「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

ステップ2 (1)

2009年07月31日 19時35分46秒 | 「BPDのABC」より
 
(前の記事からの続き)

*「BPDの人の行動を 個人的に受け取ることは やめましょう。」

(BPDがさせる行動であって、

 その人個人が、 あなた個人に していることではない。)

 ここでは、 BPDの人の 過剰で非現実的な 反応を扱います。

 ただし、 BPDだけが原因と 決める前に、 次のことを考えてみてください。

 起こった出来事に対しては、 双方が役割を演じています。

 あなたの言動の 責任を無視して、

 BPDの人の感情を 否定することは反生産的です。

 また、 BPDの人は 非常に勘がいいので、

 あなた自身が気付いていない あなたの思いを 見つけることがあります。

 それが真実かどうか、 自問してみてください。


 物事を個人的に受け止めるな という助言は、

 与えるのは易しくても、 従うのは難しい助言です。

 では、 救急医の場合を 想像してみてください。

 交通事故に遭った 子供の命を 救おうとしますが、

 運び込まれてきた時点で すでに瀕死の状態でした。

 懸命の努力の甲斐もなく、 子供は亡くなってしまいます。

 父親は 医師に向かって叫びます。

「この無能の馬鹿野郎!  お前が殺したんだ!  当局に訴えてやる!」

 救急医は、 父親が 子供の死のショックで 罵倒していると認識するでしょう。

 彼の反応は 過酷な状況のなせるもので、 医師とは無関係なのです。

 反応の刺激となったのは、 子供の死という 外的なものでした。

 けれども BPDの場合、 刺激は 出来事への BPDの人の内的解釈です。

 外的現実とは 似ても似つかないか、 全く異なっているかもしれません。

 刺激はBPDの人には 明白で劇的かもしれませんが、

 私たちにとっては 目に見えない (故に非論理的な) ものです。

〔 「BPDのABC」 ランディ・クリーガー/E・ガン (星和書店) より 〕

(次の記事に続く)
 
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ステップ1

2009年07月30日 21時03分35秒 | 「BPDのABC」より
 
(前の記事からの続き)

*「BPDの人に 治療を強制することはできないと 受け入れましょう。」

 あなたには あなたの意見, 思考, 感情の 全てに対して 権利があります。

 良くても悪くても、 正しくても間違っていても、 あなたのものです。

 一方、 他の皆も 意見, 思考, 感情に対する 権利があります。

 あなたが 同意できないかも知れませんし、

 他の人も あなたに同意しないかもしれません。

 それは それでいいのです。

 あなたの役割は、 あなた自身が 何者であるかを知ることで、

 自分の 価値観や信念に従って 行動することです。


 BPDの人にとって、 治療に向かうに当たり、

 自分が完璧でないと 認めることは、

 恥と自己疑惑の渦に 巻き込まれることです。

 存在するのを やめてしまうような感覚です。

 それを回避するため、 BPDの人は 「否認」 という 自己防衛を行ないます。

 自分には 何も悪いところはないと 主張するでしょう。

 自分自身を失うよりは、 自分にとって大切なもの

 -- 仕事, 友人, 家族 -- を 失うほうがマシなのです。

 そのことを理解すれば、

 BPDの人が 治療を求める時の勇気を、 心から 高く評価できるでしょう。

 BPDの人は 治療に向かう時、

 助けを求めたり、 自分の行動を 変えたりしようとするかもしれません。

 けれども あなたの思うようには いきません。

 変わるとしたら、 BPDの人なりの タイミングとやり方で変わるのです。

 あなたが BPDの人を変えたいと 思うのは、 悪いことではありません。

 でも、 あなたが 誰かを変えられるという

 ファンタジーは捨てなければなりません。

 そうする時、 あなたは真に あなたのものである 力をつかめるでしょう。

 あなた自身を 変えるパワーです。

〔 「BPDのABC」 ランディ・クリーガー/E・ガン (星和書店) より 〕

(次の記事に続く)
 
