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+ クリスマスイブの神社・・・ キリスト教徒の思い出

2005年12月25日 17時12分17秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 灯篭の  イヴの神社に  手を合わせ

   馬糞 Bafun

 

  

 


 世間がクリスマス・イヴだと思っているその日、福間

のプールで一泳ぎして、海岸から宮地嶽神社の参道を貫

いた。

しめなわが新しくなっていた。

 青々とした太縄が新春を薫らせていた。

 めでたい!

 

 おしむらくは、神式のクリスマスをやっていなかった

ことだ。

 クリスマスにあわせて、冬至の祭りをやってはいかが

か。

 大国主命はたしかサンタに負けない大袋をもっていら

っしゃる。

 そこから、冬至餅を取り出して、さあさあさあと餅ま

きのプレゼントをするのである。 


 爺婆にとっては、巷のクリスマスなんて縁遠い話であ

る。

 公平に爺婆向けのクリスマスをやってくれたら良いの

に・・・。

 禰宜さんのイノベーションに期待する。

 

 

教会のクリスチャンだった頃

子供時代、学生時代は教会に通うクリスチャンだった。

 クリスマスは一年で一番の楽しみだった。

 賛美歌のクリスマスソングは名曲ぞろいである。

 暗くなるとろうそくを掲げて信者の家々を回り、賛美

歌を歌うのである。

 これをキャロリングという。


 缶詰の空き缶をくりぬいてロウソク入れを作り、それ

をもって、ロウソクの灯の賛美歌を歌う。

 家々では、沢山のお菓子をいただいた。

 お菓子をもって教会に帰ると、蜀火賛美礼拝がある。

 礼拝は日曜の朝と相場が決まっているが、クリスマス

には夜に礼拝があるのだ。

 

 

 しかし、信仰について自問自答するようになると、キ

リスト教の教義に納得が行かない部分が許せなくなった。

 神と人間の関係、死と生きる意味の関係。

 なぜ、共産主義と結びつくのかという疑問。

 明快な回答はなかった。


 神は愛なりという教えはすばらしかったが、神の実在

性については説得力がなかった。

 

 死んでどうなるのか・・・ という合理的説明もない。

 死んだら天国に行き、そこで、永遠に楽しく暮らすの

だという。

 悪いことをした人間も天国に行くというのか。

 お世話になったかつての開拓伝道の牧師に数十年ぶり

に再会してお酒を酌み交わしたことがあった。

 しかし、転生輪廻を否定する頑なさに愕然とした。

 キリスト教はもはや新しい時代の入れ物ではありえな

い。

 聖書にあるように、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入

れなければならないということである。

 

 アジアの時代であるならば、新しい仏教が新しい教え

を説いていることであろう。

 それはもちろん、犯罪や政治的野望に関わっている宗

教団体であろうはずはないのであるが。


 しっかりとした宗教教育がないと、邪教に引っかかる。

 伝統仏教もキリスト教も風化してしまったが、東西の

世界宗教を統合してさらに新しい文明を説くようなスケ

ールの大きな教えが説かれてリーダーを指導するように

なれば、「文明の衝突」の時代であっても、新しい繁栄

へと導くことができるはずである。

 

宗教なき繁栄などはありえない。

 「王といえども神と法の下にあり」というマグナカル

タは現代に生きている。


「民主主義といえども、神と法の下にあり」と言い換え

てもよい。

 神なき人の政治は独裁か衆愚政治に陥るものである。

 われわれは謙虚に知恵を磨き、心を研ぎ澄まして新し

い文明の光を見出さなければならない時期に来ているの

である。

 

                           J.D.Subunroco. 

                           

 

 

 

 

 

 

 

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+ 都鳥の手ぶら旅・・・ 唯物思想の邪見

2005年12月25日 13時32分53秒 | 立憲女王国・神聖・九州やまとの国

 

 

都鳥  仮の世なれば  身一つに


      馬糞 Bafun

 

 

 

 

 

「鳥にはすべてが与えられているのに・・・

 それでも足りないというなら、
動物たちにできない貢

献をするためでなければおかしいと思う」

        

 酉年の最後に、都鳥(ユリカモメ)は思う・・・

 


 「自由と平等」は、フランス革命の旗印であった。

 身分制の呪縛から開放する、天使の旗印に思えた。

 ところが、今は、地獄の道しるべに並べられている。

 所詮、努力もしないで、楽になろうというデモ行進と

流血の旗印だったのか。

 その旗印に囲まれて、20世紀文明は臨終のときを迎

えた。

 

 

【自由と平等・・・人間中心主義の危険思想】 

 自由というブランドに入り込んだのは、人間中心主義、

即ち、神からの自由という邪見である。

 神がいないことの証明として提出されたのが、ダーウィ

ンの進化論である。

 「私たちは偶然に生まれ、偶然に進化してきたのだ」と。

 

 サルの化石を手にして、これが人類の起源だなどとい

う猿知恵を意味深げに説明する類人猿科学者もいる。

 その人もアメーバーのような単細胞から進化したのだ

そうだ。

 その単細胞生命は偶然に地上に発生したのだそうだ。


 つまり、人間は偶然に発生し進化したという。
 

科学の原点は偶然にある。

 その結論として、だから神はいない、という自由論に

行く着く。


 何のことはない。

 信じるしかない「神」という存在を、信じるしかない

「偶然」という思想の牢獄に閉じ込めようというのであ

る。

 

 この、偶然論科学とは、人間の五感の世界観によって

神という存在を否定する考え方に他ならない。

 

 科学には二つの方向性がある。

 一つは、神の創造世界を探求するという信仰の科学で

ある。

 もう一つは、神を否定する唯物論科学である。

 その説明のつかないところを偶然論で説明する特色が

ある。

 

 その代表がダーウィンである。

 「神は死んだ」と、その勝利宣言をしたのが、ニーチ

ェである。

 これに同調して「ツァラストラはかく語りき」を作曲

したのがリヒャルト・シュトラウスである。


 この世を去った非科学の世界で、地獄の看板を張って

いる人類の罪人というべき面々である。

 

 神も仏もないという世界観の科学的証明は不可能であ

る。

 即ち、信じるしかない世界観に他ならない。

 神を否定するのであるから、悪魔的思想であり、悪魔

信仰である。

 

 「神も仏もない」という世界観とはそれほどに信じる

価値があるものなのか。

 

 同質の人間が偶然生まれたこと自体不思議であり、そ

れも偶然なのだろうが、そうであるならば、そもそも、

秩序、正義、思いやりなどということは、功利的な計算

の結果でこそあれ、思想的根拠はないことになる。

 

 そもそも、人間関係は無関係であり、偶然居合わせた

という偶然の関係に他ならないことになるからである。 

 即ち、唯物論科学、偶然の思想による人間関係論は、

力の支配論であり、競争は弱肉強食論である。

 したがって、いじめというのも本来は悪いことではな

い。


 倫理という秩序論も、不利益が自分に及ぶからやめな

さいということであって、それでもかまわないというな

ら悪ではないことになる。

 敵を向こうに回して暴れたい人にとっては、大量殺人

さえもサバイバルの倫理なのである。

 

 まさに、危険思想というほかはない。

 まさに、悪魔思想ではないか。

 

 唯物論といい、人間中心主義を標榜する自由・平等思

想といい、 信仰をあざ笑う「常識」こそは、獅子身中

の虫であることを看破なければならない。

 


 J.D.Subunroco.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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