「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

大月被告の反省 (2) -- 光市母子殺害事件、 最高裁判決 (6)

2012年02月24日 18時51分21秒 | 光市母子殺害事件
 
(前の記事からの続き)

 法廷で何か述べることができたら 何を言いたいかという質問に、

 大月被告は答えています。

 「あえて最後に言うとしたら、 部分的に冤罪だと言いたいです。

 本村さんと弥生さんのお母さんに、 頭を深く下げることをしたかったです。

 地面に頭をこすりつけてでも、 地面を掘ってでも下げたかった。

 そのことだけが心残りです」

 不審なところもありますが、 事件から年月を経て、 ようやく 己の犯行を悔やみ、

 精神的な成長を始めたと 言えるのではないでしょうか。

 (短期間で行なわれる裁判員裁判では、 その時間がないのが懸念されます。)

 少年の甦生の可能性を示し、 反省の気持ちは 確かにあると思われます。

 (その深さが 充分であるかは別にして。)

 しかしながら 本村さんは、

 反省している状態で 極刑を受けてこそ、 死刑の意味があると 主張しています。

 自分の犯した 罪に向き合い、 自責の念に苦しんで、

 死の重さを背負って 死刑に処されてこそ、

 命をもって 罪を償うということになるのだと。

 一般的には、 自分を苦しめた相手が 深く懺悔すれば、

 報復感情は減ずるものだと思います。

 殺人を許すことはできなくても、

 死刑以外あり得ないという 結論にはならないのではないでしょうか。

 他の殺人事件の 被害者遺族のなかには、

 犯人の反省の態度に 接するうちに、 死刑制度に反対するようになった 人もいます。

 また、 加害者の死刑を 待ち望んでいたのに、

 実際に刑が執行されると、 虚しさしか残らなかった という被害者遺族もいます。

 死刑は決して、 遺族の感情に 応えるものになるとは限らないのです。

 ただ、 最愛の人を 残忍極まる所業で 殺められたという惨害は、

 レベルが異なるのかもしれません。

 そして、 死刑判決があるからこそ、

 被告に悔悟の念が生じる という側面があるのも否めません。

(次の記事に続く)

〔参考: TBSテレビ 「ニュース23クロス」, 朝日新聞〕
 

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