(前の記事からの続き)
「たとえば檸檬」 の 解説記事などを読むと、
この映画は 母娘の愛憎がテーマの企画 という以前に、
韓英恵と有森也実で 何か映画ができないか、 というところから始まったそうです。
(二人とも 片嶋監督の前の作品に 出演していたため。)
もちろん 主演の俳優から 始まる企画は沢山あります。
でも BPDを取り入れるのだったら、 入念に取材・ 勉強をし、
間違った情報は 伝えるべきでありません。
これは どんな小さなことを描く場合でも、 作品には求められることです。
企画では 二人の女優から、 母と娘の葛藤というテーマになり、
そこへ脚本家が、 関心を持っていた境界性パーソナリティ障害を加えた
ということです。
後付けであるために、 扱い方が中途半端で、
矛盾やずさんさも 生じてしまったと思われます。
この映画はあくまで 母親と娘の話にすべきで、
BPDは入れないほうがよかったと思います。
(それを観客が 「境界性パーソナリティ障害の話」 と
解釈するのは自由ですが。)
それだけで立派な物語として 成立するのではないでしょうか。
ただ逆に、 BPDだとしたほうが、 すっきり解釈できる部分もありました。
母親の自滅は 娘を救うための愛なのか、 自分の苦しみによるエゴなのか
という局面があり、 作品では 愛よりもむしろエゴだと 解釈しています。
しかしBPDであれば、 愛とエゴは表裏一体であり、
どちらかのひとつではありません。
同じものが一瞬にして反転し、
一方の極端な面だけが その瞬間ごとに 現れるに過ぎないのです。
いずれにしても、 BPDも 作品に取り上げられるようになってきたわけですが、
かつて 他の多くの題材がそうであったように、
最初は 浅い理解のものが 伝わってしまうことがあるでしょう。
より深く正しい作品が 作られることを願っています。
(拙著がその一端を担うことができれば………。)