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BPDの人との 「10のステップ」

2009年07月29日 12時49分35秒 | 「BPDのABC」より

 ランディ・クリーガーさんの 「BPDのABC」 (星和書店) に、

 「10のステップ」 という章があります。

 BPDの人と接するとき、

 自分をコントロールするための 10のステップを述べています。

〔 ステップ1 〕

 BPDの人に 治療を強制することは できないと受け入れましょう。

〔 ステップ2 〕

 BPDの人の行動を 個人的に受け取ることは やめましょう。

(BPDがさせる行動であって、 その人個人が していることではない。)

〔 ステップ3 〕

 あなた自身を大切にし、 自分が BPDを引き起こしたのではなく、

 コントロールはできないし、 治すこともできないと 受け入れましょう。

〔 ステップ4 〕

 あなた自身と ふたりの関係を 検査しましょう。

 他の誰の行動でもなく、 自分自身の行動だけに 責任を持ちましょう。

〔 ステップ5 〕

 BPDの人の言動の 引き金を見極めても、

 生活にもっと 予測可能性を生み出しましょう。

〔 ステップ6 〕

 あなたの 個人的な境界を 明確にするため (境界設定)、

 あなたの思考や感情に 注目しましょう。

〔 ステップ7 〕

 BPDの人との コミュニケーションを取るための

 一般的ガイドラインを学びましょう。

〔 ステップ8 〕

 適切な時には、 「DEAR」 や 「PUVA」 という

 コミュニケーションツールを用いて、

 BPDの人の 思考, 感情, 行動に対する責任を、

 BPDの人に返しましょう。

〔 ステップ9 〕

 安定でない行動に 事前対処する方法を計画し、

 必要な場合は 実行しましょう。

〔 ステップ10 〕

 子供の 特別なニーズを 意識しましょう。

 子供の環境を、 できるだけ安全で 予想可能 かつ

 支援的, 教育的なものにするため、 早急に手段を講じましょう。

 以上について、 ひとつずつ 詳しく書いていきます。

〔 「BPDのABC」 ランディ・クリーガー/E・ガン (星和書店) より 〕

(次の記事に続く)
 
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「ディア・ドクター」

2009年07月27日 21時05分53秒 | 映画

 前作 「ゆれる」 で 話題をさらい、

 数々の映画賞を獲得した 西川美和監督の作品。

 笑福亭鶴瓶が 田舎の “ニセ医者” を演じます。

 キャッチコピーは、 「その嘘は罪ですか。」

 半数が高齢者という 山村で、 ただ一人の医者・ 伊野は、

 村人たちから 神様のように崇められています。

 研修医として来た 相馬 (瑛太) も、

 初めは 伊野の力量に 疑問は感じるものの、

 村人たちのために尽くす 伊野の姿勢に 次第に感化され、

 自分もこの村で 医者を続けたいと 思うようになります。

(伊野は熱心に 医学書で勉強を欠かしません。)

 何が偽物で 何が本物なのか。

 何が善で 何が悪なのか。

 西川監督は 問いかけるようです。

 劇中で伊野は、 「自分には 医者の資格がない」 と口にします。

 でも 「医者の資格がない」 とは どういうことでしょう? 

