遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

五榜の掲示第ニ札『徒党強訴逃散の禁止』

2023年04月20日 | 高札

今回は、五傍の掲示第二札『徒党強訴逃散禁止』です。

41㎝x57㎝、厚3.0㎝。重 3.2㎏。慶応4年3月。
                   (故玩館、高札No.8)

非常にぶ厚い板を用いて頑丈に作られています。屋根付き駒形で裏木補強がなされています。吊り金具はありません。高札板の風化はわずかで、墨書は鮮明に残っています。この高札には裏書があり、美濃國大野郡政田村に掲げられた物であることがわかります。この場所は、故玩館からすぐ北の農村地帯です。江戸時代、献上品であったまくわウリの産地で、民間の人形浄瑠璃、真桑文楽が伝承されてきた地でもあります。

 

      定
何事によら須よ路しからさる事に
大勢申合候をととう登となへ
ととうして志いて祢可ひ事く王たつるを
古うそといひ、あるいハ申合セ、居町
居村をたちのき候をてうさんと
申須、かたく御法度たり、若
右類の儀是阿らハ早々其筋之
役所江申出遍し、御ほふひ
下さ縲遍く事
 慶応四年三月 太政官

(裏面)大野郡政田村


『太政官日誌第六』に載っている文面と較べてみます。
    
何事によらす、よろしからざる事に、大勢申合候を、ととうととなへ、ととうして、志いてねがひ事くわだつるを、ごうそといひ、あるひハ申合せ、居町居村をたちのき候を、てうさんと申す、堅く御法度たり、若右類之儀これあらば、早々其筋の役所へ申出べし、御ほふひ下さるべく事
   慶応四年三月 太政官

文面は同じですが、高札の方が、変体仮名を多く使っています。

今回の高札を意訳すれば次のようになります。
      定

何事によらず、良くない事を企み
大勢が申し合わせることを徒党といい、
徒党して、強引に願い事を企てることを
強訴という。また、示し合わせて
居町居村を脱走することを逃散といい、
これらはいずれも厳禁である。
右の類のことがあれば、すぐさま
その筋の役所に通報せよ。ご褒美を下さるだろう。
 慶応四年三月 太政官

(裏面)大野郡政田村
        (現、本巣市政田)

さて、この五榜の掲示第ニ札は、明和7年4月の徒党強訴逃散禁止札とよく似ています。
     
何事によらすよろしからさる事に
百姓大勢申合候をととうととなヘ 
ととうしてしゐてねかひ事くはだたつるを
こうそといひ あるいは申あはせ
村方たちのき候をてうさんと申
前々より御法度に候條 右儀これあらば
居むら他村にかぎらず 早々其すじの
役所へ申出べし 御ほうびとして

 ととうの訴人   銀百枚
 こうその訴人   同 断
 てうさんの訴人  同 断

右之通下され その品により帯刀苗字も
御免あるべき間 たとひ一旦同類に成るとも
発言いたし候もの 名まへ申出におゐては
その科をゆるされ、御ほうび下さるへし

一 右類訴人いたすものもなく村々騒立候節
  村内のものを差押へ ととうにくはゝらせす
  壱人もさしいださゝる村方これあれば 
  村役人にても百姓にても重にとりしずめ候ものは
  御ほうひ銀下され 帯刀苗字御免、さしつゞき
  しづめ候ものどもこれあらばそれぞれ御ほうび
  下しおかるべき者也

  明和七年四月
            奉行

右之通 御料者御代官 私領者領主地頭より村々へ相触
高札相建之有村方は高札に認相立可申候右通可被相触候

 徒党、強訴、逃散の禁止を強くうたっているところは、両者同じです。また、密告の奨励と報奨金という飴と鞭の密告制度も同じです。五榜の掲示第ニ札が、明和七年の高札を手本にしていることは確かでしょう。但し、五榜の掲示第ニ札では、報奨金の金額について具体的記述はありません。当時、新政府は極度の財政難にあり、新紙幣(太政官札)の発行と流通の見通しも不明確だったためでしょう。

今回の高札と『太政官日誌第六』とをくらべてみると、文面は全く同じですが、今回の品の方が、多くの変体仮名が使われています。明治政府が、一音一文字のかな制度を正式に導入したのは、明治33(1900)年の小学校令からです。高札に墨書きした人は、それまで使い慣れていた変体仮名を多用したものと思われます。また、同じ五榜の掲示の高札でも、それぞれの場所によって、変体仮名の使い方に違いがあります。このことは、第一札から第五札まで、すべてについて言えます。当時、高札文面の字体については、細かな指示はなされず、各地の役所に任されていたと思われます。
このように見てくると、『太政官日誌第六』に記載されている高札は、その内容はともかく、書体からは、近代の日本語の方向を先取りしていたといえます。ところが、このことが当てはまるのは、第一、第二、第三の定め札だけで、第四、第五の覚え札は、変体仮名が多用されているだけではなく、高札の文体そのものが江戸時代とほぼ同じです。これは、第四札、第五札が、天皇の意向を伝えるものであったためだとおもわれます。

