青春タイムトラベル ~ 昭和の街角

昭和・平成 ~良き時代の「街の景色」がここにあります。

昭和37年のグリコ

2021-03-23 | 昭和・懐かしい大阪の風景

グリコの看板が道頓堀を飾ったのは、昭和10年だそうです。そして戦後。昭和30年に、二代目のグリコ看板は登場しました。



この写真はその2代目で、昭和37年に道頓堀でグリコの看板を撮影したものです。まだビルも現在のように立ち並んでいません。

さくらフィルム・コニカの看板が懐かしい。サクラカラーに名称変更し、その後富士写真フイルムとなることは、ご存知の通りです。また、富士フィルムは今では写真フィルムだけではなく、医薬品、医療機器、化粧品、健康食品を製造販売する企業に成長しています。

現在のグリコは6代目。表面も傷んで来たので、本日23日から表面のお化粧直しに入りました。


池田駅前 ~ダイハツ「パルD」

2021-03-22 | 昭和・懐かしい北摂の風景

阪急池田駅の駅高架下のショッピングモール「ブランマルシェ」。

昭和から平成の始めと今とでは、随分変わりました。大きな花屋さんが無くなりました。CDやLD(レーザーディスク・DVDとビデオのつなぎの媒体)を売っていた大きなCD屋さんも無くなりました。ここから喫茶店が無くなりました。靴屋さんも閉まり、ソフトバンクのショップも移転。神戸屋やお茶屋さんも閉店、文具店も昨年末で閉店・・・どんどん精彩を欠いて行きます。もう閉店が止まりません。

本屋は10時開店なのに、お昼過ぎにならないとその日の発売の本が店頭に並ばない遅さ。池田銀行は無人化を進め、併設しているサンシティやステーションNは、更に衰退しています。文具店「ハセガワ・アート」も今はありません。ラーメンミュージアムで人が訪れていても、どんどんお店が閉店して行きました。176号線を挟んだ池田商店街は、落語ミュージアムや大衆演劇などで踏ん張っていますが。

今ではそこに、新型コロナウイルスが襲いかかり、お店は減少する一方です。

1つ先の川西能勢口にある阪急百貨店が進出を先ず計画したのが、この池田駅でしたが、商店街の反対で川西に出店。駅の真下の大きなツタヤ川西店も閉店して、川西も落日の兆しが無くもありませんが、JRや能勢電への接続駅でもあり、いろいろなお店が入れ替わりながらも池田よりは繁栄しています。

池田駅がまだ栄えているのは、地元の大会社である「ダイハツ工業」本社が、この池田にあるからです。しかし、ダイハツの研修所が平成の初期に、池田から塚本に移転してからは、全国から1年を通じて研修にやって来る人々がいなくなり、駅前の飲み屋「シーホース」を始めとする飲食店、宿泊施設は壊滅しました。

そんな池田駅前・ブランマルシェには、ダイハツのショー・ルームが、現在のダイエー前の池田銀行の横(先日閉店した美容院のあたり)に90年代にはありました。ダイハツ工業がお金を出し、運営は販売店であるダイハツ新大阪(現在は大阪ダイハツに合併吸収)が行う。セールス・レディ(当時の呼び名)だけを置き、基本的に自動車の販売・商談はせず、ダイハツの情報発信をメインの目的としていました。

そのショールーム「パルD」の写真が出て来ました。平成2年当時、全国のダイハツ販売ディーラーの「お手本」となっていたショールームです。写真に写っている軽自動車は、この当時発売されたばかりの新規格「660cc」の排気量のものです。この車で、軽自動車初のパワステ、パワーウインドが搭載されました。真正面の「アプローズ」という車は、ダイハツ初の1600CCという排気量の車でしたが、エンジンからの出火事故報道などで、期待していた商品とはならずに姿を消しました。


電動・鉛筆削り

2021-03-21 | こんな「モノ」ありました!

僕が小学校に入学する1~2年前、いつも字を書く練習や絵を書いていたので、鉛筆をナイフで削るのも、毎日数本で大変でした。

それで「買って」と両親にお願いしたのが鉛筆削り。友達の兄貴が使っていたような、鉛筆を入れて止め、反対のハンドルをクルクル回す手動のもの(当時、学校の教室においていたようなもの)が欲しいと思っていたら・・・

両親が買ってくれたのが、このナショナルの電動鉛筆削りでした。その写真が懐かしい!当時、そんなに沢山モデルがあったとは思えないので、同じものを使っていた人もいるのでは?

削り終わると、鉛筆はそれ以上奥に入らず、正面から見て、左上のランプが点滅。削りカスは下のプラスティックの透明ケースに溜まりました。溜め過ぎると、ごみケースが引き出せなくなり、機械部に削りカスが入り込むので、早めの掃除をしなくてはなりませんでした。


宮崎美子さんが・・終活?

2021-03-20 | 本は友達・読書も大切です!

書店で素敵な笑顔・・と思ったら、僕の好きな宮崎美子さんでした。

手に取った雑誌は「ソナエ」。終活読本です。

終活というのも聞こえが悪いですが、これからの僕らのようなアラカンには必要な情報が掲載されている本です。

宮崎さんは、表紙と巻頭インタビュー。「終活は”総点検”から断捨離を逃れた宝もの」「60代は”楽しい種”を探すプラチナ世代」と数ページに渡り、いろいろと語っています。

3月17日発売のものですので、まだまだ店頭にありますよ!