 国家資格が ないということなのか、

 金のことしか考えず 患者を省みないということなのか。

 目の前の村人を 助けるために走り続けて、 止まれなくなってしまった 伊野。

 しかし それが行き詰まる 時が来ます。

 突然の 伊野の失踪。

 それもまた、 伊野の人間としての 良心の葛藤から、

 そうせざるを得なかった 選択です。

 そして、 取ってつけたとも言えるかもしれない ラストシーンも、

 また乙で 印象深いものでした。


 ある町で ニセのタクシー運転手が逮捕され、

 高齢者たちが病院へ行けなくなった というニュースから、

 西川監督はこの話を 思いついたと言います。

 「ゆれる」 で 脚光を浴び、

 国際的にも 極めて高い評価を 受けることになった 西川監督。

 「自分は本当は そんなすごい監督ではない」 という思いを、

 この作品に 重ねたというから、 監督のしたたかさを 感じます。

 因みに、 西川監督が事前に 取材を重ねる中で、

 医者でない者が 医者のふりを続けることは 現実にあり得るかどうか、

 現場の医師に 聞いて回ったそうです。

 その答は  「あり得る」 だったというのも、 恐い話ですね。
 
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読売新聞、 記事改ざん? 

2009年07月26日 19時46分56秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

< 千葉県旭市上永井にある 民間の動物研究施設

 「アルティメットアニマルシティー」で 3日午前、 職員が、

 入り口近くの 草むらに放置された 土のう袋の中に、

 ワニがいるのを見付けた。

 施設職員らによると、

 ワシントン条約で 国際商取引が禁止されている シャムワニとみられる。

 県警旭署は 何者かが捨てたとみて 飼い主の特定を急ぐとともに、

 動物愛護法 (遺棄の禁止) に 抵触する可能性もあるとみて 調べている。

 見つかったワニ=写真=は 約1・5メートルで、

 口を タオルと粘着テープで縛られていた。

 手紙が添えられ、

 「3月に 仕事の契約を切られ、 お金がなく、

 こいつを養うことができません。

 名前は 『ゲン』 です」 などと書かれていた。

 施設代表で、 動物作家の パンク町田さん(40)は

「 初めは、 近くの農家の人が 野菜でも置いていってくれたのか と思った。

 手紙から、 悩みは分かったが 持ち込まれると困る。

 安易に動物を捨てるのは やめてほしい」と 困惑していた。

(2009.05.04 東京朝刊)>


 男性の手紙の内容は ほとんど削られ、

 また元の記事には、 最後の施設代表の言葉は ありませんでした。

( 動物保護法云々の 記載があったかどうかは、 記憶が定かでありません。 )

 恐らく 読者か関係者から、 元の記事は ペットを捨てることを助長する

 などのクレームを受け、 記事の趣旨を変更したのでしょう。

 確かにそれも 考慮しなければならないことですが、

 こんなにも正反対の 記事にしてしまうのか、 読売新聞の見識も疑がわれます。

 もし最初から この記事だけを読んでいたら、

 僕は特に気持ちを 動かされるものはなかったでしょう。

 記事の書き方や 記者の姿勢によって、 読者は 全く異なったものを

 与えられてしまうのだということも、 改めて実感した次第です。
 
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派遣切りで 育てられなくなったワニ

2009年07月25日 21時51分27秒 | Weblog
 
 しばらく前の 読売新聞に、 とても心をそそられる 記事がありました。

 千葉県の 動物研究施設の前に、

 袋に入れられたワニが 捨てられていたという出来事です。

 ワニは 口を縛られ、 手紙が添えられていました。

 飼い主の男性は、 派遣切りに遭って 何ヶ月も仕事が見つからず、

 ワニを どうしてもそれ以上 飼育できなくなり、

 泣く泣く 手放さざるを得なかったというのです。

 ワニは 餌代はさほどしないものの、

 温度を一定に保つための 電気代が、 月に 1万5千円ほどかかるそうです。

 男性は初め ワニをペット店に 持っていきましたが、

 店が ワニを飼う許可を 持っていないため 断られました。

 この研究施設なら 世話をしてくれるだろうと思って、

 持ってきたのだといいます。

 記事には 男性の手紙の 全文が掲載され、

 男性が どんなにワニを可愛がっていたか、

 どんなに止むに止まれず 置いていかざるを得なかったか、

 切々と伝わってきます。

 手紙は次の文章で 終わっていました。

「 こいつの名前は ゲンです。

 こいつの幸せを お願いします 」

 この時節に 僕は胸が痛むものがあり、

 何度も記事を 読み返してしまいました。

 この記事のことを 思い出して、 ブログで紹介したいと思い、

 読売新聞の記事を検索しました。

 すると、 データが更新されている というメッセージが出ました。

 検索し直して 見てみると、

 記事は 全く違う内容に 書き変えられていました。

 それが 次の文面です。

(次の記事に続く)
 
