「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

2009年02月28日 20時04分00秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57890390.html からの続き)

( '84.1/10)

「 今、 僕は少しずつ 目が覚めつつある。

 自分が おおらかに見えてきた。

 世界が優しく見えてきた。

 潔癖にこだわっているうちは、 まだ人間が小さい。

 未熟なのだ。

 今、 少し 大きくなれるのではないか。

 今までの 暗い苦しみだって、 決して無駄ではない。

 それがなければ、 僕はまだまだ 小さく弱い人間だったろう。

 人の心の痛み、 切実さが分からなかったろう。

 悲しみを越えた時の、 本当の喜びを 知らなかったろう。 」


( 「ジャン・クリストフ」 )

「 苦悶もまた 一つの力となる--統御される一つの力となる--

 という点にまで 彼は達していた。

 彼はもはや 苦悶に所有されずに、 かえって 苦悶を所有していた。

 それは暴れまわって 籠の格子を 揺することはあっても、

 彼はそれを 籠から外に出さなかった。 」


(1/30)

「 悪条件の下で 自分のやりたいことをやれる 人間こそ、 偉大な人間なのだ。

 好条件なんか ありはしない。

 悪条件であるからこそ、 やりたいことが出てくるのだ。

 やらなければならないのだ。 」

(2/5)

「 ああ、 しかし、 それでも理解が欲しい。

 全てを理解し、 全てを理解されたい。

『 分かる部分で やっていけばいい』

 そんなことで 妥協してしまってはいけないのだ。

 理解は、 相互の努力によって 必ず深まるはずだ。

 それをしないのは、

 理解することの 難渋さや煩わしさから 逃げているだけだ。

 それはいけない。

 僕は どうしても我慢できない。

 理解を、 より本当の理解を。

 僕のこの欲求は、 一体 どれだけ深いことか。 」

「 焦らないでよい。

 自分が成長していけばいいのだ。

 10年単位で見ればよい。

 理解されからないといって、 苛立ってはいけない。

 自分を信じ、 じっくりと待つのだ。

 力を養っていくのだ。

 少しずつ、 少しずつ 分かち合っていけばよい。 」

「 ああ、 喜びも、 悲しみも、 苦しみも、 何とすばらしいことだろう。

 こんなに 感じることができるなんて、

 僕は何て 幸せに生まれついたんだろう。

 苦しみさえも喜びだ。

 そうだ。 苦しみさえも喜びだと 知ったのだ。

 この先、 どんな苦しみに 会ったとしても、

 僕は このことに支えられて、 生きていけるのではないか。」

(次の記事に続く)
 
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ユングの 「あの世」 観 (3)

2009年02月27日 21時41分16秒 | 心理
 
(前の記事からの続き)

 人間の心の 無意識の部分は、 人間の意志では どうしようもないように、

 無意識である 「あの世」も、

 問題を解決したり 変化したりすることはできません。

 それを解決・発展させるために  「この世」 があり、

 我々は課題を持たされて 生まれてきたのだといいます。

「 ユングによれば、 『一なる世界』 は 区別のない世界であり、

 それゆえ 変化や成長ができない。

 限定された存在である 人間のみが、

 葛藤や問題を 解決していくことを通して、

 『あの世』 に方向づけを 与えることができる。

 それゆえに 『あの世』 は、 意識的な人間を 必要とする。

 意識化による 自己実現, 個性化の過程は、

 『あの世』 から 私に与えられた 『使命』 なのである。」

(白田氏のレジュメより)

 正しく言うと、 あの世が我々に 問題を与えているのではなく、

 私たちがあの世に 問いかけるのだといいます。

 この世に生まれて初めて 問題を発見し、 それをあの世に伝える。

 それが 人間の存在意義です。

 人間が無意識に働きかけ、 それによって 宇宙が変化をします。

 宇宙を引っ張っていくことのできるのが 人間なのです。

 自分で問題を見つけて、 自分で何かを為す。

 それがユングの言う  「個性化」 の過程です。

 死ぬことによって 個性化が完成し、

 私が成就・実現したものが 宇宙に還元されます。

 やり残した課題は、 別の私が転生して 取り組んでいきます。

 自分の問題を 全て解決すると、 転生せず 涅槃に入るわけです。


 人間は 役割を持って生まれてきて、

 それを果たしていくのが 生きるということでしょう。

 人間は いくつになっても、 例え どんな境遇でも、

 自分のなすべきことが あるのだと思います。

 課題というのは 何も具体的なものではなく、

 具象的なものを通して成就される 象徴的なものだと僕は思います。

 正義や真実、 誠実さや 優しさなど、 何でもいいのではないでしょうか? 

