遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

八重桜、エンドウが満開

2023年04月10日 | ものぐさ有機農業

高札などという殺風景な木札ばかりのブログが続いていますので、気分を変え、故玩館の周りを見渡してみました。

故玩館から北へ続く輪中堤の桜はとうに散りました。

眼を南に転じてみると、八重桜が満開です。

さらにその西には、先に報告した高棚のスナップエンドウが花をつけ始めています。

今年は例年になくビッシリと着花。

しかも、全部、ダブルで花が咲いています。シニア女性農業ユーチューバのひろちゃんによれば、出来の良いエンドウはこのように咲くとのこと。

ツル豆類の花はミスなく実になりますから、今年は豊作が見込まれます(^.^)

いつもと同じ育て方なのにどうして?

唯一考えられるのは、足元です。

上部の花が咲いている所に比べ、株元は空いています。まだ丈が30㎝程の時に、弱小の子ツルや枯れた部分を取り除き、スッキリとさせました。こうすることにより、頑健なツルが育ち、風の通りも良いので病気も少ないのだそうです。下部15㎝ほどの間の葉を取り去ってしまうプロ農家もあるらしい。キュウリやナスの栽培初期と同じですね。ま、お遊びの家庭菜園ですから、そこまでやる必要もないかと(^.^)

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宗門人別改状

2023年04月08日 | 高札

先回のブログで、正徳大高札『切支丹札』を紹介しました。
高札から見えてくるのは、密告制度を基本とした飴と鞭の政策です。不届者の通報(密告)を奨励し、その情報の内容によって、報賞金を与えたのです。
正徳大高札の中の切支丹札(高札No.1)をはじめとして、火付札、贋金銀銭取締札(高札No.2)、徒党強訴逃散禁止札(高札No.14)などです。
このうち、最も有名なキリシタン取り締まりを、先回の切支丹札(高札No.1)から再度見てみます。

「き里志たん宗門ハ累年御禁制たり、自然不審成ものこれあらハ、申出へし、御不うひとして、はて連んの訴人、銀五百枚、い累まんの訴人、銀三百枚、立かへ里者の訴人、同断、同宿并宗門の訴人、銀百枚、右の通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所よりあらはるゝにおゐては、其所の名主并五人組迄一類は罪科行れるべく候也  正徳元年五月日 奉行」

「キリシタンは厳禁である。不審な者がいたら通報せよ。褒美として、バテレンなら銀五百枚、イルマン銀三百枚、信者なら銀百枚を与える」と、密告に対して大判振る舞いです。
さらに、「通報者が信者であっても、その情報によっては銀五百枚を与える」とあり、内部からの密告も奨励しています。
その一方で、「キリシタンを匿い、それが外から発覚した場合には、名主や五人組も同罪となる」と脅しています。まさに、飴と鞭の政策ですね。

この密告制度が、どれ程有効であったかは明らかではありません。時代の交換レートにもよりますが、銀五百枚は、150~300両に相当する大金です。このような途方もない報奨金がしばしば支払われたとはとても考えられません。徳川幕府の意図は、むしろ、高札によって、幕府の権威を誇示することにあったと言えるでしょう。

切支丹札でキリシタン禁止を強くうちだした幕府ですが、実際の取り締りに関しては、日本中に組織した五人組制度を利用し、毎年、宗門人別改めによって、人々を調べ、キリシタンでないことを証明させました。宗門人別改めが、人々を監視し、取り締まる役目を果たしていたのです。
五人組とは、近隣5人(5戸)を単位とする統治の末端組織です。幕府は、江戸前期に五人組制度を整備し、全国的に組織しました。そして、キリシタンの取締りを主眼として、五人組に連帯責任をおわせる相互監視体制をつくりあげたのです。連帯責任の範囲は、その後、年貢の完納や法令遵守などにまで広がりました。

では、宗門人別改とはどのようなものだったのか、故玩館の資料で見てみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・省略(個別人名有)・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  