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餃子の王将 やりすぎサービス

2009年07月24日 20時57分04秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

 餃子の王将は チェーン店でありながら、

 各店で独自の メニューやサービスを 提供しています。

 例えば、 京都出町店では 学生限定で、 食事後30分間 皿洗いをすると

 代金がタダになり、 貧乏学生に好評となっています。

 兵庫県須磨店は 女子大生限定で、

 90分1200円で 20種類の料理が 食べ放題。

 でも中には やりすぎのサービスもあるようです。

 兵庫県宝塚インター店の ギガントメニューもそのひとつ。

 普通のチャーハン (367円) の 4.5倍ある

 ギガントチャーハン (861円) は、

 グループで注文してもいいため、

 4人で頼めば 一人頭215円で 済んでしまいます。

 通常の4倍ある ギガント天津飯 (892円) や、

 ギガントラーメン (924円) も同様で、

 売れば売るほど 確実に損だと。  (^^;)

 また 奈良県橿原神宮店では、

 麺類を注文すると 天津飯一杯が 100円で食べられる というサービスです。

(7月の金曜夜限定)

 二人で行くと、 ラーメン472円と 天津飯で572円 (一人286円)。

 完璧な赤字だそうです。

 そして 京都府祇園八坂店は、 浴衣や着物で 来店すると、

 一品料理が 一人分 無料になります。

(7月限定。グループで一品のみ)

 例えば、 小ライス136円を 注文すれば、

 一番高い エビチリ609円が タダで食べられてしまうのです。

 これらのサービスは、 各店長が エリアマネージャーに申請するのですが、

 許可を出した マネージャー自身、

 やりすぎだと 後悔しているみたいです。  (^^;)
 
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餃子の王将

2009年07月23日 22時48分44秒 | Weblog
 
 先日、 友だちに  「餃子の王将って知ってる?」 と聞かれました。

 これは σ (^^;) には愚問です。

 大学の時、 王将は京都の 「学生の味」 で、

 いつも行ってました。 σ( ^^;)

 エンザーキ (鳥の唐揚げ) はボリュームがあって、 よく頼んだもんです。

 その後 (今から数年前)、 TVで王将が取り上げられ、

 大阪が発祥の地だ ということを言っていました。

( 京都にいたときは、 王将は京都のものだと 思っていましたが。 )

 ところが、 きのうまた TVで王将をやっていて、

 「餃子の王将」 第1号店は、

 1967年にできた 京都四条大宮店だというのです。 (@_@)

 どういうことかと思っていたら、

 ネットで 「大阪王将」 という 餃子の店が見つかりました。

 調べてみると 「大阪王将」 は、

 「餃子の王将」 の創業者 「王将フードサービス」 の 一族が独立して、

 69年に 大阪で 「餃子の王将」 として始め、

 その後 チェーン店を展開したとあります。

 しかし、 名称を巡って 王将フードサービスと訴訟となり、

 のちに和解して  「大阪王将」 となったのだそうです。


 ちなみに 鹿児島, タイ, シンガポールにも

 「餃子の王将」 があるようです。

 鹿児島の王将は 本家の承諾を得ていますが、

 タイとシンガポールは “偽物” だとか。

 でも 「餃子の王将」 は 海外で商標登録していないため、

 どうしようもないのだそうです。

 それから 「大阪王将」 も、

 親族が新たに 大阪で 「大阪王将」 を名乗って出店し、

 のちに 「大阪王」 になったとのこと。

 紛らわしいですね。  (^^;)


