし、高札が途中で撤去となったのは、第五札『郷村脱走禁止』の撤去以外にはありません。

 第五札『郷村脱走禁止』を再度載せます。

(意訳)
覚 
王政御一新であるので、速やかに、天下は平定され、万民が安心して暮らせるようになった。そのことを、よくわきまえるよう思い煩っておられる。ついては、この時節、天下浮浪の者がうろつくようではならぬ。今日の形勢を窺い、士民達が勝手に本国(郷土)を脱走することは堅く禁じられている。万一、脱国を致す不埒者がいた場合は、主宰者の落ち度となるであろう。
  ただ、この御時節であるので、身分の上下に関係なく、皇国の為や主家の為などに建言を行う者は、その提言を採る道を開き、公正な立場で、その考えを聞き、郷土出国の願い出を、太政官(役所)へ、申し出ることができる。
  ただし、今後、武士の奉公人はもちろん、農民、商人の奉公人に至るまで、すべて雇用を行う時は、出身地をしっかりと調べよ。もし、脱郷者を雇い、とんでもない事態に至った場合には、雇用主の罪となろう。
   明治元年三月  太政官

 

明治4年10月8日、この第五覚札は、突然撤去されました。廃藩置県の三か月後です。
その時の太政官布告には、
  「去ル戊辰三月中掲示候高札之内第五覚札自今可取除事」
とあり、「高札を除去せよ」と言うだけで、その理由は全く述べられていません。
明治2年6月17日の版籍奉還を経て、明治4年7月14日には廃藩置県がなされており、幕藩時代の政策を引き継いだ郷土脱走禁止令は、もはや意味をもたなくなってきたのでしょう。なお、岐阜縣の発足は、明治4年7月14日(先行する笠松縣は慶応4年5月13日)です。
この第五札は、王政復古をとなえる新政府が出したものですが、王政復古の理念と藩政に依拠した郷土脱走禁止令とは、もともと相容れないものでした。高札の文面では、脱国禁止について、「天下浮浪の者がうろつくと平和な世が乱れる」と苦しい理由付けをしています。その一方で、「新時代に入ったので、前向きに生きようとする者には、提言を聞き入れ、出国を認める」とも言っています。さらにその後に、「浮浪者を雇った者は処罰する」と述べています。
このように、第五札の内容自体が、行きつ戻りつを繰り返す矛盾に満ちた妥協の産物であり、このまま掲示を続けることは、いずれにしろ難しかったのでしょう。ですから、理由も述べずに撤去となったと思われます。

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幕末新聞『内外新報』4.幕府側の記事

2023年05月28日 | 高札

今回は、幕末に発行された新聞『内外新報』の幕府側の動向を伝える記事です。

   〇四月二日御触書
此度一橋殿田安殿御連名之御歎訴状一橋殿御持参東海道官軍大総督宮御方江御参上且若年寄大目付御目付共同様為歎願罷出候処 上様御恭順御謹慎之御誠意相顕レ候二付而者寛大之 思召を以 御沙汰之品御先鋒総督より 勅錠を以可被 仰出候段被 仰渡候 ニ付而は何レも此上兼而之御趣意厚ク相守弥相慎候可致候

(読み下し)
此の度、一橋殿、田安殿、御連名の御歎訴状、一橋殿御持参し、東海道官軍大総督宮御方へ御参上、且、若年寄、大目付御目付共、同様歎願をなし、罷り出候処、上様御恭順、御謹慎の御誠意相顕レ候に付きては、寛大の思召を以って、御沙汰の品、御先鋒総督より勅錠を以って仰せ出らるべく候段、仰せ渡せられ候ニ付ては、何レも此の上かねての御趣意厚ク相守り、いや相慎み候致すべく候