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五榜の掲示第一札『五輪道徳の尊守』

2023年04月18日 | 高札

先回のブログで、新政府の政策の骨子を載せた『太政官日誌第六』を紹介しました。五榜の掲示に示された5枚の高札を紹介するにあたって、まず、太政官日誌の中で、五榜の掲示の前文を見てみます。

【諸国高札の事】
諸国之高札、是迄之分、一切取除ケいたし、別紙之条々改而掲示披 仰付候、自然風雨之ため、字章等塗滅候節は、速に調替可申事
但、定三札ハ、永年掲示被 仰付候、覚札之儀ハ時々之御布令ニ付、追而取除ケ之 御沙汰可有之、尚御布令之儀有之候節ハ覚札を以、掲示可被 仰付候ニ付、速ニ相掲ケ、偏境ニ至るまで 朝廷御沙汰筋之儀、拝承候様可被相心得候事、追而 王政御一新後、掲示ニ相成候分は、定三札之後江当分掲示致置可申事
  三月

諸国の高札、これまでの分、一切取り除けいたし、別条の条々改めて掲示仰せ付けられ候。自然風雨のため、字章等塗滅候節は、速やかに調べ替え申すべきこと。
但し、定三札は、永年掲示仰せ付けられ候。覚札の儀は、時々の御布令につき、速やかに相掲げ、偏(辺)境に至るまで、朝廷御沙汰筋の儀、拝承候様相心得らるべき候事、追って、王政御一新後、掲示に相成り候分は、定三札の後へ当分掲示致し置き申すべき事。
    三月

これまでの高札は全部取り除いて、新しい高札を掲げよとの指示です。徳川の高札場は、そのまま利用する訳です。さらに、高札が劣化したら、直ちに取り替えるべきだと述べています。新政府は、高札制度を重視していたことがわかります。
第一~第三までの高札は定め札で永久に掲げよ、とまず述べ、さらに、第五、六は覚え札で、天皇の指示、命令であるから速やかに掲げよ、と指示しています。さらに追加があれば、定三札の後に掲げよと述べています。
このように、五榜の掲示は、徳川幕府の高札制度を利用して、新政府の方針(江戸時代と類似)を「定」札として人々に周知し、さらに、天皇の指示、命令を「覚」札として加えたものであったのです。

 

前置きが長くなりましたが、五榜の掲示の5枚の高札を順次紹介します。
今回は、第一札『五輪道徳遵守』です。

43㎝ x 60㎝、厚 1.5㎝。重 1.7㎝。慶応4年3月。        (故玩館高札、No.7)

駒形で、屋根と吊り金具がついています。裏木による補強もなされています。木部の風化はわずかです。これまで紹介してきた江戸期の高札とはことなり、墨書が少しかすれてはいますが、そのまま読めます。
                    
   定 
 一人多類もの五倫之道を
  正敷寿偏き事 
 一鰥寡孤独癈疾之ものを
  憫むへき事 
 一人を殺家を焼財を盗む
  等之悪業阿るましく事 

    慶応四年三月     大政官

慶應四年三月発行の『太政官日誌第六号』での第一札の記述と比較してみます(()内は、本文ではルビ)。
  
   
一人たるもの五倫(りん)之道(みち)を正(ただ)しくすべき事
一鰥寡孤独廃疾(くわんくわこどくはいしつ)のものを憫(あわれ)むべき事
一人を殺(ころ)し家(いえ)を焼(や)き財(ざい)を盗(ぬす)む等之悪業(あくぎょう)あるまじく事
 慶応四年三月 太政官

両者、文面は同じですが、『太政官日誌第六号』では実際に掲げられた高札よりもひらがなを多用し、漢字にはルビがふってあります。太政官日誌の段階では、人々になじみやすい表記が考えられていたようです。それが、実際の高札板では、漢字が多く、かなは少ないです。もちろん、漢字にフリガナはうたれていません。

第一札の文面を意訳すると次のようになります。
     定 
 
一、人は、五倫の道を正しくすべきである。
一、身よりのない人や体の不自由な人を憫みなさい。 
一、人を殺し、家を焼き、財産を盗む等の悪業を決して行ってはならない。 

