浪漫飛行への誘(いざな)い

海外旅行は102か国、海外旅行、世界遺産、飛行機、卓球、音楽、歌謡曲、初物、語学、仏教シリーズ等の趣味の世界をブログに

新・地球絶景紀行~知らなかった「虹の山」

2020年09月16日 23時52分15秒 | 旅行

9月16日のBS-TBSの新・地球絶景紀行は、ペルー・クスコの標高5000mの天空にそびえる「ビニクンカ山」を紹介していた。別名「レインボーマウンテン(虹の山)」と呼ばれ、虹色の輝きを放っているまさに天空の山である。

ペルーといえば、マチュピチュの遺跡やナスカの地上絵が有名であり、最後の旅行にとってある国であるが、そこに今回紹介された「虹の山」があるなんて、全く知らなかった。虹の山は2013年に発見されたばかりというから驚きの話である。地球温暖化の影響で、氷河が溶け出し、この虹の山が姿を現したそうである。虹の山は、昔の鉱物の層が酸化してできたもので、赤や黄色、淡い青などカラフルに染まった山は虹そのものに見えるという。

虹色に染まる奇跡の山は死ぬまでに一度は見たいペルーの新絶景スポットになっているようであるが、標高5100mもあり、個人的には高山病のことを考えると実現性が厳しいかも知れない。テレビで見ているかぎり、絶景ポイントに行くまで相当大変なイメージである。

最近のテレビの映像は物凄く綺麗になっているので、テレビでも十分感動的な美しさは味わえるような気もする。この番組の旅人というかナレーターは吉田羊さんで、その語りも楽しいが、本人が実際に旅しているわけではないところがいい。テレビの旅番組というと旅人だけが妙にはしゃぐ感が目立ち、あまり気分がよくないことも多い。恵まれた環境で、いい宿に泊まり、あまりもの豪華旅行は目の毒でもある。その点、この番組は旅人の姿が一切出てこないところが大変気に入っている。

今や、コロナ禍で海外旅行は、夢のまた夢状態である。ペルーへの旅を最後の旅行としてとっているが、もはや実現も怪しくなってきている。お金もかかるので、今はやりのバーチャルトラベルの方がいいかも知れない。虹の山も人気がでてきているようであるが、まだまだ知られていないような気がする。
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シリア旅行の思い出

2020年09月15日 23時03分48秒 | 旅行

2005年4月、シリアの首都ダマスカスでアジア地区の会議があり、出張旅行であったが、合間を見て、ダマスカスの街の観光スポットにも足を運んだ。シリアが50番目の訪問国となった。当時は内戦などなく、街を歩いていて治安上の不安を感じることも全くなかった。

シリア航空を利用し、アレッポ国際空港経由で現地入りした。見て回ったスポットは、ヒジャーズ駅、アゼム宮殿、ウマイヤド・モスク、スークハメディーエ、サラディーン廟、軍事博物館等であるが、どこも好奇心を駆り立てるスポットであった。新約聖書に出てくる「真っすぐな道」が実際にあったり、ローマ時代の柱や廃墟が残っていたり、歴史を肌で感じることができた。シャーム・パレス・ダマスカスホテルの最上階にある回転レストランから伝説の山であるカシオン山や市街を臨む景観が印象的であった。

内戦状態にある今となってはとても行ける国ではないので、貴重な体験をすることができた。

写真は、カシオン山や市街を臨む、アゼム宮殿、ウマイヤド・モスク

シリア旅行アルバム: https://youtu.be/TMYCkYMQCQs



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プエルトリコ旅行の思い出

2020年09月15日 22時30分12秒 | 旅行

2003年7月にプエルトリコの首都サン・フアンでマスターズ世界陸上競技選手権及び世界マスターズ総会が開催され、出張旅行で、1週間ほどサン・フアンに滞在した。プエルトリコが47か国目の地域となった。