鳥羽伏見の戦いで幕府側が敗退した後、江戸へ帰った慶喜は、新政府側へ恭順の意を度々顕し、上野寛永寺で謹慎していました。四月二日付けのこの御触書は、新政府側が江戸城へ入る直前に出されたものです。御三卿のうち、一橋茂栄、田安亀之助が連名の嘆願書を東海道官軍大総督へ提出した事を述べています。田安は幼少であったので、実際には、一橋茂栄が中心となり、事を運びました。一橋茂栄は、美濃高須藩の出身、高須四兄弟として知られる俊英の一人です。兄は、尾張藩主となった徳川慶勝、二人の弟は、最後の会津藩主、松平容保と最後の桑名藩主、松平定敬です。いち早く新政府側についた長兄、徳川慶勝に対し、松平容保と松平定敬は、幕府方の強硬派となります。一方、慶喜に代わって一橋家を継いだ一橋茂栄は、徳川家存続のために東奔西走します。そして、慶応四年三月と四月の二度、静岡の大総督宮(有栖川宮熾仁親王)府に赴き、嘆願書をわたすのです。高須四兄弟の中では一番地味な茂栄ですが、歴史の裏舞台で活躍しました。
この御触書は、誰の名前で出されたのか、不明です。しかし、「一橋殿田安殿御連名之御歎訴状」や「上様御恭順御謹慎之御誠意」とありますから、幕府側が出した触書であることは間違いないと思います。

続いて、『内外新報』第二號(慶応四年四月十三日発行)には、こんな記事が載っています(最初の2記事)。

内外新報第二號   慶應四年四月十三日

    〇四月五日御触書
此度被 仰出候勅錠之趣御拝承被成候二付上様来
ル十日御巌途水戸表江被為入候此段向々江可被相
達候

(読み下し)
此の度、仰せ出され候勅錠の趣、御拝承なされ候に付き、上様来る十日御厳途水戸表へ入りなされ候、此の段向々へ相達し候

慶応四年四月四日、東海道鎮撫総督・橋本実梁が勅使として江戸城に入城し、田安家の徳川慶頼に対し、慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を命じる朝命を申し渡しました。これを受けて、四月十日に、慶喜は水戸へ帰り、謹慎することになったわけです。実際には、慶喜の体調不良(下痢)により、水戸行きは翌日、十一日となりました。しかし、水戸は政情不安定であったため、慶喜は七月十日に駿府へ移りました。そして、静かに余生をすごすことになります。

 

   
昨四日 勅錠之趣二付 御城内御櫓並御多門且ッ
御殿諸役所早々取片付来ル九日御目付江引渡可被申候
但し御門番並御廣處勤番之向ハ来ル十一日明番迄
    可被相結候事
右之趣向々江早々相達候

(読み下し)
昨四日、勅錠趣に付き、御城内御櫓並びに御多門且つ御殿諸役所、早々取り片づけ、来る九日、御目付へ引き渡し申さるべく候
  但し、御門番ならびに御廣處勤番の向きは、来る十一日明番まで相結ばるべく候事
右の趣向々へ早々相達し候  

先にみたように、四月四日に東海道鎮撫総督が勅使として江戸城に入城し、旧幕府側に江戸城開城などの和平条件を提示しました。そして、慶喜が水戸へ下った四月十一日、東征軍が江戸城に入城し、実質的な江戸城開城がなされました。この時、江戸城の管理を任されたのが、徳川義勝の尾張藩だったのです。そして、新政府軍が各門を固めることになりました。この触書は、その時のスケジュールを述べたものです。やはり、幕府側が出した御触書です。

このように、『内外新報』は、幕末激動期の出来事を、新政府側、幕府側のどちらにも偏ることなく、リアルタイムで人々に伝える役目を果たしていたと言えるでしょう。

さらに、『内外新報』第一號には、こんな記事も載っています。

 〇館内へ張出シ候寫

今般 王政御一新ニ付 朝廷之御條理ヲ追ひ外國御交際
之儀被 仰出諸事於 朝廷直ニ御取扱被為成萬國之公法ヲ
以テ條約御履行被為在候ニ付ハ全國之人民 叡慮ヲ奉
戴シ心得違無之様被 仰付候自今以後猥ニ外國人ヲ殺
害シ或ハ不作法之所業等致シ候者ハ朝廷ニ悖リ
御國難ヲ醸成シ候而已ならす一旦 御交際被 仰出候各國
へ對し 皇國之 御威信も不相立次第甚以不届至極
之儀ニ付其罪之軽重ニ随ヒ士分之者と雖削士籍至當
之典刑可被処候条銘々奉 朝命〇暴行之所業無様
今度被 仰出候事
  三月