スティービー・ニックス が目の前にいた!

2021-03-19 | 素晴らしかった興行・イベント

スティービー・ニックス ~ フリードウッド・マックの看板ヴォーカルとして活躍し、グループ在籍中にソロ活動を開始。81年の初ソロ・アルバム「麗しのベラドンナ」がいきなり全米No.1を獲得。MTV世代なら憶えていると思います。プロモーション・ビデオの中での妖艶さや、酒やけしたようなダミ声、そして全身総レースの服を着て歌い舞う、あの姿を。僕も「エッジ・オブ・セブンティーン」の彼女の長いプロモーション・ビデオを、TV番組「ベストヒットUSA」の中で見た時は、彼女のセクシーさにノックアウトされました。僕が彼女に会い、本人の口から今日ここに書く情報を聞いたのは、2001年のことです。当時彼女は53歳だったのですが、もしその時あなたが一緒にいたら、皆さんも彼女の年齢が信じられなかったと思います。



彼女に話を聞けたのは、ボストンで。僕のアメリカ人の友人がクリスマスパーティを開き、そこにスティービー・ニックスがいた!からです。個人的なディナーショーを想像して下さい。それでも、「スティービーがなぜここにいるの?」と尋ねると、何と僕の友人の友達だったのです。アメリカ人の交友関係やネットワークには何十年付き合っていても、今でも驚くことが多い。ちょっとしたことから知り合い、きちんとフォローしていれば、お金持ちかどうかや職業や国籍を問わず、自分に必要だと思われたら友人になれ、そこからいろんな人を紹介してもらえたりして人生のチャンスが広がります。

それほど長い時間はありませんでしたが、「リアノン」「嘆きの天使」「スタンド・バック」「エッジ・オブ・セブンティーン」をパーティ会場では生で聴くことが出来ました。その日の会話の中身をご紹介しましょう。

彼女の私生活は波乱万丈と聞いていましたが、まずは彼女の成功までの軌跡。本名Stephanie Lynn Nicks、1948年5月26日に、アリゾナ州フェニックスに生まれる。

「音楽は高校時代にバンドを始めたの。始めて2年後にリンジー・バッキンガムと出逢ってバンドを組み、ジミー・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンのオープニングをしたりして3年間くらい活動をしたわ。LAを中心にね。」既に高校生の時に、恋人リンジーと出逢っていたのです。しかも伝説のシンガーの前座を勤めていました。

「そのグループを解散した後リンジーと、バッキンガム・ニックスというデュオを組んだわ。レコードも出したけど、録音はどこだったと思う?コーヒー工場の中よ。しかも全く売れなかったの。(*これはポリドールレコードからリリースされた。)26歳くらいまでウエイトレス、歯科医の助手、ハウスキーパーと転々としていた。その後よ。ミック・フリートウッドがリンジーをギターリストとしてフリートウッド・マックに迎えたいと言って来たのは。その時彼が、私も一緒に参加させてくれるならと言ってくれたわ。あの電話1本と彼の一言で私の人生は決まったの。」こうしてリンジー・バッキンガムとスティービー・ニックスを加えたフリートウッド・マックは大成功を収めます。1975年にアルバム「ファンタスティック・マック」で彼女は「リアノン」を大ヒットさせ、1977年のアルバム「噂」は全米アルバムチャート1位を31週連続でキープ、全世界で2,500万枚を売りました。リアノンの意味を知らなかったので訊くと、「リアノンはイギリスの中世・ウェールズの神話に出てくる女神の名前よ。」と、日本人なら知らなくても当然だと、笑顔で教えてくれました。

彼女の結婚歴があまり知られていないので、思い切って訊きました。「1983年1月にキム・アンダーソンと結婚したことがあるの。とても短い期間だけ。ウエディングドレスは黒だった。私が15歳の時からの親友がいたわ。そう。いたの。もう亡くなったから。名前はロビン・アンダーソン。彼女は結婚して子供を産んで、1982年に白血病で亡くなったわ。彼女は私の親友でセラピストでもあったの。彼女の死の後、彼女の夫のキムを慰め、彼女の赤ん坊の世話をしなくてはと思って結婚したけど、無理だった。あなた方にお願いがあるの。もし私に贈り物をするなら、寄付をお願いしたいの。」彼女が世界中の人形をコレクションしていることは有名で、いろんな贈り物が来ます。もしそのお金があれば寄付をして欲しいということです。

寄付の先は「City of Hope」と言う、ガンや難病のセンターです。http://www.cityofhope.org のURLからオンラインで寄付(donation)も出来ます。また彼女のこういうボランティア精神は、自身の体験からによるものかも知れません。「私は1986年11月に、コカインを10年間使って来たことを克服したの。1か月掛かったけれど、もし止めていなければ恐ろしいことになったと思う。」

噂に上ったボーイフレンドとの交際については、「噂の中の男性で、誰が私とデートしていないかを尋ねる方が早いと思うわ。リンジー・バッキンガム、ドン・ヘンリー、ミック・フリートウッド、ジョー・ウォルシュ、J.D.サウザー? みんな素敵だった。」そして最後に彼女はこう言いました。

「恋とは楽しむこと。それが分かれば、あなたは恋の勝者よ。」