プエルトリコは独立国ではなく、アメリカの自治連邦区であるが、カリブ海に位置するユニークな地域となっている。歴史地区は世界遺産として登録されており、スペインによって建設された軍事要塞であるエル・モロ要塞、サンホセ教会、ラス・アメリカス博物館、サン・フアン大聖堂、サン・クリストバル要塞や郊外のバカルティ・ラム工場を見学することができた。要塞は広大で見どころ十分であった、ラム工場では、試飲もでき、工場内を見学できるようになっている。全体的にのんびりした雰囲気で南国情緒が漂っていた。プエルト・リコといえば、ミュージカル「ウエスト・サイド物語」の中の「アメリカ」という曲で、その名前が出てくるので、印象深い地域であった。なかなか行けないところであるので、この出張旅行に感謝する次第である。

 写真はエル・モロ要塞

プエルト・リコ旅行アルバム(3.07まで): https://youtu.be/CUwf4UFBvxM

ミュージカル「ウェストサイド物語」から「アメリカ」:


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ブルネイ旅行の思い出 

2020年09月15日 08時53分52秒 | 旅行

ヨーロッパは、コソヴォ訪問により、53の国と地域のすべてに足を踏み入れ、ヨーロッパ完全制覇を果たした。次に、旅行の思い出としては、アジア及び他の地域で人があまり行かない国々への旅行の思い出を振リかえってみたい。まずは、2001年7月に行ったブルネイである。

2001年7月にブルネイでアジアジュニア陸上競技選手権が開催され、出張で4日間ほど、首都バンダルスリブガワンに滞在した。競技会がメインであるが、合間を見て観光をすることもできた。国王の個人資産で建てられたというジャメ・アサール・ハサナル・ボルキア・モスクやカンポン・アイル(水上集落)やブルネイ博物館等を見ることができた。この国では国王は絶対の権利を持っており、皆からも支持されているようである。

国として、飲酒は禁止されているが、お目こぼしもあるようである。外国人旅行者も1本程度であれば、持込が黙認されているとのことであった。レストランでも酒類の提供は禁止されているが、特定の人には、特別ルームで飲酒を認めているようである。現に我々のグループの夕食会では持ち込んだお酒を飲むこともできた。

街中には、王様の肖像画がそこかしこに飾られていた。観光として見るべきものはそんなにないが、国自体が豊かで、何とも面白い国であるとの印象を持った。観光として旅行するチャンスは少ないとい思うので、貴重な経験をすることができた。

写真は、ジャメ・アサール・ハサナル・ボルキア・モスク及び水上集落

旅行アルバム: https://youtu.be/zDaEnOv_70o

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卓球による国際交流

2020年09月15日 08時20分10秒 | 卓球

卓球は、大学で始めて、今でも地元のクラブで楽しんでいるが、1977年に初めて外国人との親善卓球をやって以来、卓球の国際交流を何度も経験している。個別には、1977年にカンタス航空、1983年にルフトハンザ航空、中国民航(当時の国営会社)、1996年にイラン航空との親善試合を経験した。1983年の中国民航との親善試合は、代表団を結成し、9日間にわたり、北京、杭州、上海に遠征しての交流であった。北京空港到着時、赤じゅうたんを通って貴賓室に入ることから始まり、VIP待遇の親善交流であったが、こんな貴重な体験ができたことを今でも感謝している。中国とのレベルの違いは明らかで惨敗に終わったが、意義ある親善試合を行うことができた。自分の知る中国と昨今の習近平による共産党独裁政権とのギャップに違和感を覚える。

航空会社間では、1980年にマレーシア航空の提唱で、WOFIA(Wings Of Friendship Inter-Airlines)という国際大会が始まり、2001年の22回大会まで続いた。第4回と第19回は、東京での主催大会のマネジャーとして、すべての大会運営を経験することもできた。特に1983年の第4回大会は250人(海外から200人)もの参加者がいたので、今思い返すと想像を絶するものがあった。個人的に参加したのは、第2回ハンブルク、第3回パリ、第7回コペンハーゲン、第13回クアランプール、第16回ハンブルク、第17回中国中山市、第22回バンクーバー大会だけであるが、多くの外国人と卓球交流という貴重な経験をすることができた。トップ選手ならともかく我々愛好家レベルでこれだけ国際交流を経験している幸せ者も少ないものと感謝している。

