「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

死刑存廃について (4) 遺族感情 2

2007年12月31日 13時52分16秒 | 死刑制度と癒し
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51936066.html からの続き)

 さてそこで、死刑賛成者が必ず 口にする言葉があります。

「お前の家族や子供が、強姦され、目をえぐられ、残忍に殺されたら、

 それでも 犯人を死刑にするなと 言えるのか?」

 という類の 定番です。

 僕は、そういう事態になってみないと 誰にも分からないけれども、

 常に自分に 問いかけることはできる と答えています。

 廃止論者の 中山千夏は、

「もし私が 犯人を殺しに行こうとしたら、力付くで止めてください」

 と言っています。

 ただし それは半分冗談で、本当はそういう場合でも 彼女は、

 死刑はいけないと言えると思う と述べていました。

 団藤氏も語っていたように、遺族が報復感情を抱くことと、

 国家が制度として 犯人を殺すことは 別の問題です。

 「目には目を」 の復讐法典は 遠い過去のものです。

 憎しみの連鎖は 断ち切らなければなりません。

 成熟した法体系による国家は 叡智を持って、

 社会の尊厳という 理念を希求していくべきと思います。

 ヒトラーでも死刑にしないのか、という問いもあります。

 けれども そういう場合こそ、彼が何故 あのような狂気を犯してしまったのか、

 その背景に何があったのか、彼を生かして 探求していき、

 悲劇が二度と起きないように しなければならないのではないでしょうか。

 被害者遺族に対しては それとは別に、

 手厚く対応していく重要性を 重ねて述べておきます。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51991773.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死刑存廃について (3) 遺族感情 1

2007年12月30日 18時45分12秒 | 死刑制度と癒し
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51923846.html からの続き)

 死刑賛否の論点は 主に、

 遺族感情,誤判の可能性,犯罪抑止力,残酷な刑の禁止 があります。

 順に見ていきたいと思います。

(1)遺族感情

 多くの人が、被害者遺族の報復感情の 慰謝を理由に、

 死刑に賛成しているのではないでしょうか? 

 でもここが、僕が常に 一番訴えているところです。

 死刑によって 遺族の感情が 本当に慰撫されるのか? 

 それより カウンセリングやグループ療法など、心理的にケアをする プログラムが

 何よりも必須ではないか、ということです。

 経済的,法律的な 犯罪被害者支援は、ようやく一歩を 踏み出しましたが、

 心理的な手当ては 極めて遅れています。

 この分野の研究を、世界的に進めてほしいと 強く願うものです。

 受刑者の更生プログラム (後述) の 効力と共に、

 加害者が生きて 真に改悛し、心の底から謝罪して 罪を償うことこそが、

 被害者遺族の癒しに なるのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。

 また、被害者遺族の全てが、犯人の死刑を 望んでいるわけではありません。

 死刑制度反対の信条を 持っている人もいるし、

 事件や犯人のことには もう触れたくない,思い出したくもないという人も

 少なくないのです。

 事実、死刑判決に強く抗議した 被害者遺族もいます。

 下記URLから始まる 一連の記事で、僕はそれについて 書いています。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/29733348.html

 “被害者感情” という言葉が 一人歩きし、

 外野席だけが 「犯人を死刑にしろ」 と 声を荒らげている気がします。

 被害者遺族が 死刑を望まない場合でも、死刑判決が下されてしまうのは、

 本末転倒ではないでしょうか。

 我々は 個々人によってそれぞれ異なる、真実の 被害者遺族の感情というものを、

 理解しなければならないと思います。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51947990.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死刑存廃について (2)  団藤重光

2007年12月29日 21時02分50秒 | 死刑制度と癒し
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51911546.html からの続き)