  23㎝x68㎝、江戸時代後期。

      差出申一札之事
一切死丹宗門御改ニ付、厚見郡岐阜矢嶋町
上切町人男女共ニ旦那之分、致吟味先年
茂手形指出シ候へ共、弥今度堅御改ニ付僉儀
仕疑敷者無之ニ付、五人組之帳面ニ面々旦那
寺之判形を取、差上申候。毎年一度宛御改之外
にも、常々無油断相改可申候。於町中ニ念仏
講題目講を致、ひそかに後生物語様仕
常々之宗旨ニ替り候宗門を取阿つかい
不審成者御座候者、早速御注進可申候。
之分判形仕候。若、右之門切死丹宗門之者
有之由、訴人御座候ハゝ右判形仕候寺々之
住寺越度ニ可被仰付候。只今迄之旦那
之内宗旨替り申者御座候歟又ハ常々之
執行怪鋪事御座候者、御改可申上候。
先年従 公儀被 仰出候
御法度書之面致拝見、委細承届
當町五人組之者共等ニ僉儀仕
書付差上申。 覚
 濃州厚見郡岐阜下矢嶋町上切
同町          〇〇 年五拾五
      ・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・省略(個別人名有)・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・
                    □□母 年六拾八
  右女壱人宗旨ハ代々一向宗旦那寺
                  厚見郡明屋鋪
            蓮生寺印

               組頭  半右衛門印
                       新 助印
          五人一組     与左衛門印 
              加兵衛印
             忠六後家印
           与頭  清右衛門印
               久 六印
       六人一組    喜 七印
               八久衛印
               長 吉印
                 又 八印 
     岐阜 
        御奉行所      

良質の和紙に御家流で整然と書かれた宗門人別改状です。年月日が入っていません。最後に書き入れつつもりだったのか、或いは、草稿か? 印がきっちりと押されているので、提出する寸前の物ではないでしょうか。記された地名や寺は現在もあります。

この宗門人別改状は、岐阜下矢嶋町の宗門改めの記録です。宗門人別改めによって、各人は、何宗に属し、旦那寺はどこかを、毎年役所に報告しました。宗門人別改は、寺請制であったのです。この資料には、6家族、10人(男4、女6)の人たちそれぞれの宗旨と旦那寺が記されています。家族単位の記述ですが、家族成員それぞれの名前と年令、そして、所属する寺を個人別に記入し、その下に寺の印が押してあります。所属する寺は、住んでいる場所から、かなり離れた所(10㎞以上)にある場合があります。また、同じ家族であっても、異なる寺に属している場合がいくつかあります。特に、他地区から嫁いできた女性が、他の家族とは別の寺に属していることが多いです。なぜ、近くの寺に代わらなかったのかよくわかりません。一説には、豊臣秀吉以来、寺の勢力が増すのを権力側が嫌ったからだとも言われています。
 このようにして、毎年、旦那寺に、各人は仏教信者であり、切支丹でないことを証明させたのです。
この書状の宛先は岐阜奉行所です。末尾には、5人組、6人組の人名と印があります。もし、記載に誤りがある場合には、それぞれの組と旦那寺も、連帯責任を負いました。
隣人相互に監視をさせるこの制度によって、全国に細かい監視網が敷かれ、高札に書かれた切支丹禁止令を実効させたのです。キリシタンの摘発からはじまった宗門改めは、その後次第に、住民調査の色彩を強くおびるようになり、宗門人別改帳は、実質的に、江戸時代の戸籍簿となりました。

江戸幕府が倒れても、新政府はキリシタン禁制を踏襲したので、宗門改めは明治になってからも続きました。そして、明治6年2月、五榜の掲示が撤去され、キリシタン禁制が廃止されるとともに、五人組制度は終わりました。しかし、近隣住民を組織して、相互に監視し、治安維持に当たらせる方策は、第二次大戦中、隣組として戦争終結まで続いたのです。
なお、五人組は、必ずしも5人(5戸)ではなく、1組は3~7人(戸)の構成でした。今回の宗門人別改状でも、5人組と6人組の二つの組を調べています。

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正徳大高札『切支丹札』

2023年04月06日 | 高札

今回の品は、江戸時代、高札の代表となった5種類の正徳の大高札のうちでも、江戸幕府が最も重視した切支丹禁制札です。どの高札場にも優先して掲げられました。

40㎝x69㎝、厚 1.4㎝。重 1.5㎏。江戸中期ー後期。

屋根の付いた駒形の高札です。吊り金具や補強の裏木はありません。

この品が、正徳元年(1711)に掲げられた物かどうかはわかりません。高札板は風雨にさらされて傷むし、火事にあい焼失もしました。したがって高札板の寿命はそれほど長くなく、新たな高札板に替えられたからです。その場合にも、発行年、「正徳元年五月日」をはじめ、文面は全く同じでした。