その後、1985年から4年間、ドイツでも地元のクラブに所属し、クライスリーガ(ブンデスリーガのはるか下のリーグ)でプレイし、クラブの仲間と汗を流し、ドイツ人との交流試合を数多く経験できたこともラッキーであった。卓球を通じての国際交流は、まさにピンポン外交で自分にとって大きな財産となっている。
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二人目の孫が誕生

2020年09月14日 23時15分05秒 | 日常

9月14日、息子のところに二人目の子供が生まれ、孫が二人となった。初孫は男の子(現在2才半)であったが、今度は女の子。何と誕生時刻が息子の時と全く同じ12時42分と聞いてビックリ。予定日より早い出産となったが、体重は2700gを越え、母子とも元気なようでまずは一安心。事前に性別はわかっていたが、我が家系では初めての女の子なので、嬉しい思いである。コロナ禍の中、奥さんが上の子を連れてタイから一時帰国し、出産は日本で行ったが、未だに、日本とタイ間は、ビジネスですら往来できないので、駐在中の息子は可哀そうなことに帰国できず、出産の立ち合いもかなわなかった。コロナ禍の中、対面できるのはいつのことになるやら。

日本では外国との往来をほぼ禁止しており、現状では、観光どころかビジネスでも往来できないので、その影響は大きい。PCR検査体制を充実させ、早く鎖国状態から脱する施策を講じないととんでもないことになりそうである。観光の海外旅行が全くできないのも残念であるが、せめてビジネスだけでも往来できるよう早急な対策が必要である。菅首相がどこまでクイックアクションが取れるか試される。コロナ禍の現状をみれば、総選挙のことなんか口にするのもけしからん話である。麻生氏はどこまでもそういう政治屋であることがよくわかる。新しい菅体制の組閣がまもなく発表されると思うが、個人的には期待していない。
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コソヴォ旅行の思い出

2020年09月14日 10時31分09秒 | 旅行

2017年5月5日、ヨーロッパで一番新しい国、コソヴォについに足を踏み入れ、ヨーロッパ53ヶ国(国と地域)の完全制覇を達成した。世界中では、コソヴォが101ヶ国目となったが、想像するよりはるかに街中は平和で治安も悪くない印象で、コソヴォ紛争なる言葉だけで我々が勝手に危ないと誤解しているようである。当時、現地で日記を書いているので、振り返って記してみたい。(一部加筆訂正)

5日、イスタンブール経由でコソヴォの首都プリシュティーナに早朝に着いたが、今回はホテルに空港での出迎えを依頼していたので、極めて楽でスムーズなホテル入りであった。個人旅行をしていると最初の難関が見知らぬ空港に降り立ち、現地の通貨を用意し、いかにスムーズにタクシーまたは公共交通機関を利用するかであるが、今回のように前もって予約しておくと大変楽である。

早朝に着いたこともあって、ホテルスタッフの薦めで、予定になかったが、オスマン朝時代の建物が数多く残るプリズレンという南の街に行くことにした。バスで約2時間かかった(4ユーロ)が、ゆっくりと街の見学ができた。街中を散策したり、城塞にも上ったりしたが、世界遺産に登録された教会はクローズされていて入ることができなかった。

5日にプリズレンの世界遺産の修道院に修復中で中に入ることができなかったので、6日は、リベンジと思い、点在する3つの世界遺産を一日で駆け巡る計画を立てた。ホテルからバスターミナルまでタクシーで15分位、そこからペヤまで路線バスで約2時間弱。バスの時刻表はネットで少し調べていたが、本数が少なく、出たとこ勝負の感があった。11時20分頃ペヤに着いたが、観光案内所が土曜のためクローズで情報を得ることができず、やむなく、約1時間歩き続け、12時20分頃やっと修道院に辿り着いた。