    慶応四年三月     太政官

五倫の道:儒教が説く人の守るべき5つの徳目。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。親、義、別、序、信を五教、五典、五常などとも言う。
鰥寡孤独(かんかこどく):身よりのないひと。
癈疾(はいしつ):身体に障害のあるひと。

五榜の掲示第一高札は、3つの項目から成っています。第1項目の内容は、徳川幕府治世の基本を記した正徳大高札の忠孝札に相当します。
また、「鰥寡孤独癈疾之もの」(身よりのない人や体の不自由な人)は律令制度下で、援護、救済の対象となりました。これにならって、王政復古の新政府は、第2項目を設けたものと思われます。実際、、明治7年、太政官布「恤救規則」で類似の救済制度を制定しました。
第3項目では、火付け、人殺し、窃盗の禁止をうたっています。これは、正徳大高札の火付け札に相当します。
したがって、五榜の掲示第一高札は、徳川幕府、正徳元年の大高札のうち、『忠孝札』と『火付け札』を合わせ、さらに、律令制度化の弱者への配慮を加えた道徳律の高札と言えるでしょう。

なお、発給主体は、太政官ではなく、点の無い大政官となっています。なぜ、「大政官」を使ったかわかりません。一般には、太政官と書かれる事が多いです。両者の違いに関しては諸説あり、定かではありません。  

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慶應四年戊辰三月『太政官日誌 第六』

2023年04月16日 | 高札

幕末、徳川幕府にかわり、新政府が実権を握りました。そして、新政府の重要な政策などは太政官名で発給され、太政官日誌に掲載されました。太政官日誌は、新政府が発行した日誌形式の機関紙で、現在の官報に相当します。慶応四(1868)年二月から明治一〇(1874)年一月まで刊行されました。

今回の品は、慶應四年三月発行の太政官日誌、第六号です。新政府にとって、最も重要な国内政策、五榜の掲示が記載された号です。また、この第六号太政官日誌は、五榜の掲示の外に、慶応四年一月に行われた天皇による賊軍征伐や大阪行幸についても記載しています。

15.7㎝x22.8㎝、14頁。慶応4年3月。

和紙に木版刷り、紙紐で留めてあります。

諸国之高札、是迄之分、一切取除ケいたし、別紙之条々改而掲示披 仰付候、自然風雨之ため、字章等塗滅候節は、速に調替可申事
但、定三札ハ、永年掲示被 仰付候、覚札之儀ハ時々之御布令ニ付、追而取除ケ之 御沙汰可有之、尚御布令之儀有之候節ハ覚札を以、掲示可被 仰付候ニ付、速ニ相掲ケ、偏境ニ至るまで 朝廷御沙汰筋之儀、拝承候様可被相心得候事、追而 王政御一新後、掲示ニ相成候分は、定三札之後江当分掲示致置可申事
  三月

  第一札
   定
一、人たるもの五倫之道を正しくすべき事
一、鰥寡孤独廃疾のものを憫むべき事
一、人を殺し、家を焼き、財を盗む等之悪業あるまじく事
 慶応四年三月 太政官

  第二札
   定
何事によらす、よろしからざる事に、大勢申合候を、ととうととなへ、ととうして、志いてねがひ事くわだつるを、ごうそといひ、あるひハ申合せ、居町居村をたちのき候を、てうさんと申す、堅く御法度たり、若右類之儀これあらば、早々其筋の役所へ申出べし、御ほふひ下さるべく事
   慶応四年三月 太政官

  第三札
   定
きりしたん邪宗門之儀ハ、固く御制禁たり、若不審なるもの有之は、其筋の役所江申出べし、御ほふび下さるべく事

  慶応四年三月 太政官

  第四礼
   覚
今般 王政御一新ニ付 朝廷之御条理ヲ追ヒ、外国御交際之儀、被 仰出、諸事於 朝廷直チニ御取扱被為成、万国之公法ヲ以、条約御履行被為 在候ニ付而者、全国之人民
叡旨ヲ奉戴シ、心得違無之様被仰付候、自今以後、猥リニ外国人ヲ殺害シ、或者不心得之所業等イタシ候モノハ 朝命ニ悸リ御国難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦御交際被 仰出候各国ニ対シ皇国之御威信茂不相立次第、甚以不屈至極之儀ニ付其罪之軽重ニ随ヒ、士列之モノト雖モ、削士籍至当之典刑ニ被処候条、銘々奉朝命、猥リニ暴行之所業無之様被 仰出候事
      三月  太政官