今回の品は風化がすすんで、文字が全く読めない状態です。しかし、横方向から強力なライトをあてると、陰影が増し、文字が浮かび上がりました。

                 定
き里志たん宗門ハ累年御禁制
たり、自然不審成ものこれあらハ、申
出へし、御不うひとして 
  はて連んの訴人    銀五百枚
  い累まんの訴人    銀三百枚
  立かへ里者の訴人    同 断
  同宿并宗門の訴人   銀百枚
右の通下さるへし、たとひ同宿
宗門の内たりといふとも、申出る
品により銀五百枚下さるへし、かく
し置他所よりあらはるゝにおゐては
其所の名主并五人組迄一類ともに
可被行罪科候也
    正徳元年五月日
                          奉行

                       定
  キリスト教は、これまでずっと禁止であり、これからも禁止である。もし不審な者がいたら通報せよ。ご褒美として、
    バテレンの通報者   銀五百枚
    イルマンの通報者        銀三百枚
    立ちかえり者の通報者 同 断
    同宿や信徒の通報者  銀百枚
右の通り、与えよう。たとえ同宿やキリスト教徒であっても、申し出る品により銀五百枚を与えよう。もし匿って、他の所から露見した場合には、その所の名主と五人組まで罪を負うことになろう。
   正徳元年五月日
                         奉行

バテレン:司祭
イルマン:修道士
立ちかえり者:仏教へ改宗後、再びキリスト教へ戻った者
同宿:日本語でイルマンを補佐し、布教を助ける人、伝道補佐人

老中:この時代(江戸時代初期頃まで)、まだ、〇〇奉行という職は無く、奉行は老中(年寄)をさす。

高札の典型、切支丹札の特徴は、密告制度です。キリシタン関係者を見つけ、通報すれば報奨金がもらえたのです。銀五百枚は、現在の貨幣価値で、2000万円ほどに相当するので、かなりの額の金です。どれくらいの通報があったかわかりませんが、社会に監視の網を張り巡らす効果は大きかったと思われます。

もう一つの特徴は、五人組に代表される連帯責任体制です。これは、近隣の五戸を一組とした単位組織で、日常の様々な事柄について、組内で連帯して責任を負うというものです。キリスト教禁止の徹底もその一つでした。そのための具体的な方策として、宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)が行われました。

宗門人別改状は、次回のブログで紹介します。       

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正徳大高札の写し

2023年04月04日 | 高札

江戸時代には、数多くの御触書、御達書の類が出されました。これらは、老中、若年寄の会議で方針を定め、奥右筆筆頭が起草し、将軍の裁可を得て制定されました。そして、書き付けと称する写しがつくられ、各方面に配布されました。配布先は、御触書の目的、内容などによって決められました(『高札ー支配と自治の最前線』大阪人権博物館、1998年)。
幕府自身、数千通にものぼる御触書類を、江戸時代、4回にわたって、整理、分類し、記録に残しています。これらは、後に、御触書集成と名付けられました。高札として掲示され、一般の人々に広く知らされたのは、膨大な御触書の一部なのです。

 このようにして、江戸時代には、種々の高札が発行されました。それらは、大きく3種類に分類されます。高札場に掲示された幕府の主要政策を示した公儀高札、各藩が独自に定めた自分高札、そして、この2種類には入らないその他の高札類です。なお、新政府が出した高札は、天朝高札と呼ばれています。故玩館所蔵の高札類14枚の内訳は、公儀高札が5枚、天朝高札6枚、その他の物が3枚です。その他の物の内訳は、私的高札が1枚、発給主体が、町、業界の物が各1枚です。
公儀高札や天朝高札については、これまで多くの研究がなされてきました。特に、切支丹札や火付け札、贋金銀銭取締札、徒党禁止札などについては検討がすすみ、密告制度をはじめ、幕府や新政府の民衆政策はかなり明らかになっています。一方、他の高札類については、系統的な研究がほとんど行われていません。が、これらは当時の世相を反映しているものが多く、人々の暮らしを知る手がかりを与えてくれるのでいっそう重要です。