 ところで 王将の餃子は 今231円ですが、

 京都では最初 100円だったような記憶があります。

 だから 餃子というのは そういう値段だと思っていて、

 東京に出てきたら 何百円もするので、 びっくりしたものです。  (^^;)

(次の記事に続く)
 
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臓器移植法改正 -- 医療ルネッサンス (2)

2009年07月21日 20時28分27秒 | Weblog
 
 CT画像を前にして 救急医の説明を受けた 40代の妻は、

 夫が脳死状態であることを 理解しました。

「 夫は ドナーカードを持っています 」

 妻は 医師に伝えました。

 しかし医師は、

「 病院側は 臓器提供を勧めていない 」と 遠回しに言います。

 救急医は医師不足などで 多忙を極めています。

 さらに 救急車で運ばれる患者数は、 10年間で50%増えました。

 臓器提供の業務が加われば、

 最低丸2日は 脳死判定などの対応に 忙殺されます。

 移植法改正で 臓器提供が増えると、 救急医療は破綻してしまいます。

 脳死判定などの 経験が少ない臓器提供施設に、

 経験豊かな 外部の救急医や脳神経外科医らを、

 「応援部対」 として派遣する 制度が提案されています。

 移植医療の進展には、 救急部門の充実が必要です。


 臓器提供者と家族の 善意を敬い、 喪失感を癒すことも 欠かせません。

 アメリカでは、 ドナー (提供者) 家族と

 レシピエント (移植の受容者) を引き合わせる 活動をするNPOがあります。

「 非常に温かい家族だった 」

「 命を自分に バトンタッチしてくれた人に感謝している 」

( 日本では ドナーとレシピエントは お互いの名前も知らされません。

 金品を要求したりすることを 防ぐためとされます。 )

 しかし ドナー側の心に 寄り添った専門職、

 なかでも 移植コーディネーターの存在は重要です。

 米国の3000人に対して、 日本ではわずか70人。

 過労で 辞めていく人も多い 悪循環です。

 社会が ドナー家族に敬意を 表す仕組みに加え、

 コーディネーターの教育制度も 整えなければなりません。
 
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臓器移植法改正 -- 医療ルネッサンス (1)

2009年07月20日 21時53分53秒 | Weblog
 
 臓器移植法改正を受けて、

 読売新聞の医療ルネッサンスに 特集が連載されました。

 気に止まった点を 要約してみようと思います。

 ------------------------------------

 札幌病院 救命救急センターのICUでは、

 重篤患者の命を救うために 全力を尽くして戦うだけでなく、

 脳死など 救命不能になった患者と家族に、

 残された時間を 有意義に過ごせるように手伝う

 「看取り医療」 を始めたといいます。

 患者を囲んだ 家族の様子を 看護師がVDに収めたり、

 成人患者には 化粧やネイルアートをしたり。

 人生の最期を 治療だけで終わらせるのではなく、

 「家族と一緒のひととき」 を 味わってほしいという願いです。

 看取り医療の中で、 家族に臓器提供の意思を 尋ねることにしています。

 成人患者の場合、 6割以上の家族が 申出に応じてくれるといいます。

「 最期に 一緒の時間を 過ごせてよかった 」

「 臓器提供して 誰かの役に立てて嬉しい 」

 家族は そう言ってくれます。

 こうした看取り医療が 可能になるのは、

 最善の救命治療が なされたということが大前提です。

 しかし、 日本の救急医療、 特に 小児救急には課題も多いようです。

 日本の1~4歳の死亡率は、 先進14ヶ国のうち 2番目の高さです。

 小児の専門医が常駐し、 24時間の集中治療体制が 整った施設は

 国内に数ヶ所しかありません。

 改正法施行後は 15歳未満の臓器提供が 可能になりますが、

 小児脳死移植が普及するには、

 小児救急への信頼構築と 家族の心のケアが 鍵を握っています。

〔 読売新聞より 〕
 
(次の記事に続く)