   第五札
    覚
王政御一新ニ付而者、速ニ天下御平定、万民安堵ニ至リ、諸民其所ヲ得候様 御煩慮被為 在候ニ付、此折柄、天下浮浪之者有之候様ニテハ不相済候、自然今日之形勢ヲ窺ヒ、猥リニ士民トモ本国ヲ脱走イタシ候儀、竪ク被差留候、万一脱国之者有之、不埒之所業イタシ候節ハ主宰之者落度タルへク候、尤此御時節ニ付、無上下 皇国之御為、又ハ主家之為筋等存込、建言イタシ候者ハ、言路ヲ開キ、公正之心ヲ以、其旨趣ヲ尽サセ、依願太政宮代エモ可申出被 仰出候事、
但今後総テ士奉公人ハ不及申、農商奉公人ニ至ルマテ相抱候節ハ出処篤ト相糺シ可申、自然脱走之者相抱へ、不埒出来御厄害ニ立至リ候節者其主人之落度タルへク候事
       三月 太政官

 

一、東山道官軍先鋒、既ニ戦争ニ及ヒ賊軍敗走ノ旨ニハ候得共東海道亦如何共難計趣言上有之、旁以海軍出帆被差急御出輦被遊候条、各其分相心得、出格勉励可有之旨御沙汰候事
三月十五日

一、御親征日限御延引之処、来廿一日御発途、石清水社御参詣、同所御一泊、廿二日守口御一泊、廿三日御着坂其後海軍整備叡覧可被為在之旨被仰出候事
三月十五日
但シ太政宮代被移候儀者先被止候事

 

この太政官日誌第六号は、新政府の特徴が凝縮された歴史資料です。

5枚の高札については、次回以降、現物に即して紹介していきます。また、太政官日誌第六号の五榜の掲示以外の記述(天皇による賊軍征伐や大阪行幸)についても、その意味を読み取っていきたいと思います。

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五箇条の御誓文と五榜の掲示

2023年04月14日 | 高札

今回からは、幕末、明治期の高札に移ります。

徳川幕府を倒した新政府は、国の新しい政策を、慶応4年3月に相次いで発表しました。それが、五箇条の御誓文と五榜の掲示です。
五箇条の御誓文は、天皇の詔として、一方、五榜の掲示は、5枚の高札として発布されました。現在、私たちが目にする高札の多くは、この五榜の掲示です。江戸時代の高札に較べて、比較的時代が若いのと掲示された期間が短かったため、高札の劣化は少なく、文字も鮮明に残っていることが多いからです。

まずは、教科書に載っている事柄のおさらいです。 

 新政府にとって、五箇条の御誓文と五榜の掲示はセットでした。
 五箇条の御誓文は、慶応4(1868)年3月14日に布告された新政府の政治方針です。
一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ 
この開明的な方針は、一般の人々ではなく、大名や公家など諸侯に対して示されました。
そして、五箇条の誓文が公布された翌日、慶応4年(1868)3月15日、新政府は旧幕府の高札の撤去を命じ、代わって五種の太政官高札を高札場に掲示せよとの布告を発しました。


五箇条の御誓文が、国内上層部や外国向けて発信した表の看板であったのに対して、五榜の掲示は、新政府が民衆に対して最初に示した国内政策でした。
第1札 五倫道徳の遵守(高札№7)
第2札 徒党強訴逃散の禁止(高札№8)
第3札 切支丹邪宗門の厳禁(高札№9、10)
第4札 万国公法の履行(高札№11)
第5 札郷村脱走の禁止(高札№12)
第一札から第三札は定め書き(定三札)で、永年の掲示とし、第四札、第五札は、覚書で、一時的な公示(覚札)です。

五榜の掲示は、新政府が出した初めての民衆政策でしたが、その内容は新しいものではありません。5枚の高札の内、第四札で、万国法を守り、外国人に危害を加えないことを述べてはいますが、他の4枚の高札は、江戸時代と類似のものであったのです。第一札では、儒教における五つの基本的な人間関係である五倫を正しくすることや殺人・放火・盗みなどの禁止、第二札は徒党強訴逃散禁止など集団の力を利用して事を起すことの禁止、第三札切支丹邪宗門の厳禁、第五札郷村脱走の禁止(浮浪の禁止)など、五箇条の御誓文とは対照的に、江戸時代の民衆政策を踏襲していたのです。しかも、報奨金を与える密告制度まで引き継いでいました。