 それを心に銘記して  「今」 を生きることが 肝要なのだと、

 再認識させられたセミナーでした。
 
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ユングの 「あの世」 観 (2)

2009年02月26日 19時33分46秒 | 心理
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57927416.html からの続き)

(白田氏のレジュメより)

「 この世は 意識の世界であり、

 時間と空間に区切られた 物質的な世界である。

 あの世は 無意識の世界, 時間と空間を 超えた世界,

 この世に現れるものを支える 元型の世界であり、 我々がそこから生まれ、

 死によって還っていく  『一なる世界』 でもある。」

「 私がこの人生で 実現したことは、

 死によって 世界に還元され 世界を変えていく。

 私が実現できなかった課題や 新たに生まれた課題は、 それが解決されるまで、

 この世に別の人間として  『再生』 され続けていく。

 私がなすべきことを 全て成し遂げたとき、

 私の魂は 三次元の世界から消え失せ、

 仏教で言うところの  『涅槃』 に到達する。」

 これは 先日の日記 「宗教体験」 に書いた、

 下記のことと 通じると思います。

「 もし僕が ここで死んでも、 自分と同じ魂を 持った人達が、

 僕のできなかったことを やっていってくれる。

 僕は魂によって 彼らと繋がっている。

 自分は 一人ではないのだ。」

 また これから書く予定の、 以下のこととも合致します。

( 「あるもの」 は 「一なるもの」 と同じです。)

「 『死』 は、 『あるもの』 と一体化する

 『成就』 であると 言えるのかもしれない。

 個々の命は この世での役割を終えたとき、

 『あるもの』 の許へ帰っていく、 と 僕は思っている。

 死は終焉なのではなく、 人間が本来 抱かれるべき場への 回帰であり、

 そして 再生への希望であるのかもしれない。」

(次の記事に続く)
 
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「おくりびと」 (2) 〔再掲〕

2009年02月25日 08時16分45秒 | 映画
 
(前の記事からの続き)

