今日も晴れ。
最近、よく晴れが続く。
明日あたりからくもりと雨らしいです。

明日は「父の日」ですよね。
今年は6/17。
実は17日というのは、
ちょうど30年前に、
私がキリスト教会に行って、
信仰の決心をした日なのですよ!
1982年なので、ちょうど30年!
早かった~

私は、それまで、家で、一人で聖書を読み、
自分なりの祈りをしていたんです。
つまり、教会には行っていなかったの。
どうしてかっていうと・・・
私は教会に行く前に、「エホバの証人」で
勉強していた、いわゆる「研究生」だったわけ。
(教会で言うと「求道者」かな。)
話が前後してややこしくなるけれど、
私は、エホバの証人に加わる前に、
「塩狩峠」の映画を観て、
それから聖書や信仰書を読んで、
信仰が与えられていたんです。
でも、教会がどういう所かわからないし、
一人では行きたくないし、不安。
家に誰か来て、聖書を一緒に読んで欲しいなって、
勝手な事を思って、祈っていたら・・・
エホバの証人の訪問。
わかります?その時の私の気持ち・・・
まさに、神様に祈りが聞かれたって
思いましたよ。
それで、私はエホバの証人と、個人的に
聖書研究をすることになりました。
定期的に、その団体の女性の方は、娘さんとともに
自宅に来て、熱心に教えてくれました。

それから数ヶ月・・・
私は、エホバの証人の方の親切さや丁寧さ、
感じ良さには、とても好感が持てましたが、
それと反比例するように、教会批判のすごさには
何か違和感を感じ始めていました。
でも、そこを去る決定的な要因には
なりませんでした。
更に数ヶ月学びを続けるうちに、
私が聖書の内容の意図するところと、
彼女たちの言う教理の間に、
何かとても隔たりを感じ始めました。
それは、救いというのは、人間の活動や努力に
よるべきものであって、単に神様の恵みだけでは
救われない・・・というものでした。
だから、自分がいくら必死に神様を求めて、
信仰心を燃やしたところで、
たとえば伝道活動や奉仕をたくさんしないと、
天国に入れるとは言えないと言われました。
では、どのくらい私は活動をしなくては救われないのか、
この質問に対しては、彼女たちは、こう言いました。
「自分たちでさえ、天国に行ってみないと、
救われているのかわかりません。」と。
私がエホバの証人をやめる
決定的な理由の一つになりました。
そして、輸血の禁止、武道の禁止、
誕生日を祝うことの禁止、クリスマスを
祝うことの禁止、投票の禁止・・・・
ありとあらゆる禁止の数々。

私は、エホバの証人をやめたとき、
その女性に、気を遣って言いました。
「私はこの団体をやめますが、
また機会があったら、お尋ねするかも
しれません・・・」
ところが、この方は、
「私たちはそんなに暇じゃないから、
もうここには来ません。教会に行くのならどうぞ。
教会はステンドグラスがあるし、きれいですよね・・・」
皮肉られたと思いました。
でも、そのせいか、
すっきりして離れることができました。

私はそこからもうどうしていいか
わからなくなり、夜も祈っていました。
教会はエホバの証人から聞いたとおりだとすると
偽善的で、聖書には全く従ってなくて、
悪魔の手先・・・

そんな時、私の大学にもクリスチャン達が
数人いたことを思い出しました。
彼女たちは、私とは親しい関係ではありませんでしたが、
ちょうどその頃、私に、教会の集会案内を
渡してくれました。
彼女たちが、どうして私にチラシをくれたのか、
未だにわかりませんが、神様的には、
まさに「時」でしたね。

私が行った教会の集会は、なんと「婦人会」です。
どうしても大学の講義の時間が都合悪くて、
そこしか行けなかったんです。
でも、これを逃せば、もう二度と教会の門を
くぐれないと思ったので、
勇気を振り絞って、一人で行きました。
そして、当時30年前の6/17午後12時頃、
ダビデ・マーチン宣教師の促しに応えて、
信仰の告白と祈りをしました。
(信仰に至った詳しい内容は今回は省略。)
あれから30年。
あの日、教会に行った午前の不安と、
教会から出て来たお昼の時間の気持ちの高揚感の差。
私は、講義の都合で、婦人会のおいしいごちそうをよそに、
さっさと教会を出て、友人達(ノンクリの)のいる
教室へと戻りました。
そして、友人の一人は言いました。
「あなたいつもとちょっと違うね・・・」って。
それもそのはず、私は友人に事の次第を話しました。
友人はきょとん・・・でしたが、
私を理解して、その後はクリスチャンとして
見てくれました。

聖書に出会い、イエス様に出会い・・・
そして、すぐに教会につながるなんていうことは、
意外と奇蹟に近いのかもなと思います。
だって、みんながみんな、
教会に行ってから救われるのではないし、
私のような経路をたどる人はいますよね。
途中、異端の宗教に間違えて行く人は多いのよ。
気づかないからね。
しらないからね。
だから祈りの一つに加えて欲しいと思う事は、
イエス様に出会った後、確実に正統的な教会に
導かれるようにという祈り。
ここあでした。
最近、よく晴れが続く。
明日あたりからくもりと雨らしいです。