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脳死の脳は死んでいるのか? (2)

2009年07月19日 22時21分22秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

 脳死判定後に、 患者が 両手を体の前で 大きく交差するように 動かしたり、

 背中が反ったりする  「ラザロ徴候」 というものがあります。

 全く自発的で 激しい動きもあり、 一般人が見ると

 およそ “死んでいる” とは思えません。

 僕も 初めてその映像を見たとき、 とても信じられませんでした。

 ラザロ徴候は 脳が関与しない 脊髄反射だとも言われますが、

 それだけでは 説明しきれないものがあるのです。

 脳死判定がなされても、

 脳幹が生きている 可能性が否定できない という例もあります。

 しかも こういう現象があるという 情報は、 一般人を戸惑わせるとして、

 80年代以降、 専門家の間で 隠されていたのです。

 僕も最近まで 知りませんでした。

 一部の専門家が 正しい情報を 一般に公開しないのは、

 許されないことではないでしょうか。

 また 脳死治療や人工呼吸器の 進歩に伴い、現在では 小児以外でも、

 脳死判定後 年単位で生き続けた症例が いくつも出てきています。

 脳死になれば 身体の統合作用が失われるという 仮説は、

 通用しなくなってしまったのです。

 このように、 脳死には 分かっていないことが まだ沢山あります。

 それを考えても、 脳死を人の死と 規定してしまうのは危険でしょう。

 脳死判定も、 どこまでいっても 完全無欠という基準はありません。

 現在の判定基準も、

 不可逆性 (脳細胞の死 = 脳血流の停止) を 見極めるのには

 不充分であると、 立花隆の立場からは 批判されます。

 医師の脳死判定が 不適切な場合もあるでしょう。

 脳死が厳密に解明されず 議論が深められなかったり、

 重大な情報が 隠されたり、

 脳死・移植の 基本も知らない 議員によって人の 生死が左右されたり。

 脳死で人は死んだと 一方的に決めてしまった 今回の法改正で、

 現場はどうなるのか 非常に危惧されるものがあります。
 
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脳死の脳は死んでいるのか? (1)

2009年07月18日 12時25分03秒 | Weblog

 
(前の記事からの続き)

 脳死の診断には、 臨床的脳死診断と 法的脳死診断があります。

 前者は、 脳の機能が 停止していることを確認して、

 治療方針を決めるためのもの。

 後者は 移植をする時にのみ行なう、 より厳密なものです。

 臓器を摘出する時には、

 間違いなく不可逆的で 完全な遺体でなければなりません。

 他方、 移植が関わらなければ、

 臨床的脳死診断だけ行なって、 家族が納得するまで 治療をするか、

 過度な治療は控えて 静かに死を迎えるか 相談すればいいでしょう。

 ただし、 脳死を経たとみられる 死亡例のうち、

 臨床的脳死診断が実施されたのは 約3割だそうです。

 手間と時間がかかる 作業であり、

 経験的に脳死と判断された 患者さんに対して、

 現場では 必ずしも脳死の診断をする 必要があるとは限らないのでしょう。


 小児の脳死は まだ分かっていないことがあって、 判定が難しく、

 それが 15歳以下の子供の脳死移植を 認めない理由になっていました。

 小児では 脳死診断 (臨床的, 法的を含む) がされても、 

 一ヶ月以上の長期にわたって 心停止に至らない、

「 長期脳死 」という現象が 起こることが知られています。

 脳死のまま 家庭で親に見守られて 何年間も生き、

 体の成長も続けている 子供のケースがあります。

( もしこれが 法的脳死判定をした後だとすると、

 “ 遺体を介護している ” ということになるのでしょうか? )

 小児患者が 脳死または脳死に近い と診断されたあと、

 脳の機能が 若干でも回復したという例も 少なくないそうです。

 そこから臓器を摘出して 移植することなど、 到底認めがたいでしょう。

(次の記事に続く)
 
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脳死は人の死か? (2)

2009年07月17日 21時07分23秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

 人格のアイデンティティである 脳の死が その人の死だとすると、

 人格が崩壊してしまったような 認知症の場合はどうでしょう? 

