職場に自転車で通っている僕にとって、電車に乗る機会は少ない。
今日は郊外まで行き、久しぶりの電車。あまり混んでいない電車に乗り込んできた女性、いきなり静寂を破る大きな声(と感じたが実はそうでもなかったかも知れない)「今電車に乗ったの」と、長話ではなかったが喋るトーンは変らない。多くの視線が彼女を見る。次の駅で降りると、今度は向かいに座った男性が、かかってきた携帯で遠慮がちに小声で喋っている。隣に座った女性が非難めいた横目で彼を見た。
僕にとって最初の女性の声は耳障りであった、しかし男性の遠慮がちの電話は気にならない。遠慮がちというところが許しているのだろうか。
いつも不思議に思うことがある。車内での人と人との会話はそれほど気にならない、しかし同じくらいの大きさか、それより小さくても電話の声は耳障りである。何故だろう。
もしも電話の相手がすぐそばにいての会話だったらどうだろう、やはり耳障りなのだろうか?かえって面白くなってしまいそうだ。
電車内では必ず「携帯での電話はご遠慮ください」と放送される。だからどんな小さな声でも非難の目で見られる。
今の時代、携帯で話している声はどこでも耳にする。公共の場所での携帯電話は遠慮願いたい。だが許されている場所での話し声は多少の耳障りではあっても、心のどこかで許している。この差が不思議でならないのだ。
きっと誰もが不愉快だから車内での電話は遠慮願っているのだろう。しかし人と人との会話と何が違うのだろうか?一方通行だからなのか。
若い女性の電車内での化粧、これも愉快ではない。でもそれで誰かが迷惑しているのかな。迷惑ではないからいいというものでもないが、彼らはそういうかも知れない。
同じことでも感じ方によって不愉快になったり、許してしまったり、人の心は不思議で面白い。
2005.10.26
今日は郊外まで行き、久しぶりの電車。あまり混んでいない電車に乗り込んできた女性、いきなり静寂を破る大きな声(と感じたが実はそうでもなかったかも知れない)「今電車に乗ったの」と、長話ではなかったが喋るトーンは変らない。多くの視線が彼女を見る。次の駅で降りると、今度は向かいに座った男性が、かかってきた携帯で遠慮がちに小声で喋っている。隣に座った女性が非難めいた横目で彼を見た。
僕にとって最初の女性の声は耳障りであった、しかし男性の遠慮がちの電話は気にならない。遠慮がちというところが許しているのだろうか。
いつも不思議に思うことがある。車内での人と人との会話はそれほど気にならない、しかし同じくらいの大きさか、それより小さくても電話の声は耳障りである。何故だろう。
もしも電話の相手がすぐそばにいての会話だったらどうだろう、やはり耳障りなのだろうか?かえって面白くなってしまいそうだ。
電車内では必ず「携帯での電話はご遠慮ください」と放送される。だからどんな小さな声でも非難の目で見られる。
今の時代、携帯で話している声はどこでも耳にする。公共の場所での携帯電話は遠慮願いたい。だが許されている場所での話し声は多少の耳障りではあっても、心のどこかで許している。この差が不思議でならないのだ。
きっと誰もが不愉快だから車内での電話は遠慮願っているのだろう。しかし人と人との会話と何が違うのだろうか?一方通行だからなのか。
若い女性の電車内での化粧、これも愉快ではない。でもそれで誰かが迷惑しているのかな。迷惑ではないからいいというものでもないが、彼らはそういうかも知れない。
同じことでも感じ方によって不愉快になったり、許してしまったり、人の心は不思議で面白い。
2005.10.26