 大悟は 妻の美香 (広末涼子) に 自分の仕事の内容を言えず、

 冠婚葬祭関係とごまかしていました。

 ところがある日、とうとう美香に 仕事のことがばれてしまい、

 美香は 「けがらわしい!」 と言って 実家に帰ってしまいます。

 友人からも 「まともな仕事に就け」 と言われ、

 内心反発しながらも、きちんと 言葉にできない大悟。

 人は誰でも 必ず死ぬ、死ぬことは 普通のことなんだ。

 納棺師は 悲しい別れを、優しい愛情で 満たす仕事なんだ……。

 美香は 妊娠したことが分かって 戻ってきますが、

 「自分の仕事を 子供に誇れる?」 という質問に、

 大悟はまだ 言葉に詰まってしまいます。

 しかし、知り合いの 銭湯のおばあちゃんが急死して、

 納棺式に立ち会った 美香は、厳粛な夫の仕事に 圧倒されるのでした。

 そして、生前おばあちゃんが 愛用していたスカーフを 首に巻いてあげる、

 夫の優しさに 心を打たれます。

 誰でもが 「おくりびと」 になるし、「おくられびと」 にもなるのです。

 でも 日常から死が遠ざかっている 現代人は、死を忌避してしまいがちです。

 映画は、旅立ちの静謐さを 改めて教えてくれます。

 それは本来、自然で穏やかに 迎え入れるべきものでしょう。

 故人の在りし日の 面影を取り戻し、送別のお手伝いをするのが 納棺師の勤めです。
 

 大悟の父親は、大悟が幼いときに 女を作って家を出て行き、

 大悟は父親の顔を 覚えていません。

 母親も2年前に 世を去りました。

 大悟は 父を憎んでいますが、そこへ突然、父の訃報が舞い込みます。

 父を引き取る気もない 大悟ですが、

 じわ~っと感動する クライマックスへと 話は進んでいくのです。

 大悟が奏でる チェロの音色、

 「石文 (いしぶみ) 」 と言われる、自分の気持ちを表した石を

 相手に渡すというエピソードも、映画のキーポイントになっています。

 監督は滝田洋二郎。

 「名作」 と呼ぶのに相応しい、

 ユーモアと感動に溢れた 日本映画が、新たに誕生しました。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/55208477.html
 
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「おくりびと」 (1) 〔再掲〕

2009年02月24日 09時16分13秒 | 映画
 
 米アカデミー賞外国語映画賞を  「おくりびと」 が受賞しました。

 昨年試写会を観て 深く感銘した僕は 大いに期待していました。

 日本映画として 本当に喜ばしいことですね。

 昨年のレビュー記事を 再掲します。

-------------------------------------

 納棺師 (のうかんし)。

 遺体を清めて 柩に納める仕事の 映画です。

 ちょっと辛気臭くて、敬遠されそうな職業のように 感じられてしまいます。

 しかし、親族の目の前で行なわれる 納棺の儀式は、

 静謐で、厳かで、死者に対する 敬意に満ちていました。

 故人の肌を 遺族に一切見せないように、遺体を清拭し、

 寝間着から白装束に着替えさせる 一連の手技は、一糸乱れぬ職人技です。

 生きていたときのように 死に化粧を施す指先は、

 何よりも亡き人への 愛情が溢れてます。

 遺族にも一人一人 清拭をしてもらいます。

 それが 旅立つ人と残される人の、最後の心の交流になるでしょう。

 合掌の仕方など、ひとつひとつの所作が 厳格に定められていますが、

 時には臨機応変に、個人的な心尽くしが 振る舞われます。

 ルーズソックスを履きたいと言っていた おばあちゃんのために、

 足袋の代わりに ルーズソックスを履かせたり、

 大往生のおじいちゃんの顔一杯に 娘たちがキスマークを付けて 送ったり。

 悲しみのなかに 微笑ましさが漂います。

 映画の舞台は田舎でしたが、東京では納棺式など あまり知られていないでしょう。

 納棺は、元々は親族が 行なっていたそうですが、葬儀屋が執り行うようになり、

 さらに納棺の業者が 下請けするようになったということです。
 

 主人公の大悟 (本木雅弘) は、「旅のお手伝い」 という求人広告を見て、

 旅行会社だと思い 面接に行きます。

 ところが、出てきた社長 (山崎努) は、「旅立ちのお手伝い」 の誤植だな

 と言って、大枚を差し出して 大悟を雇ってしまいました。

 大悟の初仕事は、孤独死した 老人の遺体。

 死後2週間経っていて、悲惨な現場は 大悟にとって余りにショッキングでした。

 でも大悟は、社長の納棺の儀式を目にして、

 次第に納棺師の仕事に 気持ちが傾いていきます。

 ある遺族は、死に化粧を施された妻が 「今までで一番きれいだった」 と言って、

 涙を流して 社長に頭を下げました。

 ときには 遺族の喧嘩に巻き込まれたり、

 女性だと思った故人が ニューハーフで “あれ” が付いていたり。

 悲喜こもごものエピソードを、映画はユーモラスに描いていきます。

(次の記事に続く)
 
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ユングの 「あの世」 観 (1)

2009年02月23日 21時36分57秒 | 心理
 
 僕が参加している 「ユング心理学研究会」 で 先日、

 「死のイメージとユング思想」 と題する セミナーがありました。

(http://mixi.jp/view_community.pl?id=1454900

 追って、 セミナーのレポートが 掲載されると思います。)