このうち、第三札、切支丹邪宗門の厳禁に対しては、諸外国から強い反発が起こりました。そこで、公布後わずか50日ほどで、新政府は第三札の表現を変え、「切支丹邪宗門の禁止」の語句を、「切支丹の禁止」と「邪宗門の禁止」の二つに分け、非難をかわそうとしたのです。しかし、その後も、諸外国からの抗議は続き、印刷技術の発達ともあいまって、明治6年(1873)2月24日、高札制度そのものが廃止されました。

 五榜の掲示は、太政官名で発給されました。太政官とは、慶応四(1868)年3月に設置され、明治18(1885)年12月に内閣制度が創設されるまで、一七年間存続した最高行政官庁のことです。特定の官職や個人をさす言葉ではありません。新政府は、王政復古をとなえ、かつての律令制度にならい、太政官制度を復活させたのです。太政官制の下、五榜の掲示など各種法令発布や太政官札の発行など、あらゆる行政分野において、多数の施策が行われました。
 なお、明治と改元されたのは、慶応4年9月8日です。したがって、これ以降、太政官は、明治政府を指すことになります。

次回は、五榜の掲示が布告された、慶応四年戊辰三月発行の太政官日誌を紹介します。

 

 

 

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ソラマメの支えと皺くちゃ種ジャガのその後

2023年04月12日 | ものぐさ有機農業

春野菜中間レポート第2弾(^^;です。

先回のエンドウ類の西、桜の老木の下にあるソラマメです。

例年、アブラムシが真黒なほど発生し、大変手を焼くのですが、今年は全く見当たりません。たぶん、ニームオイル散布の効果だと思います。これまでは、アブラムシが発生してから、あわてて散布していました。これでは効き目無し。散布が遅すぎたのですね。ニームオイルは、「ニーム」という木の実から抽出したオイルで、虫が嫌がって寄り付きません。しかし、虫をやっつけたり、追い払ったりする力は無し。そこで今年は、防寒メッシュ布を外してすぐ(2月末)から、1週間毎に1000倍液を散布しました。

その結果、アブラムシはどこを探しても一匹もいません(^.^)

で、その後の生育は順調。ここには、お多福ソラマメ(左側2列)と原種に近い紫ソラマメ(右2列)を、それぞれ30株ずつ植えてあります。

次の問題は倒伏です。ソラマメは大きくなると倒れやすい。倒れた場合、極端に収穫が減ります。品種改良がすすんだお多福ソラマメのようなのは、茎が弱く倒れやすく、折れやすい(^^;  なので、早めに支柱を立て、紐でぐるりと囲いました。

左側2列は、この方法で支えました。

この作業は相当キツイ。しかも、何日か経つと、太っちょさんの腰バンドのように、巻いた紐がずりずりと下がってきます(^^;  ソラマメも伸びますから、いずれにしろ、何度か巻き直してやらねばなりません。ま、乗りかかった船、最後まで面倒をみてやることにします(^^;

問題は、右側2列の紫ソラマメです。この種は、質実剛健、ほうっておいても育ってくれます。しかし数日前、突然の春嵐にみまわれ、倒れた株が続出(さすがに、支柱設置済みの左側2列は無事でした)。

何とかせねば・・・・かといって、一株ずつ支柱で固定するのは手間だし・・

で、考え付いたのが写真の方法です。

木杭を1.5m間隔で打ち、二本の紐を杭に絡めながら、ソラマメを挟んで固定するのです。

倒伏防止の一番簡単なやり方は、作付けしたソラマメ全体をぐるっと紐で囲う方法です。簡便ですが、内側になったソラマメは日当たりが悪く、出来がかんばしくありません。

それで、考え付いた方法がこの二重結束法です(相変わらず大げさ(^^;))

杭と杭の間の二本の紐で固定するだけでは不十分で、短い紐で、上の写真のようにに、二本の紐を別の短い紐でさらに結びつけるのです。こうすると、しっかりと固定できるだけでなく、ソラマメの茎を横へ広げることにより、日当たりを良くすることが出来ます。

しかも、

結び目を手で動かすことによって、固定の強さを変えたり、株全体を少しずらすことが容易にできます。

紐で結び付ける前は、洗濯ばさみを使っていました。これは、よくハズれて飛びました(^^;  今回のは、改良型二重結束(実用新案? (^^;)

今春一番の冒険は、種ジャガイモとして、去年収穫の皺くちゃジャガイモを植えたこと。果たして芽は出たのか?

少し離れた所の畑を恐る恐る覗いてみると・・・・

少々の欠けはあるものの、立派に芽がでています。

あとは、多くの芋が付いててくれるのを祈るのみです。

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