今回のブログでは、まず、江戸時代の高札の代表である、正徳の大高札を概観します。
徳川幕府は、村々に高札場を設け、法度や掟書を記した板札を掲げました。人々を律し、統治するため、その種類は多く、複雑で多岐にわたっていました。また、老中や将軍がかわるたびに新たな高札が掲げられ、その手間と経費も大きな負担でした。
そこで、種々の高札はやがて整理され、正徳元年(1711)に5枚の高札が出され、江戸時代の代表的なものとなりました。これらは、正徳の大高札とよばれています。忠孝札、毒薬札、切支丹札、火付札、駄賃札。これら五札が、徳川治世の基本となり、駄賃札の改定を除いて、幕末まで同じ文面で掲示されました。このうち、切支丹札が最も重視され、すべての高札場に掲示されました。   

故玩館には、正徳大高札5枚のうち、切支丹札の高札と5枚を写した木版物があります。

今回の品物は、正徳大高札の写し(木版)です。これによって、正徳大高札の全体を知ることができます。

14.9㎝x21.2㎝、13丁。江戸中期ー後期。

【切支丹札】

【駄賃札】

【忠孝札】

【毒薬札】

【火付札】

江戸時代、触書などの法令は、書き写すのが基本でした。もちろん、高札自身も、役人による墨書です。高札の文面は、村役によって書き写され、保管されました。
しかし、正徳の大高札などの基本的な高札は例外的に出版が行われました。儒教倫理や切支丹禁止、徒党強訴逃散禁止などの法令を、社会の隅々にまで行き渡らせようとして、特別な計らいがなされたのです。したがって、木版物は、ある意味、肉筆による写しよりも価値があります。
今回の品物は、江戸中後期に出版されたと思われる高札写しです。木版刷り13丁を、紙紐で簡単に綴じてあります。内容は、正徳の大高札など江戸中期の高札8種です。漢字にはすべて、かながふってあります。寺子屋の教材として用いたのでしょう。

忠孝札では、親子兄弟等は互いに慈しみ、一生懸命に働くなど、日常生活の規範が述べられるとともに、賭博、喧嘩などを戒め、盗賊悪党の通報を奨励しています。毒薬札は、毒薬、偽薬の売買禁止、贋金銀銭扱い禁止、価格操作の禁止などに加えて、徒党の禁止も命じています。切支丹札は、密告の奨励と厳罰によりキリシタン厳禁をうたっています。火付札は、火付人の通報と捕縛、火事場泥棒の厳罰などについて述べています。駄賃札は、人足の数、荷物の重さ、人馬の賃などを定めています。

 上の写真の5種類の高札を較べてみると、忠孝札、毒薬札は、その内容がかなり雑多であることに気づきます。大高札制定の過程は不明ですが、各種の禁令などを十分に整理統合しないまま、高札にしたのでしょう。それに対して、切支丹札、火付札、駄賃札は、簡潔に法令をまとめています。特に、切支丹札の高札としての完成度は高く、徒党禁止札など、その後の高札は、この切支丹札のスタイルに倣っている物が多くあります。

次回は、高札の代表ともいえる、切支丹札を紹介します。

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おうち花見

2023年04月02日 | 故玩館日記

今年は、天候の関係か、どこへ行っても桜が満開です。

故玩館の横を眺めてみると、

輪中堤の桜並木がここから始まっています。

桜の様子は例年通りですが、昨年、広重ゆかりの竹藪をやむを得ず伐採したので、故玩館裏(写真では右端)に竹が見あたりません。

では、家の中からの眺めはどうだろうかと北を眺めると・・

昨年までは竹藪に隠れていた桜が満開です。

ならばと、部屋に掛けた一句。

『あふむくも
   うつむくとてもさくらかな  
                                八十四齢友左坊

山本友左坊(宝暦六(1756)年~弘化三(1846)年):獅子門(俳諧美濃派)九世道統。中山道美江寺宿本陣当主。卓路、雪香、百茎仙などと号す。

㎰. 俳諧美濃派については、いずれまたブログシリーズで。

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