 ユングの来世論は あまり語られることがありませんが、

 実はユング思想の 中核そのものなのだそうです。

 ユングの死後の生命論は、

 イメージ論, 元型論, 「一なるもの論」 と表裏一体であり、

 ユング思想の神髄だと言います。

 講師の白田さんの話は とても興味深く、

 実際の生き方にも 貢献するものだと感じました。

 また 先日来の日記に書いている、

 僕のかつての体験にも 通ずるものがあるので、 ここに紹介させてもらいます。


 ユングはオカルト的だと 思われる向きがありますが、

 確かにそういう面が あるようです。

 ユングは 心霊的なものと近代科学の 統合を試み、

 まず 霊の存在については保留して、

 心霊の言葉を 科学の言葉に置き換えて 説明しました。

 後年は 霊について直接語り、 臨床心理学であると同時に、

 霊的なものの集大成としての ユング心理学が成立したのです。

 一般的に考えられているあの世は この世とは別のもので、

 この世の 「私」 は 死んであの世へ行く というようなものでしょう。

 しかし ユングの 「あの世」 は  「この世」 と一体のものです。

 この世は あの世の中の 一部分に過ぎず、

 我々が知っている部分  (我々に意識されている部分) です。

 残りの大部分は、 我々に意識されていない、

 無意識の世界である  「あの世」 なのです。

( ユングによれば、 人間の心も大部分は 無意識に占められていて、

 我々が意識しているのは ほんの一部分でしかありません。

 例えると 意識は、

 無意識という大海に浮かぶ 小さな島のようなものだと言います。 )

 人間は生きているときは 意識の存在で、

 死ぬと 無意識の世界に戻っていきます。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57959794.html
 
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心子の誕生日 = 「境界に生きた心子」 の発刊日

2009年02月21日 10時32分18秒 | 新風舎から星和書店へ、新たな歩み
 
 今日は 心子の誕生日です。

 そして、 星和書店 「境界に生きた心子」 の 奥付の発刊日です。

 これから 心子の墓前に、 再出版の報告をしてきます。

 生まれ変わった 新しい心子の本を 見せたら、

 きっと喜んでくれるでしょう。

 彼女も45才。

 月日が流れましたね……。


 マスコミなどへ 「境界に生きた心子」 の献本もしました。

 星和書店から 新聞社や出版社などへ 多数の献本をしてくれましたが、

 加えて僕からも テレビ局(報道番組)や 出版社へ送りました。

 Amazon やジュンク堂の 拙著のページに、 作品紹介の掲載もしてあります。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791106938/sr=1-3/qid
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0109760737

 読者のレビューが まだないのですが、 上記URLのページに

 色好いレビューなど アップしていただけたら幸いです。  (^^)

 ミクシィのレビューもあるので、 書いていただければ 嬉しく思います。

http://mixi.jp/view_item.pl?id=1174411

 心子の誕生日の プレゼントとして書いてもらえると、

 きっと彼女も 喜ぶことでしょう。 ( ^^)

 どうぞよろしくお願いします。 m(_ _)m 

 心子の本が、 再び人々の心に 伝わっていくことを願っています。
 
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揺れ動き

2009年02月20日 21時45分39秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 僕は自分の姿を 取り戻しかけましたが、

 それでもまだ、 揺れに揺れ続けました。

 それまでの 極端な自分から抜け出し、

 相手の立場になって、 異なった視野で 考えようとしていました。

 しかし、 純粋な理想を 捨てきることもできませんでした。

( 「ジャン・クリストフ」 )

「 君たちは あまりに謙譲だ。

 神経衰弱的疑惑こそ 大敵なんだ。

 人は寛容で 人間的であり得るし あるべきである。

 しかし、 善であり真であると 信じてる事柄を疑ってはいけない。

 そして 信じてる事柄を 支持しなければいけない。

 われわれの力が どれくらいのものであろうと、

 われわれは 譲歩してはならない。 」

「 自分が生きてきた信念を、 どうして疑うことができようか?