 元最高裁判事・団藤重光氏が、判事補時代に担当した 毒殺事件をきっかけに、

 死刑廃止を確信するようになった 話は有名です。

 被告は 無罪を主張していましたが、高裁は死刑判決。

 団藤氏は、絶対に間違いがないか 悩みましたが、

 重大な事実誤認がなければ、最高裁は 高裁判決を破棄できません。

 如何ともしがたく、上告を破棄。

 退廷しようとした 裁判長と団藤氏の背中に、

 傍聴席から 鋭い声が突きつけられました。

 「人殺しーッ!」

 一抹の不安を 抱いていた団藤氏は、その言葉が 胸に突き刺さったのです。

 以来 団藤氏は、死刑廃止の意見を 発信しつづけています。

 被害者遺族が 犯人に死んでほしいと思うのは、当然だと 団藤氏は言います。

 しかし そういう自然な感情を 持つことと、

 国家が制度として 犯人の命を奪うのとは、全く別のことだと。

 世論では 死刑存置が多数ですが、

 政治は 国民の考えに従いながらも 指導しなければならない。

 川の流れを放っておけば 水害になるが、止めてもいけない。

 治水をし、正しい方へ導くのがいい と述べています。

 1年半後にも 裁判員制度が始まりますが、

 迅速で簡潔な 裁判になるため、誤判の可能性も 高くなると言います。

 被害者遺族が法廷で 意見陳述することもできるようになったので、

 裁判員が その場の感情に流され、極刑を下すこともありえます。

 ヨーロッパの参審制の国では、国民が被告に 死刑を言い渡すことはありません。

 団藤氏は、死刑廃止なくして 裁判員制度なし、と強調しています。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51936066.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

改めて 死刑存廃について (1)

2007年12月28日 22時18分04秒 | 死刑制度と癒し
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51895139.html からの続き)

 国連総会の 死刑執行停止を求める決議は、日本を筆頭とする 死刑存続国に対して、

 国際世論の多数派が 異議を唱えたことになります。

 現在、死刑を廃止・停止しているのは 133ヶ国、存続は64ヶ国。

 そのうち 昨年中に執行したのは 25ヶ国でした。

 日本は近年 死刑執行数が増加し (昨年9人)、

 世界の潮流に逆行して 孤立を深めている状態です。

 EUはじめ 世界の多くの国で 死刑存廃の議論を経て、

 死刑廃止・停止の流れが 急速に広がっています。

 米国も、薬物注射という執行方法が

 「残虐な刑罰」 に当たるかどうかを 審理するため、期限付きの執行停止中です。

 しかし日本は いまだに絞首刑が続けられ、是非の論議さえ されていません。

 日本では、凶悪犯罪報道の増加と 体感治安の悪化によるためか、

 死刑賛成の世論が 8割にも上っています。

 しかしそれは、国民が 死刑の実態を知らされず、

 真っ当な議論が 始まってすらいないからではないでしょうか。

(絞首刑の実際が 下記のWebページに書かれています。

http://www.geocities.jp/aphros67/030600.htm )

 死刑制度に関する記事を、僕は 以下のページから続けて掲載しています。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/29545347.html

 ここで改めて、死刑制度の是非について 再考してみたいと思います。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51923846.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死刑論議と宮崎哲弥

2007年12月27日 19時03分35秒 | 死刑制度と癒し
 
 先日、国連総会で、死刑執行を一時停止する 要請の決議案が 可決されました。

 それを受けて 「死刑廃止と死刑存置の考察」 という Webページに、

 評論家・宮崎哲弥〔*注〕と 慶大法学部教授・駒村圭吾の論考が、

 紹介されていました。

http://www.geocities.jp/aphros67/indexs.htm

 次のような主旨です。

『人間には、国家成立以前に 持っていた 「自然権」 がある。

 そのなかに 「報復権」 というものが 含まれ得る。

 しかし 国家の成立によって、報復権は 個人から取り上げられた。

 「万人の万人に対する闘争」 「暴力の連鎖」 を防ぐためだ。

 国は 個人の報復権を 代理で履行することになった。

 従って死刑は、国家が 被害者に成り代わって、

 報復権を 適正かつ安全に代行する 制度である。』

 一見 それらしいですが、どうでしょう? 

