横文字の看板が並んでいますが、この写真は海外ではありません。日本の大阪は北摂・豊中市蛍池の昭和28年(1953年)のものです。
昭和14年、大阪第二飛行場として開場した現在の大阪国際空港は、昭和20年8月から昭和33年3月17日まで、進駐軍に接取され、この豊中市・蛍池の一角だけは基地の町のようでした。
以前に「テキサス通り ~知られざる北摂の黒歴史!」と題して、戦後の大阪空港の周辺の知られざる歴史について書きましたので、そちらをお読み頂けると戦後の大阪のほとんど語られることの無かった歴を知ることが出来ます。地元の人でさえ、もう知っている人がほとんどいないという状況ですが、それで本当に良いものでしょうか?
ここは大阪・阪急宝塚線・蛍池駅から少し北で上がった176号線の交差点。左折すれば大阪空港へ一直線です。真っすぐ100メートルほど行った先を右折すれば、大阪大学、中央環状線という位置。
同じ場所の1950年代の写真がこれ。
看板にあるように「イタミ・エアフィールド」と書かれているのが、現在の「大阪国際空港」のことです。この写真の場所を左折すると、上の写真の海外のような光景となり、この交差点から空港への沿道にはダンスホールやキャバレーが立ち並び、僕の父親によると「テキサス通り」と呼ばれて、米軍を顧客とした売春が蔓延していました。
こんなことはもう誰もが忘れてしまったことですが、僕が小学校~中学校に通った頃に学校の同和教育が、他の地区に比べて異様に行われていたことは、こういう事実と関係があったのかも知れません。昭和40年代当時でさえ、テキサス通りという名称は完全に忘れられていました。この通りは当時ラブホテルだらけで今も多く残っていますが、空港や高速道路のインターチェンジ付近だからだと単純に考えていました。
戦後は本当に遠くなりました。そして現在のように中国が周辺を脅かしている状況にも関わらず、日本は本当に何も変わりません。完全に平和ボケしています。憲法9条をいつまでも後生大事に扱うのではなく、日本の将来を考えて憲法改正も議論はしなくてはいけないと思います。