 それは 生を捨てるのと 同じである。

 隣人に似寄るために、 もしくは 隣人を容赦するために、

 本当の考えとは 違う考えを装っても、 それが なんの役に立つものか。

 それは 自分を破壊するばかりで、 だれの利益にも なりはしない。

 人の第一の義務は ありのままのものとなることである。 」


(12/26)

「 そうだ、 僕には今、 わかってきた。

 潔癖さ、 切実さなどは、 多くの人にとっては どうでもいいことなのだ。

 そんなことに こだわっているから、 人のことが理解できない。

 清純と淫蕩は 極めて自然に 両立しうる。

 それでも善良なのだ。

 深刻に考えないほうが、 多くのものを フレキシブルに取り込みうる。

 世界が豊かになる。

 僕は偏屈すぎた。

 深刻ぶらない人間にとっては、 全てがいいのだ。

 僕は一皮むけたのか、 邪悪になったのか。

 どちらにしても、 今までより広いものが 描けるかもしれない。

 愚劣-- それは人間にとって、 いいことじゃないのか!?」

(続く)
 
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クリストフの 芸術観の革命

2009年02月19日 23時22分01秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

( 「ジャン・クリストフ」 )

「 僕にとっては、 また、

 真理を担いうるだけ 丈夫な腰を 持ってる者にとっては、 真理がいいのだ。

 しかし その他の者にとっては、 それは一種の残酷であり 馬鹿げたことだ。

 自分自身よりも 真理を愛さなければいけないけれど、

 真理よりも隣人を いっそう愛さなければいけない。

 われわれわは もっとも真理のうちで、

 世のためになり得るものをしか 明言してはいけない。

 他の真理は それをわれわれのうちに しまって置くべきである。

 隠れたる太陽の 柔らかな光のように、

 それはわれわれの あらゆる行為の上に 照り渡るだろう。 」

「 彼の芸術観に 革命が起こってきた。

 彼の芸術観は いっそう広い いっそう人間的なものとなっていった。

 彼はもはや、

 単なる独白であり 自分一人のための言葉である 音楽を欲しなかったし、

 専門家ばかりを相手の むずかしい組み立ては なおさら欲しなかった。

 彼は 音楽が一般の人々と 交渉することを欲した。

 他人に結びつく芸術こそ、 真に 生きたる芸術である。 」

「 現代の 多くの音楽家の 音楽に見るような、

 一階級だけの方言にすぎない その芸術的な言葉を、

 極端に避けようではないか。

 『芸術家』 としてではなく、

 人間として話すだけの 勇気をもたなければならない。 」


 僕は、 “元の自分” に 戻ってきた気がしました。

 人間は成長するにつれ、

 少しずつ 本来の自分に 戻っていくのではないでしょうか。

〔 「ジャン=クリストフ」 ロマン=ロラン (岩波文庫) 豊島与志雄 訳 〕

(次の記事に続く)
 
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愛の再生

2009年02月18日 14時15分15秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

(10/23)

「 人に理解される、 人を理解するということの 困難さを

 誰よりも思い知らされながら、 誰よりもそれを求め、 もがき苦しんでいる。

 そのことについては 僕はこの3年間、 或いはこの数カ月間、

 どん底をのたうちまわるような 悲痛を味わった。

 このようなことは 人に漏らさず、 黙って持ちこたえ、

 自若として成長していくのが 人物といわれるものかもしれない。

 しかし 僕をして作家へ向かわしめる 表現欲求 (或いは自己顕示欲) は、

 どうしても 告白の衝動をかきたてる。

 そうするたびに 僕は誤解を増大させ、 侮蔑され、 人に疎ましがられてきた。

 しかし それでもなお僕は、 言うことを ついにやめることができない。 」

(11/12)

