蛍川 光の筋も せせらぎぬ
梅士 Baishi
日本という歴史ある国が今、マスコミ、国民多数の希
望として中国に身売りしようとしている。
日本人がいなくなっても、蛍川には、かつての日本人
の魂のように儚い蛍の光が浮遊しているのであろう。
戦後、日本民族は滅亡したというべきなのではないか。
民族とは遺伝子だけのことではない。
文化文明としての民族である。
【日本滅亡論】
実際、かつての日本人とのアイデンティティーがない。
武士道精神もなく、愛国心にいたってはさらさらない。
その国際人感覚は、めでたくも、チャイナと同化でき
ると妄想する始末である。
その妄想を公約とした民主党政権が国民によって選出
された。
そうした売国奴政権を、正統政権と認めてよいのか、
民主主義といってよいのかは問題であろう。
NHKを無血開城できるか、それが、大政奉還をめざす
革命の一歩となるであろう。
NHKが誘導した偽装民主主義は、国を売って持参金代
わりにしようという輩の政権を誕生させた。
自滅政権である。
マスコミに誘導される国民大衆のみならず、企業でさ
えも国を憂える所がない。
それが、「民意」なのであろう。
しかし、その民とは売国奴のことであり、国家に責任
を持つものでない以上、市民とはいえない。
偽装国民である。
それにしても、なぜ、売国という民意が多数を占める
のか。
なぜ、社会主義国家をめざし、さらには、中国への編
入を画策するのか。
【なぜ、社会主義を望むのか~社会主義本質論】
社会主義の本意は、失業の不安や、離婚による生活不
安、さらには老後の不安を国家の生活保障制度によって
解消したいということにあるのではないか。
働けなくても、制度的権利として、国家に保護される
安心がほしいということだろう。
それが、すなわち、全体主義・社会主義幻想である。
その結果、中国が理想の国に見えるらしいのである。
邪教のように、楽をして幸福や安心を手に入るという
ものが人気なのである。
ところが、幸福の科学は、自助努力し、他人のために
生きる責任がある、それが、人生修行であり、信仰であ
るという。
霊的な人生観とは、修行の人生観である。
こうした、自助努力の宗教を邪教扱いするばか者が多
い。
世のため人のため、心を正して努力せよという宗教の
どこに邪さがあるというのか。
邪(ヨコシマ)とは私利私欲のために画策することを
言うのである。
不信仰なる者こそは、私利私欲を優先する自分至上主
義者というべきではないのか。
働かない人からは税金はとりませんよ、働かなくても、
いろんな手当てを支給しますよ、という民主党政権こそ
はは邪教のようであり、邪党というべきであろう。
いわば、ご利益政党である。
35兆円の税収に対して、90兆円のばら撒き予算を
組んで、いつまでばら撒けるというのか。
だから、増税だといっているが、今の倍以上の増税し
なければつじつまが合わない。
結局は、国家財政は破綻するのであり、詰め腹を切ら
されるのは国民ですよと警告してやっているのである。
増税がいかにも回避できない正論であるかのように言
っているが、これが、自由を殺す社会主義の始まりです
よとも警告している。
社会主義がいかにも正しいことのように誤解される理
由は、国が国民の生活を保障しますよといううたい文句
にある。
働かなくても生活できるという幻想を、国家事業とい
うどんぶり勘定でごまかしているのが国家社会主義の実
態というべきであろう。
収入以上の支出をしたら、財政が破綻することは、社
会主義国家でも資本主義国家でも避けられない因果応報
である。
だから、そんな計算の合わない幻想にだまされて増税
を許し、自由制限を仕方のないことだと許してはならな
いのである。
確かに、年々肥大化する六法は、国家社会主義の自由
規制の表れであろう。
飛びぬけて成功してはいけない、弱者に遠慮しながら、
平均的に利益が配分されなければならないという、社会
主義の発想である。
まさに、自由規制のメタボで動きが悪くなり、血液循
環が悪くなって早死にするのである。
弱者保護、働かなくても食える、というのは安心と思
うのだろうが、そんな手品のようなことがどうしてでき
るというのか。
まさに政治的トリックにほかならない。
何一つとして安心ならない偽装であり、人だましで
ある。
・・・・・ つづく