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〈国指定 史跡「江別古墳群」〉の全文
古墳文化の終末西暦七世紀頃、東北地方北部を中心に「群集墳」と呼ばれる古墳群が造られるようになります。この群集墳は、大和政権下にあった東北南部との接触交流により、東北北部に成立した独自の墓制と考えられます。群集墳は、九世紀頃まで受継がれ、北海道にも波及しました。
北海道の群集墳は、石狩川支流域の三ヵ所(江別二・恵庭一)で確認されていますが、現存するのはこの江別古墳群だけで、八世紀後半から九世紀にかけて造られたと考えられています。
江別古墳群は、昭和六年に後藤寿一によって発見され、その後、昭和五十五年の調査で古墳二十一基を確認、現在、十八基が旧豊平川を見下す丘陵上に残っています。
古墳は、直径三~十メートル、環状または馬蹄形状の周溝がめぐり、中央部に周溝から掘り上げた高さ一メートルの盛土で墳丘を築いています。さらに墳丘中央を掘り下げ木棺をじかに埋葬したものと思われ、蕨手刀(わらびてとう)、毛抜形刀(けぬきがたとう)、鉄製刀子(とうす)、耳環(じかん)、勾玉(まがたま)など本州からの輸入品を副葬しています。このことから、古墳の被葬者は当時の律令体制下にあった地域と深く関わった人々と考えられます。
江別古墳群は、群集墳の最も北に位置し、北海道に現存する唯一の古墳群として、また、当時の北海道と律令支配のおよんだ地域との交流を考える上で極めて重要な遺跡として、国の史跡に指定されています。
平成十年十一月 江別教育委員会
国の史跡に指定されているという江別古墳群(えべつこふんぐん)へ出かけてきました。
この古墳は古墳時代(3世紀-6世紀)のものではなく、飛鳥時代、奈良時代、平安時代前半の律令時代に造られたとのことで、この辺りで栄えていた擦文文化前半の時期に相当すると考えられています。
群集墳で、日本にある古墳の中では最北に位置するものとして、北海道で現存する唯一の古墳群として、また、この古墳から出土される遺品から、当時の北海道と律令制下の本州との交流を探るうえで極めて貴重な遺跡なのだそうです。
さて、草を掻き分けて階段を上り切り、視界が開けたところに古墳を象った草地がありました。はっきり見えなかったこともあり、草が生えていない時にまた足を運ぼうと思います。
江別古墳群について
所在地 江別市元江別858番地の4、858番地の4地先河川敷地
江別古墳群は、昭和6年後藤寿一氏により発見された遺跡です。後藤氏により16基が調査され、昭和55年に実施した再調査で21基の古墳を改めて確認しました。古墳の形は、径3~10m、高さ0.3~1mの円形あるいは長円形の墳丘に、環状あるいは一端を開く馬蹄形に周溝が巡らされていました。周溝の大きさは、径8~10mの大型、5~7mの中型、5以下の小型にグループ分けすることができます。
古墳から出土した遺物には、土師器(はじき)のほか、本州からもたらされた須恵器(すえき)、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、鋤先(すきさき)などがあります。江別古墳群は、東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯一の現存する遺跡です。また、8~9世紀の北海道と本州の律令支配の及んだ地域との交流を知る上で貴重な遺跡でもあります。
江別市ウェブサイトより
「群衆墳」を広辞苑で調べると
「多数の小型の古墳が密集群在しているもの。6世紀中葉以降に多く見られ、古墳を築造した社会階層の拡大状況を反映。」とありました。