「 僕は 君をできるだけ 尊重することを努めてきた。

 しかし、 根本的に 自己主張のほうが強かった。

 僕が 努めなければならなかったのは、

 君を尊重することではなく、 君を活かすことだったろう。

 僕が 君をかわいいと思うときには、

 君は君の好きなものを 信じればいいし、

 僕は僕の正しいと思うものを 信じればよかったのだ。

 僕はそのように 心掛けたつもりだった。

 しかし、 君の僕に対する あまりに見当外れな (僕にとって) 意見は、

 僕を面食らわせ、 君を包容する 余裕を失わせた。

 君は 僕の理解の範囲外にあった。

 だからこそ僕は それを理解したいと思った。

 僕は知りたいのだ。

 僕は分かりたいのだ。

 どうしようもない欲求だ。 」


「 自分と近しい人間が、 親しかった人間が、

 このまま 心が離れてしまうなんて、 こんな悲しいことは ないではないか。

 拒絶したままでいる、 こんな悲しいことは ないではないか。

 人は誰しも 愚かさを持っている。

 ある人にとっては 美徳であっても、

 ある人にとっては 愚劣である場合もある。

 また その逆もある。

 人の愚劣さだけを見取って、

 その人の本性を 見取ったような錯覚に 陥っているのは、

 何とも愚かしく 悲しいことではないか。

 誠意を持とう。

 相手の誠実さを 信じよう。

 善良さを確認しよう。

 過ちを許そう。

 そして その愚かさをも愛そう。」

(次の記事に続く)
 
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宗教体験

2009年02月17日 21時21分00秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 僕もクリストフと同じように 苦しみの中から あるとき突然、

 いかずちに打たれたように 凄まじいインスピレーションが 降りてきました。

 苦しんでいるのは 自分だけではない、

 自分は 全ての魂と繋がっていると 体得したのです。

「 もし僕が ここで死んでも、 自分と同じ魂を 持った人達が、

 僕のできなかったことを やっていってくれる。

 僕は魂によって 彼らと繋がっている。

 自分は一人ではないのだ。 」

 それは啓示であり、 宗教体験と 言っていいものでした。

 思想や理論ではなく、 明確なイメージで 感知することができたのです。

 手塚治虫さんの 「火の鳥」 の コスモゾーンのようなものかもしれません。

 本当は 決まった形などないのでしょう。

 ただ人間は イメージがないと理解できないため、

 自分に捉えられる形で 認識するのだと思います。

「 あらゆる魂は ひとつに繋がっている。

 全ての命は ひとつのものである。 」

( 「ジャン・クリストフ」 )

「 悲しみも その極度に達すれば、 救済に到達する。

 人の魂を 挫き悩まし 根底から破壊するものは、

 凡庸なる 悲しみや喜びである。 」

「 よしや我、 神の御手に 殺さるるとも、

 我はなお、 神に希みを かけざるを得ざるなり。 」

 この一節の 「神」 を、 僕は 「人生」 に置き換えました。

「 もし僕が 人生に殺されたとしても、 それでもなお、

 僕は人生に 希みをかけずにはいられない。 」

「 人生はいつかまた 僕を裏切るだろう。

 しかし、 僕こそはもはや 人生を裏切ってはならないのだ。 」

「 幸福なときにではなく、 最も苦しいときに、

 それを感じ取ることができた。

 感じ取れるものが 自分の中にあった。

 自分はもう 生涯幸せになることはできないだろうと 苛まれていたなかから、

(正にそのとき) 絶望ではなく希望が、 憎しみではなく愛が、

 自らのうちに甦ってきた。

 この底知れない希望は、 果たして何なのだろうか?

 一体どこから やって来たものなのだろうか?

 これはもはや 『あるもの』 から 自分のうちに与えられたのだ、

 としか、 僕には思えない。

 与えてくれたもの、 信じさせてくれたものの 存在を、

 僕は 渇仰しないわけにはいかない。 」

(次の記事に続く)
 
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クリストフと 神との邂逅

2009年02月16日 21時37分30秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57575265.html からの続き)

 クリストフは限りない 挫折と絶望の中で、 神と邂逅します。

 以下は クリストフと神との会話です。

( 最初の 「汝(なんじ)」 は神、

 「われ」 はクリストフ、 「予」 は神です。 )

