ある産婦人科医のひとりごと

産婦人科医療のあれこれ。日記など。

「医療の安全の確保に向けた医療事故による死亡の原因究明・再発防止等の在り方に関する試案 ―第三次試案

2008年05月06日 | 医療全般

常位胎盤早期剥離、癒着胎盤、羊水塞栓症などの予測不能でかつ予後不良の産科疾患は一定確率で発症します。今後も人類が存続する限り、これらの疾患がこの世からなくなることはないでしょう。

これらの疾患を発症した妊産婦さん達は、突然、重大な生命の危機に直面します。それらの疾患を放置すれば、患者さんは発症後数時間以内に間違いなく死亡します。そういう時に、病気と共に闘ってくれて、唯一頼りになるのはこの世の中に産婦人科医しかいません。

しかし、その産婦人科医が、今、この国からどんどん姿を消しています。瀕死の患者さんを救命しようとして精一杯頑張っても、救命できなければ逮捕される可能性があるということであれば、誰でもそのようなリスクは避けたいと思うのは当然です。

安心してお産ができるような国にしたい。そのためには、産婦人科医のさらなる減少をくい止められるように、国が強力にバックアップする必要があると思います。

****** 日本産科婦人科学会、2008年5月1日

厚生労働省医政局総務課医療安全推進室御中
医療安全対策室長
佐原康之 殿

  社団法人 日本産科婦人科学会
  理事長 吉村 秦典

「医療の安全の確保に向けた医療事故による死亡の原因究明・再発防止等の在り方に関する試案 ―第三次試案」に対する意見と要望

 日本産科婦人科学会は、さる4月4日に公表された表記第三次試案に対する会員の意見を集約し、本会の<意見と要望>としてまとめましたので以下に示します。

<はじめに>

 日本産科婦人科学会は、本年2月29日に発表した“第二次次試案に対する見解と要望”及び“医療事故に対する刑事訴追に反対する見解"を現在も変えるものではありません。しかし一方で、医療提供者の“業務上過失致死罪”からの免責(真に犯罪的な事例は除く)の実現には、国民的議論を踏まえての慎重な法改正が必要で、それには相当の年月を要することも認識しているところであります。

 上記件につき、本会は今後も刑事訴追に反対の主張を唱え続け、医療提供者と受給者(国民)の真剣な議論を喚起し、その結果として、将来、本会の主張に国民の皆さんの賛同が得られることを期待しておりますが、ここでは、第三次試案に示された「医療安全調査委員会(以下調査委員会)」の設立とその制度化(以下この制度)を、医師法第21条の拡大解釈がもたらした医療現場の混乱と、医療提供者の不当な処遇及びそのために社会が被る不利益を改善する対策の第一歩であると位置付け、以下の提言と要望を行うものであります。

 すなわち、以下は、現法体制の下、医療事故に関しての刑事捜査を完全に排除することはできないことを許容した上で、この制度が、医療の受給者の理解と提供者の積極的な参画を得て、目的とする事故原因の究明と再発防止の実効を挙げ得る制度となることを願っての本会の意見であります。

Ⅰ.“重大な過失”の説明について

  この制度における“重大な過失”の定義とも言えるP9(40)③の記載の前段を以下に変更することを要望する。

  『なお、ここでいう「重大な過失」とは、死亡という結果の重大性に着目したものではなく、標準的な医療行為から著しく逸脱した医療で、勤務環境を含めたシステムエラーの要因が完全に否定され、あらゆる観点から見て許容できない、と地方委員会が認めるものをいう。』

<変更を要望する理由>

  P9[捜査機関への通知]の記載内容を整理すると、「捜査機関に通知を行う事例は悪質な事例に限る。悪質な事例とは
①診療録の改竄など,
②過失による医療事故を繰り返しているなどの場合,
③故意や重大な過失があった場合,である。」となる。

従って本項の記載を論理的に解釈すれば、“標準的な医療行為から著しく逸脱した医療(と地方委員会が認めるもの)は“重大な過失”に相当し、すなわち“悪質な事例”と認定されることになる。このままでは、薬の誤投与や手術ミスなどは標準から著しく逸脱した医療で、悪質な事例と判定され捜査機関に通知される。また、当該疾患の診療という視点でみれば、理論的に考えて、下方に逸脱した診療レベルは常に存在する(標準一偏差以下はある数存在する)ものであるが、それも第三次試案では“悪質”と規定していることになる。しかも地方委員会が“悪質”と判断した事例は、「法的評価ではない」と言えども、通知を受けた捜査機関は“専門家の判断”として重要視せざるを得ず、刑事手続きが進み起訴に至る可能性が極めて高い。