 重度の認知症でも、 その人の記憶は かすかに残っているでしょうし、

 その人独自の 言動はあるので、

 脳細胞そのものが死んでいる 脳死とは 次元が異なります。

 また、 いわゆる植物状態は 脳死とは違い、

 呼吸など 根本的な生命活動を司る  「脳幹」 は生きており、

 その人は 自分の力で生きています。

 それに対して 脳死とは、

 脳幹を含む 脳の全てが 死んだ状態 (全脳死) で、 いわば

 人工呼吸器によって 強制的に生かされているとも 言えるような状況です。

 では  「無脳児」 はどうでしょう? 

 先天的に 脳が形成されなかった 胎児で、

 生まれたとしても すぐに亡くなってしまいます。

 親としてはその子にも 人格を認めたいでしょうが、

 本人の意識や自我などは 元々ありません。

 理論上は、 脳死を人の死とするのは 合理的だと思います。

( 因みに アメリカの専門家の間では、

 植物状態や無脳児から 臓器提供をするという 主張が根強くあるそうです。 )

 逆に 心臓死を人の死とすると、 論理的には矛盾も生じてきます。

 例えば 人工心臓を埋め込んでいる 人がいるとしたら、

 その人の元の心臓は もうないのですから、 その人は “すでに死んでいる” ? 

 心臓移植を受けた人も “死んでいる” ? 


 でも 人の死の受容は 論理だけではなく、

 情緒的, 感覚的なものでもあるでしょう。

 多くの日本人の死生観が 脳死を死と 受け入れられていない現在、

 法律で 脳死を人の死と 決めてしまうのは いかがなものかと思えてなりません

 眠っているだけとしか思えない 脳死の家族を目の前して、

 法律だから死んでいる と言われたら、

 死生観 = 信条の自由に 反するのではないでしょうか。

( もちろん 脳死判定や臓器提供を 拒否することはできますが。 )

 現行法では、 移植をするときのみ 脳死を人の死とする としています。

 人の死が、 その場の恣意的なもので 変わってしまうという 大きな矛盾ですが、

 その論理矛盾の方が 実際的であり、 人間的ではないでしょうか。

(次の記事に続く)
 
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脳死は人の死か? (1)