「 『 汝はもどってきた。

 わが失っていた汝 …… なにゆえに汝は われを見捨てたのか。 』

『 汝が捨てた 予の仕事を やり遂げんがためにだ。 』

『 なんの仕事か。 』

『 戦うことだ。 』

『 なんで 戦う必要があるのか。

 汝は 存在するすべてではないか。 』

『 予は 存在するすべてではない。

 予は虚無と戦う 生である。 』

『 われは打ち負かされている、 われはもはや なんの役にも立たない。 』

『 汝は 打ち負かされたというか。

 汝自身のことを考えずに、 汝の軍隊のことを 考えてみよ。 』

『 われは一人きりである。

 われに軍隊はない。 』

『 汝は一人きりではない。

 そして汝は 汝自身のものでもない。

 汝は よし打ち負けるとも、

 けっして負けることのない 軍隊に属しているのだ。

 それを覚えておくがよい。

 さすれば 汝は死んでも なお打ち勝つであろう。 』

『 主よ、 われはこんなに 苦しんでいる! 』

『 予もまた苦しんでいると 汝は思わないか。

 幾世紀となく、 死は予を追跡し、 虚無は予をねらっている。

 予はただ勝利によって 己が道を開いているのだ。 』

『 戦うのか、 常に戦うのか。 』

『 常に戦わなければならないのだ。

 神といえども戦っている。 』

(中略)

『 われを見捨てた汝、 汝はまた われを見捨てんとするのか? 』

『 予は汝をまた 見捨てるであろう。

 それを ゆめ疑ってはいけない。

 ただ汝こそ もはや予を 見捨ててはならないのだ。 』

(中略)

 クリストフはまた 崇高な戦いのうちに加わった……。

 彼自身の戦いのごときは、 人間同士の戦いのごときは、

 この巨大な 白熱戦の中に 消え失せてしまった。

 彼の闘争は 世界の大戦闘の 一部をなしていた。

 彼の敗北は些事であって、 すぐに回復されるものだった。

 彼は万人のために 戦っていたし 、万人も彼のために 戦っていた。

 万人が彼の苦難に 与かっていたし、 彼も万人の光栄に 与かっていた。 」

〔 「ジャン=クリストフ」 ロマン=ロラン (岩波文庫) 豊島与志雄 訳 〕

(次の記事に続く)
 
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境界性パーソナリティ障害の原因 (3) --- 環境的要因, 「リスク因子」

2009年02月15日 21時17分05秒 | 「BPDのABC」より
 
(前の記事からの続き)

 DSM-Ⅳでは、 BPDの人の75%が 虐待を受けていると言います。

 実際、 非常に多くのBPDの人が 虐待の犠牲者です。

 しかし、 BPDの25%の人は

 虐待を受けていないのに 発症しています。

 そして、 虐待された 全体の人たちのうち、

 BPDの人は ごくわずかな一部でしかありません。

 75%という数字は、 BPDの人の 自己報告に依存しています。

 BPDの人の 偏った知覚や 論理的推論によるとすれば、

 根拠が薄い数字です。

 一方、 他の多くの環境因子が、

 生物学的要因と重なって、 BPDを発症させる 状況を生み出します。

 BPDの要因を 強化するものとして、 次のようなものがあります。

・親の非効果的な育て方

・親と子供の相性

・BPDの人のネガティブな知覚を 強化する家庭環境

・突然の喪失や 見捨てられ体験

・頻繁な引っ越しによる核家族化

・その共同体の 文化的,宗教的慣習 (性的偏見,人種差別など)

 上記の幾つかが組み合わさって BPDに繋がります。

 例えば、 虐待を受けただけで BPDになるとは限らないのです。
 

 何かひとつの原因が BPDを引き起こすのではありません。

 「原因」 ではなく、

 「リスク因子」 という 考え方をしたほうが正確です。

 例えば 心臓病なら、 遺伝, 食生活, 急激な運動など、

 色々な リスク因子があります。

 どれもが “原因” となり得ますが、 どれがひとつの原因とは 言えません。

〔「BPDのABC」 ランディ・クリーガー, E・ガン (星和書店)より〕
 
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境界性パーソナリティ障害の原因 (2) --- 生物学的要因