 確かにこれは、応報としての刑罰の 正当性を述べてはいますが、

 それが即、死刑制度を肯定する ことにはならないでしょう。

 死刑存廃論議は もっと広く、深く、

 伸展されていく必要が あると思います。

 僕は現在は、死刑廃止と声高に 断言はできなくなっています。

 それは 本村洋さんの影響があるでしょう。

 死刑賛成論者と死刑廃止論者は、真剣に考えていけばいくほど、

 お互いに近づいていくという 至言があります。

 しかし僕は、上記のように 世界の趨勢から言っても、

 理念として やはり死刑廃止を 求めていきたいと思っています。

 再び自分の中で よく考えてみなければいけません。

 
*注:宮崎哲弥は、心子と僕が一緒に 駅前のドラッグストアーに入ったとき、

 店内にいるのを 見かけました。

「今、評論家の宮崎哲弥がいた」

 と僕が言うと、心子はミーハーっぽく、

 わざわざ戻って 見にいったのでした。 (^^;)

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51911546.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスマスと心子

2007年12月25日 10時20分23秒 | 心子、もろもろ
 
 心子は 敬虔なクリスチャンでした。

 余りにも 純粋すぎた彼女は、人間の愛情に 期待しては裏切られ、

 苦しめ続けられたので、際限のない神の愛に すがったのでした。

 クリスマスは イエスの誕生日ですが、その生涯は 苦難に満ちていました。

 そして、人間の罪を贖って 十字架に架けられ、生命を捧げたのです。

 心子の人生も、苦しいことに あまた苛まれていました。

 でも 心子もまた、何人か分の苦しみを 肩代わりして、

 そのか弱い背中に 負っていったのではないか、などとも思います。

 その分、誰かが 苦しみから救われ、罪を 許されたのではないだろうか……。

 そんなふうに考えると、彼女の小さな生死命 (いのち) も、

 とても意義あるものだったのではないか と思えます。

 人のために 自ら身をもって 犠牲になることを、

 少しも厭わない 心子でした。

 昨晩のクリスマスイブは、神様や お父さん,お兄さんたちと共に、

 楽しく 幸せな一夜を 過ごしたのではないでしょうか。

 僕の親父やお袋たちとも、一緒に宴を 囲んでくれたと思います。

 僕も 寝酒にワインを飲みながら、心子を偲びました。

 心子がプレゼントしてくれた クリスタルグラスで。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネットと ボーダーの人 (2)

2007年12月23日 19時30分55秒 | ボーダーに関して
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51818531.html からの続き)

 孤独感の強い ボーダーの人にとって、ネットは 人と通じる便利で貴重な

 「糸」 でしょうが、それを保っていくことは 簡単とは限らないのでしょう。

 人からの批判に弱い ボーダーの人が、ネット上で中傷を受けて、

 深く傷ついてしまうこともあります。

 あまつさえ、愛情を欲している ボーダーの人につけ込んで、

 自分の欲求を満たそうとする 許しがたい輩までいました。

 ネットは 諸刃の剣であり、ボーダーの人にとっては、

 現実社会と同様か それ以上に、その刃は 鋭いものになるのかもしれません。

 ボーダーの人は、より ネットリテラシーが大切ということも

 あるかもしれないと思います。

 心子と僕が 付き合っていた頃は、まだネットを活用できる 環境がありませんでした。

 世の中全体に ボーダーの情報は少なかったですが、ネットで知識を得たり、

 他のボーダー,ノンボーダーの人たちと 交流することもできませんでした。

 今は ボーダーの人同士のコミュニティも 沢山あります。

 当時、現在のような ネット社会があれば、

 心子も もう少し違う展開も あったかもしれないなどとも考えます。

 ともあれ、ボーダーの人たちが 少しでも癒される糧として、

 ネットが生かされていけば と望むものです。

 そして その糸が、太く長く、続いていくことを 祈ってやみません。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネットと ボーダーの人 (1)