このペヤ総主教修道院はNATOの平和維持軍が警備しており、入口でパスポートを預けるシテムであった。建物は13世紀のものであるが、中は撮影禁止。帰りは、運よくタクシーをつかまえることができ、ターミナルに戻ってから、デチャニ行のバスに乗り換えた。たまたま着いてすぐに出発するバスがあり、13時10分頃にはデチャニに到着していた。降りてすぐタクシーをつかまえ、片道15分はかかるが、向こうでの待ち時間料金も含め、8ユーロで交渉成立。

このヴィソキ・デチャニ修道院もパスポ-トを入口で預け、タクシーを待たせて10分ほど見学したが、残念ながらやはり内部は撮影禁止。見学後、タクシーに乗ったところまで戻って、そこでペヤに戻るバスを待った。本数が少ないので、すぐには無理かなと思ったが、3分も待ったら運よくバスが来た。そんなわけで14時50分にはペヤのバスターミナルに戻ることができた。これまたラッキーにも、5分も待たずにプリシュティナ行のバスに滑り込むことができた。 時刻表では1時間45分となっていたが、これまたラッキーにも1時間ちょっとで、16時すぎにはプリシュティナに戻ることができた。郊外にあるやはり世界遺産に登録されているグラチャニツァ修道院のオープン時間が17時までとなっていたのでとても無理かなとも思ったが、これも滑り込みで見学することができた。

これでコソヴォの世界遺産の4つの修道院をすべて見学することができた。たった2泊であったことを考えるとよく見で回れたものと自分ながら感心する。どの修道院も内部のフレスコ画は保存状態もよく、まさに眼を見張るほどの素晴らしさであった。NATO軍が厳重に警備しているのもうなずけるが、写真撮影ができないのが残念であった。コソヴォに行ったことのある日本人はまだ極めて少ないと思うが、治安は問題ないので、是非一度コソヴォにも足を運ばれることをお奨めする。

写真は、プリズレンの旧市街及びペヤ総主教修道院及びグラチャニツァ修道院

コソヴォ旅行アルバム: https://youtu.be/1NGZLMGEAJM


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パレスチナ旅行の思い出 

2020年09月13日 09時00分50秒 | 旅行

イスラエルのエルサレム滞在中、2014年4月1日にパレスチナ自治区にあるベツレヘムに日帰り旅行した。パレスチナが、96番目の外国(地域)となった。ベツレヘムはエルサレムからバスで45分ほど行ったパレスチナ自治区にあるイエス・キリストが生まれた町である。バス料金は8シェケル(約240円)で、行きはパスポートのチェックもなく、帰りのみパスポートのチェックが車内であったが、荷物の検査もなく、治安上の心配も全くなかった。

スポーツの世界では、イスラエルはヨーロッパに属しているが、パレスチナはアジアに属していることに疑問を感じていたが、行ってみてよくわかったのは、ベツレヘムは、イエス生誕の地であるが、今ではアラブ人の町でイスラム色が強く、まさにヨーロッパではなくアジアの一部というかイスラム社会の町で、聖書にも出てくる地名のイメージとは違和感があった。

街の中心にあるのは、イエスが生まれたとされる聖誕教会で、教会の地下洞窟の中にはイエスが生まれたとされる場所に銀の星の形がはめ込まれている。真偽のほどはよくわからないが、そうだと伝え続けられているものを目の前にすると感慨深いものがある。イエスはてっきり馬小屋で生まれたものと思っていたが、どうも違うようである。

2012年にネパールのルンビニというお釈迦様の生まれたところにも行ってきたので、これで仏教とキリスト教の2大生誕地に行ったことになる。ベツレヘムといっても他にはあまり見るべきものもなく、イスラムの町からか町全体もあまりきれいではないので、キリスト教世界のベツレヘムのイメージをこわしそうである。