明日は「父の日」ですよね。
今年は6/17。
実は17日というのは、
ちょうど30年前に、
私がキリスト教会に行って、
信仰の決心をした日なのですよ!
1982年なので、ちょうど30年!
早かった~

私は、それまで、家で、一人で聖書を読み、
自分なりの祈りをしていたんです。
つまり、教会には行っていなかったの。
どうしてかっていうと・・・
私は教会に行く前に、「エホバの証人」で
勉強していた、いわゆる「研究生」だったわけ。
(教会で言うと「求道者」かな。)
話が前後してややこしくなるけれど、
私は、エホバの証人に加わる前に、
「塩狩峠」の映画を観て、
それから聖書や信仰書を読んで、
信仰が与えられていたんです。
でも、教会がどういう所かわからないし、
一人では行きたくないし、不安。
家に誰か来て、聖書を一緒に読んで欲しいなって、
勝手な事を思って、祈っていたら・・・
エホバの証人の訪問。
わかります?その時の私の気持ち・・・
まさに、神様に祈りが聞かれたって
思いましたよ。
それで、私はエホバの証人と、個人的に
聖書研究をすることになりました。
定期的に、その団体の女性の方は、娘さんとともに
自宅に来て、熱心に教えてくれました。

それから数ヶ月・・・
私は、エホバの証人の方の親切さや丁寧さ、
感じ良さには、とても好感が持てましたが、
それと反比例するように、教会批判のすごさには
何か違和感を感じ始めていました。
でも、そこを去る決定的な要因には
なりませんでした。
更に数ヶ月学びを続けるうちに、
私が聖書の内容の意図するところと、
彼女たちの言う教理の間に、
何かとても隔たりを感じ始めました。
それは、救いというのは、人間の活動や努力に
よるべきものであって、単に神様の恵みだけでは
救われない・・・というものでした。
だから、自分がいくら必死に神様を求めて、
信仰心を燃やしたところで、
たとえば伝道活動や奉仕をたくさんしないと、
天国に入れるとは言えないと言われました。
では、どのくらい私は活動をしなくては救われないのか、
この質問に対しては、彼女たちは、こう言いました。
「自分たちでさえ、天国に行ってみないと、
救われているのかわかりません。」と。
私がエホバの証人をやめる
決定的な理由の一つになりました。
そして、輸血の禁止、武道の禁止、
誕生日を祝うことの禁止、クリスマスを
祝うことの禁止、投票の禁止・・・・
ありとあらゆる禁止の数々。

私は、エホバの証人をやめたとき、
その女性に、気を遣って言いました。
「私はこの団体をやめますが、
また機会があったら、お尋ねするかも
しれません・・・」
ところが、この方は、
「私たちはそんなに暇じゃないから、
もうここには来ません。教会に行くのならどうぞ。
教会はステンドグラスがあるし、きれいですよね・・・」
皮肉られたと思いました。
でも、そのせいか、
すっきりして離れることができました。

私はそこからもうどうしていいか
わからなくなり、夜も祈っていました。
教会はエホバの証人から聞いたとおりだとすると
偽善的で、聖書には全く従ってなくて、
悪魔の手先・・・

そんな時、私の大学にもクリスチャン達が
数人いたことを思い出しました。
彼女たちは、私とは親しい関係ではありませんでしたが、
ちょうどその頃、私に、教会の集会案内を
渡してくれました。
彼女たちが、どうして私にチラシをくれたのか、
未だにわかりませんが、神様的には、
まさに「時」でしたね。

私が行った教会の集会は、なんと「婦人会」です。
どうしても大学の講義の時間が都合悪くて、
そこしか行けなかったんです。
でも、これを逃せば、もう二度と教会の門を
くぐれないと思ったので、
勇気を振り絞って、一人で行きました。
そして、当時30年前の6/17午後12時頃、
ダビデ・マーチン宣教師の促しに応えて、
信仰の告白と祈りをしました。
(信仰に至った詳しい内容は今回は省略。)
あれから30年。
あの日、教会に行った午前の不安と、
教会から出て来たお昼の時間の気持ちの高揚感の差。
私は、講義の都合で、婦人会のおいしいごちそうをよそに、
さっさと教会を出て、友人達(ノンクリの)のいる
教室へと戻りました。
そして、友人の一人は言いました。
「あなたいつもとちょっと違うね・・・」って。
それもそのはず、私は友人に事の次第を話しました。
友人はきょとん・・・でしたが、
私を理解して、その後はクリスチャンとして
見てくれました。

聖書に出会い、イエス様に出会い・・・
そして、すぐに教会につながるなんていうことは、
意外と奇蹟に近いのかもなと思います。
だって、みんながみんな、
教会に行ってから救われるのではないし、
私のような経路をたどる人はいますよね。
途中、異端の宗教に間違えて行く人は多いのよ。
気づかないからね。
しらないからね。
だから祈りの一つに加えて欲しいと思う事は、
イエス様に出会った後、確実に正統的な教会に
導かれるようにという祈り。
ここあでした。