2007年12月22日 20時50分56秒 | ボーダーに関して
 
 僕の 「境界に生きた心子」 の ブログとミクシィは、

 ボーダーの方が多く お気に入りに登録してくれたり、

 マイミクシィに なってくれたりしています。

 でも、ボーダーの人は不安定なため、突然 前触れもなく、

 自分のブログやミクシィを 閉鎖してしまうことが、時折あるのです。

 最近も 立て続けてそういうことがあり、とても 悲しい気持ちでいます。

 ネット上の繋がりしかないため、そうすると もう後を追うことができません。

 何があったのか 知るよしもありませんし

 どんな思いで ページを削除してしまったのだろうと、胸が痛みます。

 そして、今 どうしているのだろうかと……。

 以前にも、ネットで再会した人が OD(大量服薬)をし、

 そのまま連絡が 途絶えてしまったことがありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48407348.html

 そうでなくとも、消えてしまいたいなどという 書き込みや、

 メッセージを送ってくる人も 少なくありません。

 気持ちを寄せた コメントを返すものの、僕に 何ができるものでもありません。

 良い治療を受けたり、周囲の人に支えられたりして、

 少しでも楽になるように 願うばかりです。

 ネットでは 色々な人と気軽に出会い、行き来することができますが、

 突然それが 一方的に切れてしまう、不可抗力的な不確実さもあります。

 特に ボーダーの人との関係は それが顕著です。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51831710.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音が出た (^^)

2007年12月20日 21時05分55秒 | Weblog
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51759573.html からの続き)

 フジツーから 電話がありました。

 パソコンの設定には やはり支障はなく、モニターかパソコン本体か、

 繋いでいるコードの ハード的な問題ということになります。

(バッファロー(モニターのメーカー)では、

 モニターを交換するときに 動作を確認しているということです。)

 コードの接触不良を 確かめましたが、やはり音は出ず。

 次に、新しく送られてきたコードを 繋いでみると………、

 無事に 左右とも音が出たのです。 (^o ^;)

 何のことはない、コードの不具合でしたが、

 バッファローでは こういうことを一切 言ってくれませんでした。

 お陰で 面倒な作業に 時間を費やしてしまいました。

 マニュアルにも コードを繋ぐことが書いてないし、

 バッファローに注文をつけたら、改めると言ってはいましたが。

 それにつけても、ノートパソコンからデスクトップにすると、

 こういうう不具合が あった場合、パソコンのメーカーと モニターのメーカー双方に、

 何度も繰り返し 問い合わせなければならないという、

 想定外の不便さがあることが 分かってしまいました。(- -;)

 まぁ何にせよ、これでやっと 正常な環境が整った次第です。(-。-)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリーニング屋さんが 店じまい

2007年12月19日 20時37分24秒 | Weblog
 
 長年利用していた 近くのクリーニング屋さんが、急に閉店してしまいました。

 近頃 腕を骨折したり、加齢のため 体の具合を悪くしてしまったのです。

 ここのおばさんは 太っちょで、いかにも “おばちゃん” という感じなのですが、

 超人的な記憶力の 持ち主です。

 預けた洗濯物を 全て覚えていて、

 どこに置いてあるかも ことごとく頭に入っているのです。

 何ヶ月も経ってから 店へ行っても、 こちらの顔を見るなり、

 「コートとセーターね」 とか言いながら、ささっと出してきます。

 本当に いつも驚き、感心していました。

 伝票も書かないので、こっちの方が 忘れてしまうくらいです。

 心子も 抜群の記憶力でしたが、心子は プロ意識の強い人を 尊んでいました。

 クリーニング屋のおばさんは、意識が高いから 覚えられるのだというわけです。

 確かにそうなのでしょう。

 僕は 衣更のときくらいしか 利用しなかったのですが、

 名物おばさんが 引退してしまって とても残念です。

 これからは、くれぐれも 体を大切にしてほしいものです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音が出ない (2)

2007年12月18日 19時41分44秒 | Weblog
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51686369.html からの続き)