2009年07月17日 00時00分31秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

 僕は個人的には、 脳死は 論理的に人の死であると 考えていました。

 脳死に関しては、 立花隆の名著 「脳死」 に 大きな影響を受けました。

 「脳死」 は、

 「 初回にかっ飛ばした、 代打満塁場外ホームラン 」 と評されています。

 つまり、 脳死論議が取り上げられ始めた 最も初期に出た本で、

 医学の専門家ではない 立花隆が、 いきなり

 他の追随を許さない 最高峰の著作を 打ち立ててしまったということです。

 脳死という状態は、

 人工呼吸器が誕生して 初めて存在するようになった と言われます。

 事故などで 脳が損傷を受け、 脳死状態になって

 呼吸中枢が働かなくなっても、人工呼吸器によって

 体に酸素が 送られている状態です。

 心臓の筋肉細胞は 自律的に伸縮するので、 脳死になっても 拍動するのです。

 しかし 脳が死んでしまうと、

 心臓をはじめ 全身の機能を 統合・ 調整することができなくなり、

 やがてコントロールを失って 心臓も停止してしまいます。

 一人の人間として生きている 身体の統合作用は、

 脳という中枢の臓器によって なされていると考えられるので、

 脳の死がその人の死だ という筋道になります。

 また 立花隆によれば、 人格のアイデンティティは 脳であり、

 それが死んだときが 個人の死であると考えます。

 例えば、 もしもAさんの脳を Bさんに移植をしたと 仮定すると、

 体はBさんであっても その人はAさんになります。

 言い換えれば、 Aさんに対して、

 脳以外の全臓器を 移植したということになるのです。


 従来の死は、 心臓が止まることで 人が死んだとされていました。

 もっとも 従来の死でも、 心臓が止まると 脳に血液が行かなくなり、

 数分で 脳細胞は死に始めて、 脳死になっていたのです。

 心臓死と脳死の タイムラグがほとんどないので、

 何の問題にも なりませんでしたが、

 立花隆は この脳死の時点が 本来的な死だと言います。

 なお、 脳死の定義は

「 全ての脳の 不可逆的な機能停止 」 とされています。

 しかし立花隆は、 不可逆性を確実にするものとして、

 脳の機能的な死ではなく、 器質的な死とすべきだと 主張しています。

 その条件として、 脳血流の停止を挙げています。

 僕もこれに同意します。

(次の記事に続く)
 
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法律で 「脳死は人の死」 に

2009年07月15日 21時10分27秒 | Weblog
 
 改正臓器移植法案・ A案が 参院本会議で成立し、

 脳死は一律に 人間の死であるということが、 法的に決まってしまいました。

 僕は20年ほど前、 脳死と移植については かなり勉強しました。

 マンガでデビューした時の 作品 (作画共) も、

 シナリオで 日本映画製作者連盟・ 城戸賞を 受賞したのも、

 脳死と移植の話でした。

 そういう立場からして、 この法案成立には とても疑問を感じます。

 今回の法改正は、 今まで 15歳未満の子供が 移植を受けるには

 海外へ行くしかなかったのに対し、 国内での手術の道を 開くことが主眼です。

 渡航移植を制限するという WHOの “外圧” もありました。

 言うまでもなく、 移植でしか助からない子の 命を救うことは、

 最重要事のひとつです。

 ただしそれは、 現行法の年齢制限を 撤廃、 または緩和すれば

 事足りるものだと思います。

 「脳死は人の死」 であると 法律で一律に 決める必要はなく、

 現行のように 脳死移植する場合だけ 人の死とするので良いはずです。

 脳死状態で その人が死んでいるとは、

 多くの国民は 受け入れていないでしょう。

( あるアンケート調査では、 脳死が人の死と 考える日本人は 26%とか )

 国会議員たちは 脳死のことについて、

 よく理解をしていない とも言われています。

 勉強会が開かれても 皆途中で帰ってしまうとか、

 投票行動をちゃかすような 笑い声やヤジがあったりとか。

 ある議員は 採決が迫ったとき、 移植を待つ子供の 報道を見て、

 それで A案に決めたといいます。

 しかし そんなことを考えるのは、 脳死移植論議の 初歩中の初歩です。

 移植を受けなければ 死んでしまう立場、

 血が通っている我が子から 臓器を提供する立場、

 精緻な解釈を必要とする 脳死という状態、

 移植の予後、 その他 様々な問題を 考えなければなりません。

 上記の議員は 議論の入り口しか 知らないあり様で、

 人間の命に関わる 重大な一票を 入れてしまったことになります。

 衆院本会議のときは 採決直前に、 A案提出者の 盛んな多数派工作によって、

 結論を決めかねていた議員たちが A案になだれ込みました。

 参院では、 脳死を人の死としない 修正案が提出されましたが、

 これを衆院に戻すと、 時期的に衆院解散で 廃案になってしまうのを避けた、

 という事情もあるようです。

 人間の生死に 関わる法案が、 こんないい加減な 議員たちによって、

 深い死生観に根ざした 判断ではなく、

 文字通り “政治的” な力で 決められてしまっていいのでしょうか。

(次の記事に続く)
 
コメント
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