2009年02月14日 15時14分07秒 | 「BPDのABC」より
 
(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57801589.html からの続き)

 今まで多くの人が、BPDの原因は

 親の育て方の問題だと 思ってきたでしょう。

 他ならぬ 僕もそうでした。

 けれども 脳についての研究が進むほど、 BPDの原因は 生育歴よりも

 むしろ生物学的な要因が 優位にあるということが 分かってきています。

 生物学的要因は、 物理的脳, 化学的脳, 遺伝の 3つに分けられます。

 物理的脳は 「ハードウェア」、 化学的脳は 「ソフトウェア」、

 遺伝は 「青写真」 に当たります。

( 実際には 物理的脳と化学的脳は不可分です。 )

・物理的脳

 MRIやPETなどの 診断装置によって、

 BPDの脳の働きが 調べられるようになりました。

 BPDの人の脳では、 感情の中枢が活発で、

 論理的中枢が不活発である ということが分かりました。

 この分野は今後も 成果が期待されています。

・化学的脳

 BPDの人は 様々な理由で、 セロトニンなど 神経伝達物質のレベルが

 アンバランスだったり、 阻害があったりします。

 感情, 衝動, 思考を制御する回路に 変調があります。

・遺伝

 BPDの特性を 引き起こす遺伝子が、

 4~5個あるのではないか と言われます。

 遺伝子は 衝動性・感情の規制、

 思考や知覚を コントロールする可能性があります。

 厳密に言うと、 遺伝するのはBPDではありません。

 攻撃性, うつ, 興奮しやすさ, 怒りやすさ, 嗜癖への脆弱性などの、

 BPDの特性です。

 これらが組み合わさると、 BPDを 構成することになります。

 BPDには 数個の異なる遺伝子が 関与しているでしょう。

 従って、 同じ家族の中でも、 BPDの人と そうでない人がいるのです。

〔「BPDのABC」 ランディ・クリーガー, E・ガン (星和書店)より〕

(次の記事に続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57826883.html
 
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境界性パーソナリティ障害の原因 (1)

2009年02月13日 23時02分12秒 | ボーダーに関して
 
 「BPD家族の会」 で、 BPDの本を読むと

 親が悪いとばかり 書いてある, 書きすぎだ と言っていた方がいました。

 確かに 5年ほど前までは、

 生物学的な原因は まだ日本では それほど言われていませんでした。

 でも今は、 生物学的な (先天的な)  原因が第一にあるというのが

 定論になっているでしょう。

 それまでのBPDの研究は、 主にBPD患者本人からの 聞き取りでした。

 そのため、 親の責任にされたり、

 虐待が強調されすぎたり してしまったわけです。

 そもそも BPDの人の特徴は、

 現実の正しい認識が 苦手ということであり、 問題を相手のせいにしがちです。

 中には、 現実にはなかった虐待が

 記憶として刻み込まれている ケースもあります。

( 本人の心的事実としては、

 その人は確かに 虐待を受けていたことになりますが。 )

 しかし現在では、 BPDの人の脳には 生得的に

 興奮しやすさや、 ストレスに対する 脆弱性などがあることが分かっています。

 生まれつき 癇の強い子供は、 親も育てるのに 手を焼き、

 それによって子供は さらにフラストレーションが増すという

 悪循環になってしまうでしょう。

 卵が先か、 鶏が先かという 面があります。

 脳に原因があるというのは 親の責任ではなく、

 まして 子供が悪いのでもありません。

 親が自分を責める 必要もないし、

 子供も親を怨んで やる方ない怒りを 抱くこともないでしょう。

 また子供自身が、 自分の性格が悪いのだと 苦悩する必要もありません。

 この事実は、 BPDの人や家族に 救いになるのではないでしょうか。

 家族の関係改善や、 治療意欲にもつながればいいのだが と思います。

(次の記事に続く)

〔関連記事:http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/18478190.html 〕
 

〔追伸〕

 生物学的要因に加え、 環境要因が組み合わさって BPDに繋がります。

 先天的な理由だけで BPDが発症することはありません。
 
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