 音が出なかった パソコンのモニターが、交換されて 送られてきました。

 ところが、やはり 音が出ません。(・_・;)

 モニターのメーカー (バッファロー) に 電話すると、

 あとは パソコン本体の問題だから、

 パソコンのメーカー (フジツー) に 問い合わせてほしいと。

 そして フジツーに連絡したところ、一発で 原因が判明しました。

 コードが 繋がっていなかったのです。(×_×)

 コードは2本、画面のコード (これがメイン) と 音声のコード (細い) が

 あったのですが、細いコードの方を 付けていませんでした。

(今までは ノートパソコンだったから 知らなかったのですが σ(・_・;) )

 マニュアルにも 音声のコードを 取り付けることが書いてなく、

 先に バッファローに電話したときも 言ってくれませんでした。

 コードの差し込み口も、探しても なかなか見つからない所にあります。

 モニターを 苦労して梱包して送ったり、

 大変な手間が かかってしまったじゃないですか。(`ε´)

 バッファローのほうだって、無駄に 新品を交換したみたいな。

 なんとも お粗末な結末……と、思いきや、

 よく聞くと 右のスピーカーが鳴っていません。

 左右の音量の設定を 色々直しても、やはり 右のスピーカーは 全く音が出ません。

 再び バッファローに連絡。

 設定などは問題なくて、モニターは 出荷前に確認してあるので、

 本体の問題である 可能性の方が高く、再度 フジツーに連絡することに。

 ただ そのやり取りの中で、バッファローの対応に 納得のできないことがあり、

 苦情を訴えました。

 担当者は答えられず、何回も 少々お待ちください と保留にされて、

 さんざんっぱら 時間がかかってしまいました。(- -;)

 さて、フジツーからはあさって 電話がかかってくることになりました。

 最初は上首尾だった 新パソコンですが、

 こんなところで 足踏みが続いています。(- -;)

(続く)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心子にポインセチアを

2007年12月16日 21時26分23秒 | 心子、もろもろ
 
 今日は 心子の月命日の前日、毎月お約束の 墓参りに行ってきました。

 毎年この季節は シクラメンかポインセチアを 買っていきますが、

 今日は きれいに飾られた ポインセチアを買いました。

 ポインセチアには 思い出すことがあります。

 心子と 恋人として付き合うようになる前、クリスマスの時期に 会ったときのこと。

 道端にポインセチアが 並んでいましたが、心子も僕も 花の名前をど忘れしてしまい、

「これ、何ていうんだっけ?」

 と心子に聞かれても、出てきませんでした。

 それから 1時間ほど歩いたとき、突然 僕は名前を思い出したのです。

「ポインセチア!」

「今までずっと考えてたの?」

  (^_^;)

 
 ところで、毎回 花を買う 駅前の花屋さんに、今日は いつもと違う女性がいました。

「これお願いします」

「プレゼントですか?」

「え~と、お墓に」

「へえ、珍しいですね」

「今日はいつもの人は お休みですか?」

 すると、その花屋さんは 急に経営が変わって、別の店になったというのです。

(看板はまだ出ていない。)

 前の店は 大きな会社の花部門で、それを撤退したのだと。

 いつもの女性 (若い女性) は その会社の社員で、

 本社に戻ることに なったようです。

 スーツと靴を買わなければ と言っていたとか。

 前の花屋さんは、小さい子供からワンちゃんまで、

 お得意さんが 沢山いたということです。

 今もたまに 店の状況を尋ねて 連絡があるそうです。

 僕のことも伝えておくからと、名前を聞かれました。

 僕は毎月1回 お墓参りに来るんだと、心子のことも話し、

 名刺代わりに 「境界に生きた心子」 の チラシを渡しました。

 その人は関心を持ってくれ、アマゾンで購入してくれる と言っていました。 (^^)

 前の花屋さんと 会えなくなってしまったのは残念ですが、

 また 新しい読者が増えるとしたら ありがたいことです。

 今度の花屋さんとも 仲良くなりたいですね。 (^^)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音が出ない