「館内に張り出された写し」とあります。「館内」とは、どこを指すのでしょうか。2、3の語が異なってはいますが、これは、慶応四年三月十五日に出された五榜の掲示第四札「万国公法尊守」そのものです。「王政御一新につき・・・・」とはいえ、これは新政府側が出した民衆向けの触書きに間違いありません。それを、幕府側の新聞『内外新報』が載せているのです。

このように、幕末、戊辰戦争時のさ中に、幕府側の海軍会社によって発行された『内外新報』は、新政府側、幕府側、いずれの動向も別け隔てなく掲載していました。しかし、江戸を制圧した新政府側にとって、それでは気にくわなかったのでしょう。慶応四年六月には発行禁止となり、短い使命を終えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幕末新聞『内外新報』3. 甲鉄船ストンウォール号

2023年05月26日 | 高札

戊辰戦争のさ中、江戸で佐幕派が創刊した新聞『内外新報第一號』の続きです。先回は、江戸城無血開城が決まった後、新政府側の海軍先鋒隊が、江戸の入り口、品川宿に着陣した様子を伝える記事を紹介しました。今回は、その次の記事です。

       右側、3行。

   〇
慶應三卯年七月廿六日小笠原賢蔵岩田平作装鉄船へ
乗込亜米利加「コスポート」海軍所を出帆し同四辰年
四月二日横濱江着帆す

「慶應三年七月二十六日に、小笠原賢蔵、岩田平作が装鉄船に乗り込み、アメリカ・コスポート海軍所を出帆して、慶應四年四月二日に横浜へ着いた」という簡単な記事です。

しかし、この記事は、その後の戊辰戦争、さらには明治海軍の動向を左右する極めて大きな意味をもっていたのです。
戊辰戦争で次第に劣勢になっていった幕府側ですが、海軍力には早くから力を入れていました。慶應二年、幕府がオランダに発注していた軍艦、開陽丸が完成し、翌年四月には横浜に到着して、榎本武揚が軍艦役となりました。
海軍増強の必要性を痛感していた徳川幕府は、さらなる軍艦を調達、補充するため、慶應三年一月、勘定吟味役、小野友五郎を代表とする使節団を米国に送りました(福沢諭吉も通訳として参加)。アメリカ各地を巡る中、主要な部分を厚い鉄板で覆った装鉄船「ストーンウォール号」を見つけ、購入契約を結びます。そして、後に甲鉄船とよばれたこの船に、幕府海軍方軍艦組一等、小笠原賢蔵、岩田平作の二人が乗り込み、日本へ帰国するのです(今回の記事)。


その後、甲鉄船は数奇な運命を辿ることになります。日本へ到着後、戊辰戦争の行方を眺めていたアメリカは、契約を保留としました。そして、新政府側が優勢とみるや、ストーンウォール号を新政府側に売り渡してしまうのです。劣勢になった旧幕府側は、榎本武揚を中心に開陽丸の海軍力に賭け、函館を拠点として新たな局面の展開を試みます。しかし、頼みの開陽丸は函館湾に停泊中、嵐に合い。敢え無く沈没してしまいます。新政府側は、甲鉄船を送り、攻勢をかけます。榎本武揚は、かつてオランダ留学中にこの甲鉄船の事を知り、以来強い関心を持ち続けてきました。そして開陽丸を失って低下した海軍力を立て直すため、宮古湾で、甲鉄船の奪取を敢行しました(土方歳三も参加、宮古海戦)。しかし、甲鉄船からガトリング砲による反撃を受け、奪取は失敗に終わります。そして、新政府軍の箱館総攻撃の際、甲鉄船は箱館湾から榎本らの拠点、五稜郭を砲撃しました。その威力はすさまじく、旧幕府勢力は、函館での戦いに敗れ、戊辰戦争は終了したのです。
その後、甲鉄船は佐賀の乱や西南戦争に参加し、「東(あずま)」と名をかえて、明治海軍の主力艦となりました。

当時、『内外新報第一號』の記事を読んで、甲鉄船・ストンウォール号のその後の運命を誰が予測できたでしょうか。
『内外新報』は短期間で発行を終えますが、幕末の混沌とした日本を記録した貴重な資料と言えると思います。

 

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