 人は誰もがミスを犯す。このミスが即座に人の死に繋がるという他業種とは著しく異なる医療の特殊性を考えれば、ヒューマンエラーをカバーするシステム構築の重要性は如何に強調してもし過ぎることはない。第三次試案の処々に“システムエラー”への言及が見られることから、日本の医療体制の欠点の一つとして上記システムの構築が遅れていること及び個人に刑罰を課しても医療事故は減少しないという現実は、試案作成の過程で充分に考慮されていると推察される。然らば、多忙や過労のためのヒューマンエラーや経験不足による未熟な医療を“標準から著しく逸脱した医療=重大な過失”、すなわち“悪質”な事例であると認定して捜査機関に通知するのは適切ではなく、“重大な過失”の説明はそのようなことの起こらない文言に書き改めるべきであろう。上記の懸念が残る限り、“第二次試案に対する見解と要望”に記した如く、“関係者が事例の届け出を逡巡する”、“調査報告書が不正確になる”などの弊害が生じることにより、この制度設立の目的である事故原因の究明と再発の防止の実効性が遠のく可能性が高いからである。日本産科婦人科学会は、この制度が目的に則した機能を果たすために、上記文言の変更を強く要望するところである。

 尚、P9(40)②の“(いわゆるリピーター医師など)”は削除する方が良いと考える。“リピーター”の語句が曖昧な定義のままで一般に比較的よく使用されている現状では誤解を産む余地があるからである。また、P9は医療関係者が最も注視する懸案事項の記載であるから、誤解を生じない様に特段に配慮した文言表記が望まれる。

Ⅱ.「調査委員会」の管轄について

  「調査委員会」は医療関係者及びそれらが組織する団体、すなわち医師・看護師等及び医学会・医師会等、医療機関及びその連合組織等、また、医療・薬事・保険行政に関わる組織等のいづれからも機構上独立したもので、医療の提供側と受給側との間で中立の機関とすることが望ましい。

<要望する理由>

  本事項について、第三次試案では上記委員会を厚生労働省下に設置するかどうか、「今後更に検討する」とあるが、日本産科婦人科学会は“第二次試案に対する見解と要望”に記した如く、事故原因の解明にあたっては行政上の問題にも言及できるよう、また、調査委員会の調査と行政処分の権限とは分離する方がよいとの観点から、上記を要望するところであり、その方向に検討が進むことを期待する。

Ⅲ. 届け出対象事例について

  「調査委員会」に届け出るべき事例を『医療行為に起因して患者が死亡した、またはその疑いのある事例のうち、当該医療行為により患者が死亡する可能性が元来低く、且つその医療行為に伴い発生する合併症として説明のつかない患者死亡の事例』と規定することを提言する。

<提言の理由>

  第三次試案に記載された届け出事例の規定は、まず、“誤った医療を行ったことが明らかか”から始まり、この制度があたかも“医療過誤”かどうかを判定するためのものであるかの印象を与える。また、“誤った医療かどうか”の“明らか”と“明らかでない”を合わせると、それらはすべての症例を含むことになり、P4に記載されているフローチャートの最初の部分は、理論的には、意味をなさない。この制度は、P1に記載されている様に、過誤を伴う事故及び過誤を伴わない事故の両者を含む“いわゆる医療事故”の原因究明と再発防止のためのものであることを鑑みると、“過誤かどうかを判定する必要のある事例”という発想で作成された届け出対象の規定は適切とは言えない。

  医療事故の防止は医療提供者も強く願うところであり、事故が発生した時、担当の医師は過誤の有無を判定されることに積極的にはなれない場合もあると思われるが、真の原因を究明することに協力を惜しむことはない。その意味で、本会の提言する規定の方が関係者の届け出に対する抵抗感が弱まり、P12に記載されている“医療関係者の主体的且つ積極的な関与”が得られ易いと考える。

Ⅳ. 捜査機関の謙抑的対応について

  第三次試案 P15~P16(別紙3)に記載されている“調査委員会”と“捜査機関”との関係が必ず担保される様に、そのことをこの制度の規定または規約の中に明文化することを要望する。

<要望の理由>

  この制度と捜査機関との関係については、厚生労働省の担当者から、「別紙3の事項は法務省並びに警察庁の了承を得ている」と本会役員が口頭で説明を受けたところであるが、医療事故に遭遇する機会の最も多い診療領域を担い、また現下、大野病院事件という医師の不当な逮捕・起訴の事例を眼前にしている本会会員の多くからその点に対する疑念が寄せられている。

  この制度は捜査機関が調査委員会の判断を優先させることを確実に保証し、加えて、遺族から警察に告訴が行われた場合や調査報告が遅れた場合に、警察が独自に捜査を始め、誤った判断で過失を認定し刑事訴追を行うことも防止できなければならない。これは医療提供者側からのみの主張ではなく、社会(国民)的利益の視点からも言えることである。現状をみて明らかな様に、医療事故の関係者に不条理な刑事罰を与えることは、事故の減少に繋がらないだけではなく、医師や看護師の労働意欲の減退と使命感の喪失を惹起し、そのための医療の質の低下と委縮医療の蔓延、更には、完治という同じ目標に向かって共に病と闘うべき医療の提供者と受給者の間に不信を募らせ、結果として社会に多大な不利益を齎すことは紛れもない事実である。その視点に立っての会員の意見は尊重すべきであり、本項を要望事項の一つに加える次第である。

以上

(日本産科婦人科学会、2008年5月1日)