写真は、聖誕教会及びイエス・キリストが生まれた場所

パレスチナ旅行アルバム(6.15~): https://youtu.be/Q6duzhNfP3w


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イスラエル旅行の思い出 

2020年09月13日 08時44分05秒 | 旅行

2014年3月30日、イスタンブール経由でイスラエルのエルサレムに入国し、ヨーロッパでは52番目、世界全体では95番目の訪問国となった。当時旅先で日記を書いていたので、振り返って記してみたい。(一部加筆訂正)

ホテルは、ヤッフォ門にあるニュー・インペリアルという100年以上前から営業しているという老舗のホテルでドイツ皇帝のヴェルヘルム2世も宿泊したとのこと。また、セルマ・ラーゲルレーヴというスウェーデンの女性作家(『ニルスのふしぎな旅』の作者で、ノーベル文学賞を受賞)が1900年にこのホテルに宿泊したということで、スウェーデンからの観光客は必ずホテルに見学に来るそうである。そんな由緒あるホテルであることは全く知らずに、ロケーションと値段(1シングル朝食付で70ドル)から選んで予約したものであるが、建物や内装も雰囲気があり、このホテルにして大正解であった。

ホテルに早く着きすぎたため、レセプションでもらったパンフレットにあった約2時間のフリーのウォーキングツアーに入った。ホテルのすぐそばから出発する英語による無料のガイドツアーで、オリエンテーションとしてはうってつけでチェックインまでの時間を有効に使うことができた。

3月31日は、丸一日、世界遺産となっているエルサレム旧市街を歩いて見て回った。地球の歩き方の本を片手にキリスト教地区から始め、シオンの丘にあるダビデ王の墓、最後の晩餐の部屋、マリア永眠教会、イエスが投獄されていた鶏鳴教会、オリーブ山にあるイエスが昇天した昇天教会、主の祈りの教会、主の泣かれた教会、イエスが祈り、捕えられたゲッセマネの園、マリア昇天の場所と謂われるマリアの墓の教会を見て回った後、イエスが十字架を背負って歩いた悲しみの道であるヴィア・ドロローサを最終地点の聖墳墓教会までイエスの歩く姿をイメージし、歴史を感じながら歩き通した。

聖墳墓教会はゴルゴタの丘にあるキリスト教最大の巡礼地で、イエスの十字架が建てられた所、十字架から降ろされた畳ほどの大理石版、イエスのお墓等があり、いつも礼拝者で溢れかえっている。イエスの墓はいつ行っても長蛇の列ができていたが、思い切って45分ほど並んで見ることができた。実際にイエスとマリアに関連するスポットを次から次へと見て回ると歴史をタイムスリップしたような不思議な気分になる。今までに世界各地で教会やイエスにまつわるものをいろいろ見てきたが、本場エルサレムは別格で感動が全く異なるのである。

キリスト教地区の後は、ユダヤ民族の心の故郷である「嘆きの壁」に足を運んだ。テレビでは何回か見たことがあったが、ついに本物に出会うことができ、感動的であった。男性と女性の祈りの場所が分けられているが、よくわからないまま女性の方に間違って入ってしまったが、誰からも注意はなく、危なく女性の方の壁に行くところであった。

嘆きの壁の後は、ユダヤ人地区にあるカルド(世界最古の繁華街)や4つのシナゴーグを見学したが、この地区にはいろいろな遺跡が多数残っているようで、あちこちで遺跡が掘り返されている。最後の締めくくりは、ホテルの目の前にある「ダビデの塔」を見学した。歴史を重ねてきたエルサレムを物語る砦としても魅力あるが、現在は歴史博物館としても利用されている。また、ちょうど、“Sounds of the Old City”という音楽フェスティバルが行われており、目の前で鑑賞することができた。イスラエルのミュージシャンが何組も舞台に立ち、昼も夜も充実した1日となった。

