五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

解釈によって変わること

2008年07月26日 | 第6章 螺旋状に上昇する意味
人はそれぞれ、自分というセルフイメージを持ちながら日々生活しています。

「自分を見つめて、見えてくる自分の傾向」は、

案外、「人からどう思われたいか?みられたいか?」から生まれてくるような気がしています。

最近「せっかち?」と問われることが立て続けに起こり、「なぁるほど、せっかち、、うんうん」と、「さもありなん」という気持ちがわき上がり、改めて、自分を見つめなおすきっかけとなっています。

だいたい、私の母が私から見ると、ある部分で「せっかち」です。
対して、父は、「よきにはからえ」、と私には映ります。

でも、そのせっかちさは、ある部分に有効であり、ある部分では、まったく有効ではありません。

どの部分でせっかちに見えるかというと「食と住まう」に関してです。
でも、本人は気配りだと思っているようです。
「よきにはからえ」の父は、気配りしてくれることが当たり前のようです。
(ロジャーズ的にいえば、あることの繰り返しが習慣化し、分化し、その人の個性となる)

長年の関係性から生まれた「良き按配」といえば、そうです。

自分の傾向は「一日にして成らず」と云えるようです。

私自身、何かに夢中になると、一直線。なりふり構わず、生活がそれ一色になっていきます。あれもこれも、という器用さはありません。
興味のあることに関しては、脳味噌がピピッと働き、そうでないものに関しては、まったくもって眠った状態のようです。その差が激しいとも云えそうです。

ということは、「せっかち」は、私の興味の領域に達した時に現れる自分の現象なのかもしれません。
私の好きな領域における精神情動であると解釈すると「せっかち」は、より一層納得できます。

・・・それと、はやとちり、というおっちょこちょいさも、自分の傾向として付け加えておきます。これも「せっかち」にはいるかも・・・


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