佳き花の その面影や 冬牡丹
馬糞 Bafun
あふれるほどに、次々に花開いている。
その花に鳥が歌い、その歌に風もぬるむ。
今日は、「雨水」である。
ああ、いよいよ卒業の季節、巣立ちの季節となった。
その最終講義。
「不幸になりたい人いますか」
「・・・ 」
「不幸って、どういうものですか」
「・・・ 」
「・・・死ぬことでしょうか」
「う~ん、確かにご不幸といいますね」
「しかし、人は遅かれ早かれ全員死亡します」
「ご愁傷様です。先にお悔やみ申し上げておきます」
「ということは、われわれは、不幸になるために生き
ていることになりますが、納得できますか。」
「自分だけが幸福、自分だけが不幸ということはあり
ません。なぜなら、人は一人では生きていないからです」
「不幸な人は、必ず周りを不幸にしています。傷つけ
ています。しかし、他人を傷つける権利などありません
よね」
「自分一人が不幸になることは勝手でしょうが、他人
を巻き添えにする以上、不幸になる権利はないというこ
とになります」
「ということは、幸福になるしかない。自分だけが幸
福ということもありえませんから、周りを幸福にするし
かないということになる」
「即ち、人は、幸福になる責任、幸福責任があるとい
うことです」
「では、幸福になるということはどういうことでしょ
うか・・・」
人は意外と、幸福になる責任があることに気づいてい
ない。
しかも、幸福とは何かということをよく理解していな
い。
マズローは「自己実現」を説いた。
キリストは『隣人愛』を説いた。
仏教は仏との一体の境地『無我』を説いた。
幸福の科学は『愛を与えることの幸福』と説いた。
死を避けては通れない幸不幸の問題を、学校でも教え
てはいない。
政治も、教育も、正しい宗教に学ばなければならない
ということに気づかねばなるまい。
梅士 Baishi