エルサレムは観光地としても有名でどこに行っても観光客で溢れ返っていた。治安状況が悪いという印象は全くなく、まさに平穏そのものであった。しかし、日本からの観光客をほとんど見かけないのが異様に感じた。1日観光地を歩き回って見かけた日本人は、2組で10人程度。エルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地であり、観光資源も素晴らしく、魅力ある都市に間違いないが、どうしてあまり日本人が行かないのか不思議である。外務省の治安情報の脅しと旅行会社の怠慢に起因しているような気がしてならない。今は、ちょっと治安に心配もあるが、絶対に一度は訪れたい聖地である。エルサレムに行かずして、キリスト教やイエスやマリアのことを語ってほしくない思いである。

写真は、嘆きの壁、ヴィア・ドロローサの第3番及び聖墳墓教会

イスラエル旅行の思い出: https://youtu.be/Q6duzhNfP3w

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ジョージア旅行の思い出

2020年09月12日 09時19分20秒 | 旅行

2013年5月25日、アゼルバイジャン航空でバクーからジョージア(当時はグルジア)の首都トビリシに入った。ジョージアは、91か国目の訪問となった。26日は朝から強い雨が降っており、観光にはあまりにも悪条件であったが、ジョージア正教の総本山のツミンダ・サメバ大聖堂、ゴーリキーも幽閉されていたメテヒ教会、6世紀創生のトビリシの中心的教会のシオニ大聖堂、プーシキンも絶賛したハマム浴場等を見て回った。ジョージアは1991年5月26日にソ連から独立したが、その日がちょうど独立記念日(祝日)となっており、街中でいろいろな記念イベントが行われていた。昼すぎには雨が止み、街の中心に行くと独立記念日のイベントがいっぱいあって、ジョージア人に紛れ込んで楽しませてもらった。観光客らしき人はほとんど見かけず、もちろん日本人も一人も見かけなかった。

メイン通りが歩行者天国になっていて、そこかしこにステージがあって、歌や民族舞踊が繰り広げられていた。民族衣装を着た人達やプラカードを持った人達のパレードもあった。また、ジョージア軍の戦車や装甲車が通りに展示され、子供たちが乗り込んだり,銃を構えさせてもらったりしていた。軍の戦闘機による空中飛行もあった。たまたまとはいえ、トビリシの市内観光の日がジョージア独立記念日と重なるとは、すべて無料で楽しませてもらって、ラッキーであった。


27日は地下鉄と路線バスを乗り継いで、トビリシから車で約30分のところにあるムツヘタという世界遺産に指定されているジョージアの古都を訪ねた。地下鉄のディドウベ駅に隣接したバスターミナルからバスが出ているとガイドブックに載っているが、バス番号などはなく、ジョージア語による行先表示だけなので、どのバスか全くわからない。その辺にいる人に訊きまくって、何とかバスに乗ることができたが、バス代は、たった1ラリ(約63円)。帰りのバスの乗り場も確認したが、全く違う場所であった。この辺の確認を怠ると路線バスは安いけど痛い目にあうことになるので注意を要する。

この町には、元は4世紀に建てられ、11世紀に再建されたジョージア最古のスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂があり、要塞としても使われたので城壁にも囲まれている。さすが世界遺産に指定されている歴史観あふれる大聖堂である。向こうの山の頂上には、6世紀に建てられ、やはり世界遺産に指定されているジュヴァリ聖堂があるが、交通手段がないため、タクシーを15ラリ(約1000円)でチャーターした。この聖堂のそのものも古くて由緒あるが、そこからのムツヘタの町の眺望が素晴らしいので、わざわざタクシーを使ってでも来た価値は十分ある。

また、思ったより早く、トビリシに戻れたので、夕方前に、ゴンドラに乗って、ナリカラ要塞まで登った。頂上からは、ジョージアの母の像(右手に剣、左手にワインの杯を持つ)のところまで行ける。要塞からのトビリシの街が一望できるので、登る価値は十分ある。

写真は、ナリカラ要塞から見たトビリシ旧市街、世界遺産のスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂とジュヴァリ聖堂から見たムツヘタの町並み

ジョージア旅行の思い出: https://youtu.be/udW02SNpKKE


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