2007年12月13日 21時04分30秒 | Weblog
 
 新しいパソコンを 購入したときから、

 何故か ディスプレイの音が 出ませんでした。

 普段 サウンドは使用しないので、しばらく そのまま使ってましたが、

 一昨日 メーカーに電話しました。

 色々調べた結果、設定などに 問題はなく、

 ディスプレイに 不良があるかもしれないので、交換する ということになりました。

 それで、ディスプレイをメーカーに 送ることになったのですが。

 組み立てるときは 簡単にカチッとはまった 台座のツメが、なかなか外れません。

 固くて動かないのです。

 説明書にも、ツメはとても固いので 何回もやると壊れることがある、

 と書いてあります。

 どんなツメなんじゃい!? 

 結局 台座はびくともせず、台座を付けたまま、大きな段ボールで 送る羽目に。

 組み立てるときの 何倍もの時間が かかってしまいました。(- -;)

 また1週間ほど 新しいパソコンのない状態になり、

 前のノートパソコンで 急場をしのいでます。

 処理速度の遅さに 難儀してます。(・_・;)
 
(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51759573.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「フラット革命」 第四章 「公共性をだれが保証するのか」 (2)

2007年12月12日 20時58分21秒 | 心理
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51657504.html からの続き)

 インターネットは マスコミにフィルタリングされず、

 世界をダイレクトに 生々しく 見ることができる世界です。

 それは 人々が浮遊し続ける 世界でもあります。

 そのような社会では、誰が 「公」 として 責任を取るのか? 

 公共性とは、異なる意見や立場の 人たちを取りまとめ、

 民主主義の中へ落とし込む 社会の機能です。

 浮遊する 「わたし」 の 膨大な集合体は、ネットによって 互いに直接つながり、

 情報を交換し合う、相互システムとして 形成されつつあります。

 そのやり取りそのものが、「公」 としての 責任を実現していく

 枠組みとなりうるのでしょう。

 ネットの世界では 肩書きではなく、言論の中身のみが 評価の基準となります。

 ネット上での評価が そのまま、

 現実社会での評価になる時代が やってこようとしています。

 一般の人々が ジャーナリズムを批判し、

 それにまた ジャーナリズムが答えていくという 構図そのものが、

 公共性を保証していくのでは ないだろうか? 

 様々な価値観や生き方,宗教などを持った人々が、

 常に議論を 戦わせていくことによって、

 本来的な民主主義を 実現していくのではないか。

 未来はまだ見えない。

 しかし、もう後戻りはできない。

 我々は目を見開いて、先へと 進んでいくしかないのだ。

(以上、「フラット革命」より)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「フラット革命」 第四章 「公共性をだれが保証するのか」 (1)

2007年12月11日 23時14分16秒 | 心理
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51621682.html からの続き)

 これまでの日本社会では、「公」 を保証していたのは マスメディアでした。

 しかし、「わたし」 が浮遊して 「われわれ」 が消失した 現代の社会では、

 新聞の「公」 は 世論を代表していると 言えなくなってきました。

 インターネットの世界の ジャーナリズムでは、記者の取材の内容や、

 取材相手との間で やり取りされたメールなどが、掲示板に公開されるといいます。

 それを見た人が 様々な感想を書き込み、後日

 週刊誌などに発表された 記事を読んで、再び掲示板に 意見や批判を書き込みます。

 そのようなお互いのやり取り、相乗効果こそが、

 インターネットにおける ジャーナリズムだというのです。

 それはプロセスではなく、「場」 なのです。

 新聞社やテレビには 固有の意志がありましたが、

 インターネットは 何かを推し進めるための、統合された機関ではありません。

 ネットに投げ込まれた情報は、融合することなく、

 差異はそのまま残されて、混沌として 存在しているだけです。

 従って、時に誤情報が 瞬く間に伝播して、暴走してしまうこともあります。

 群衆行動が先鋭化して、衆愚を極端にした ファシズムのような方向に

 走ってしまいかねません。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51670562.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする