「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 電子版

2015年12月17日 20時26分59秒 | 「境界に生きた心子」
 
 お知らせしそこなっていましたが、 星和書店 「境界に生きた心子」 の電子版が、
 
 11月から発売されています。
 
 Amazonのページは下記です。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A2%83%E7%95%8C%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E5%BF%83%E5%AD%90-%E7%A8%B2%E6%9C%AC%E9%9B%85%E4%B9%8B-ebook/dp/B016ZFGW9G/
 
 星和書店で以前から 電子化の話があったのですが、 今回やっと実現しました。
 
 紙の本より 消費税分お安くなっているみたいです。
 
 スマホなどで どこでも読めるのが便利でしょう。
 
 Kindle版という形式で、 読むのにアプリが必要ですが、
 
 アマゾンで無料ダウンロードできます。
 
 そうすれば 冒頭部分の無料サンプルも読んでいただけます。
 
 (僕も今回初めて 電子書籍を読みました。  (^^;))
 
 購入した書籍やサンプルは クラウドに保存されます。
 
 よろしければ是非ご覧になってみて、 ご購入いただければ幸いです。 m(_ _)m
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (21)

2015年03月14日 19時31分45秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【ふたつめは、 いわゆる ロマンティック・ラブ・イデオロギーを前提として
 
描こうとする点である。】
 
 ふたつめも ひとつめと重なる点がありますが、
 
 心子がロマンティックなのも また障害に関係するものでもありました。
 
 この点では 販促のためのイデオロギーではありません。
 
 また、 拙著発刊当時ボーダーは、
 
 一般の人にはまだ 名前さえよく知られていない存在で、
 
 知っている人も 批判的なイメージしか持っていませんでした。
 
 ボーダーを理解してほしいという 僕の第一の目的のため、
 
 ボーダーに誤解を抱かないようにしてもらうのが、 まず重要なことでした。
 
 そのため ボーダーの魅力的な面を 特に強調することに、 僕は腐心したのでした。
 
 敢えて美化しているような点も ないとは言えません。
 
 作品というのものには それぞれの役割があり、
 
 ある題材を描くにも、 その時期によって 狙いは変わると 僕は考えています。
 
 ボーダーを取り扱う 初期の作品は、
 
 上記のように ボーダーをネガティブでないものとして 知ってもらうことが、
 
 その役割だとするのが 拙著のポジションです。
 
 次の世代の作品群で、 ボーダーをさらに深めるために、
 
 暗部も究明したり、 難題に取り組んだりしていく必要が あるのではないかと、
 
 思案するものです。
 
 従って拙著では、
 
 ロマンティック・ラブ・イデオロギーと言われても 構わないような面があります。
 
 それによって、 一人でも多くの人に ボーダーのことを読んで知ってもらえるなら、
 
 それが本望なのです。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(以上)
 
                   *
 
 野崎さんの論文  「境界性パーソナリティ障害の障害学」 が掲載されている
 
  「現代生命哲学研究」 は、 下記で見ることができます
 
http://www.philosophyoflife.org/jp/
 
 大阪府立大学の 「現代生命哲学研究所」 が 発刊している学術誌ですが、
 
 どれも興味のあるタイトルが 並んでいます。
 
 因みに、 筆者の一人である 森岡正博さん (大阪府立大学教授) は、
 
 新進気鋭の生命倫理学者だったころ、 生命倫理のシンポジウムでご一緒したり、
 
 手紙のやり取りをしたことも 思い出します。
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (20)

2015年03月13日 20時28分25秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 [13]  本論に直接関係するわけではないが、
 
 『境界に生きた心子』 の書籍の帯には、
 
 「激しい感情の荒波に巻き込まれ、 壮絶ながらも、
 
ピュアでドラマチックなラブストーリー」 とある。
 
販売促進が 帯の目的のひとつであるとはいえ、
 
こうした文言が 販促として成立するような 社会のありように対し、
 
私は次の二点において 疑問を投げかけたい。
 
ひとつめは、 患者あるいは なんらかのハンデを背負った者が
 
恋愛物語に登場するとき、 それをあたかも純粋なものとして 描こうとする点である。
 
ふたつめは、 いわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーを前提として
 
描こうとする点である。
 
出版社が、 こうした点を 読者に対して あからさまに要求している点において、
 
この社会における 恋愛の表象、
 
とりわけ なんらかのハンデを有する者との 恋愛の表象は 不問にされている。】
 
 販促に対する社会への 発言ですが、 僕は筆者の立場から 述べさせていただきます。
 
 ひとつめの点については、
 
 BPDの人が純粋であるというのは 野崎さん自身も強調していることです。
 
 ドラマや映画などで、 いわゆる “障害者もの” と言われる ジャンルがあり、
 
 そのラブストーリーで  「ピュアな」 という うたい文句が付いたりしますが、
 
 拙著の場合は それとは違うと思っています。
 
 いわゆる “障害はあるけれど 心はピュア” というのではなく、
 
 BPDの場合、 ピュアであるのも 障害の故なのだと言えます。
 
 心子も  「現実離れした純粋さ」 でしたが、
 
 それが障害となって 苦しむことになってしまうという、 厄介なものだったわけです。
 
 それで僕は、  「境界に生きた心子」 が  “障害者もの” と言われるのが、
 
 どうしてもピンとこなかったものです。
 
 僕にとっては  “障害者の美しい話” ではなく、
 
 苛酷で悲痛な 障害の話なのでした。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (19)

2015年03月12日 19時59分54秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 《心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
言動の否定と生存の否定とを 結びつけてしまうのは、
 
BPD患者の責任でもなんでもない。
 
私たちの社会が、 正しいやり方で議論をし、
 
何ごとかを決定する段を ふまえないからこそ、
 
こうしたことが BPD患者の 〈生きづらさ〉 となって 現れてしまうのではないか。
 
つまり、 「主張の否定が人格の否定ではない」  ということを、
 
社会に根づかせる必要が あるということである。】
 
 僕は拙著で、 次のように記しました。
 
 《それらは程度の差こそあれ、 我々が誰でもやっていることである。
 
 (中略)
 
 我々は ボーダーの人のひな型だ。
 
 ボーダーの人は、 誰しもが持ち合わせている 普遍的な性 (さが) を、
 
 いとも鮮烈に見せつけてくれるのだ。》
 
  「言動を否定されると 人格も否定されたと感じてしまう」 のは、
 
 世の中の誰にでもあり得ることです。
 
 BPDの人は それが特に強烈で、 生存の消滅にまで エスカレートしてしまいます。
 
 しかし私たちは、 人から自分の意見を否定されても、
 
 自分の人格が否定されたわけではないのだ ということを、
 
 刻苦しながら学んでいかなければならないのではないか と考えます。
 
 それが人間としての成長でしょう。
 
 もちろん それを人に教えてもらうこと (教育) も必要で、
 
 社会が担う点もある とは言えるでしょう。
 
 でも それを社会に  「根づかせる」 という処までいくのは、
 
 かなり難しいのではないか という気がします。
 
 それは 人間の永いテーマであって、
 
 誰もが身に付けるというのは 現実的ではないのではないかとも思われます。
 
 我々は幾つになっても、 言動の否定を人格の否定と感じて、
 
 怒ったり傷ついたりしてしまうものです。
 
 例えば、  「不惑」 というのを 教えることはできますが、
 
 本当に不惑の境地になるのは 極めて困難なことです。
 
 いくら教わっても、 個人の資質や 長年の精進がなければならないでしょう。
 
 言動の否定と 人格の否定を結びつけるのが、
 
 個人の責任ではなく、 全て社会の責任だというのは、
 
 いささか言い過ぎではないだろうか というふうにも感じます。
 
 生きづらさは、 個人ではなく社会の問題だという 野崎さんの主張は重要ですが、
 
 それに重きが置かれすぎてしまうと、
 
 逆に 個人の責任を霧消させてしまうのではないか という懸念もないではありません。
 
 人間的成長には、 痛みも伴う個人の修養が 必要だと思うのですが、
 
 いかがなものでしょうか? 
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (18)

2015年03月11日 19時11分21秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 「現実はグレーゾーンであり、
 
白や黒など はっきりと決着のつけられないものである」  とよく言われる。
 
それは一理あるかもしれない。
 
しかしながら、
 
決着をつけるべき問いに 決着をつけようとしていないだけのことも あるだろう。】
 
【BPD患者が 「答えのない問いを生きる」 】
 
【字義通り、  「答えのない問い」 に答えることはできない。
 
ならばどうすればよいのか。
 
 「答えのない問い」 を 可能な限り社会からなくしていくことである。
 
すなわち、  「答えのない問い」 に はまり込む手前で、
 
そのような問いを問う必要のない 社会を作っていくことである。】
 
 世の中や人間は、 簡単に決着が付いたりしないからこそ、
 
 奥深く素晴らしいものであると 言うこともできます。
 
( 「決着をつけるべき問いに 決着をつけようとしていないだけのこともある」 のも、
 
 確かだと思いますが。)
 
 すぐに答を求めるよりも、 分からないものを分からないまま抱えながら、
 
 それを味わっていくことも、 また必要かもしれません。
 
 答の出ない問いに、 最後まで向き合っていくのが、
 
  「生きる」 ということだとも言えます。
 
 自分が人生に 生き方を問うのではなく、
 
 人生が自分に 生き方を問うているのであり、
 
 それに答えていくのが、 生きることであるとも。
 
  「どう生きていけばよいのか」 という問いは、 人類の永遠のテーマであり、
 
 世界からなくすのは不可能だし、 なくしてはいけないものなのではないでしょうか?
 
 (その問いがない社会というのも 想像しにくいものです。)
 
 そういう問いから 哲学が生まれ、 芸術が生まれます。
 
 それこそが、 人間の豊かさや幸福にも 繋がっていくものでしょう。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (17)

2015年03月10日 20時32分09秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【BPD患者の織り成す世界の ひとつの魅力とは、
 
純粋なるものへの 激しいまでの渇望である。
 
ただし、 その世界においては、 現実と折り合いがつくことはない。
 
折り合いがつかないからこそ  〈生きづらさ〉 を感じるのだが、
 
そのとき、 現実のほうが間違っている 可能性もあるわけである。】
 
 確かに、 僕が心子に惹かれた 大きな理由のひとつは、 彼女のピュアな心根でした。
 
 でも心子の純粋さは  「現実離れした純粋さ」 で、
 
 それが社会に馴染まないために 傷ついてしまうわけです。
 
 僕自身も若いときは 純粋な世界を求めていたので、 苦悩の体験もありました。
 
 そして、 大いなる挫折の時期を経て、
 
 否応ない現実というものを認識し、 より広くて深い 人生観を築いていきました。

 それが 人間としての成長でした。
 
 現実の中で通用しうる、 強さを持つ純粋さを身に付け、
 
 実現を目指していくことが 大切だと思います。
 
 本音と建前を使い分けたり、 長いものに巻かれたりして、
 
 妥協や世間擦れすることを 良しとするわけではありませんが、
 
 自分の純粋さだけに留まっているのは、 狭い価値観であり 未熟ではないでしょうか。
 
 心子の純粋さというのは、 そういうレベルのものだったと考えます。
 
 従って、 生きづらさを乗り切っていくには、
 
 自らが成長を求め、 努力していく必要があるでしょう。
 
 つまり 純粋さによる生きづらさは、
 
 不純な社会の問題だけでなく、 個人の問題でもあると思います。
 
  「水清ければ魚棲まず」 「清濁併せ呑む」 とも言いますが、
 
 世の中は 単純に無垢なだけではなく、
 
 複雑で猥雑なところが 人間臭くて、 面白さであるとも言えます。
 
 どんな世界が 興味深いと感じるかは、 その人の価値観そのものが 関わってきます。
 
 BPDの人の 生きづらさを解消するために、
 
 社会が BPDの人の純粋さを 受け入れていくべきだとは、
 
 必ずしも言えないのではないでしょうか。
 
 ただし、 社会も不正義を改め、 より成熟したあり方を求めていくべきなのは、
 
 言うまでもありません。
 
(因みに、 心子のような潔癖さを、
 
 他の多くのBPDの人が 持っているとも限らないでしょう。)
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (16)

2015年03月09日 20時18分41秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【BPD患者の 〈生きづらさ〉 は、
 
 貴戸理恵の言う 「関係的な生きづらさ」 に 近いものではなかろうか。
 
(中略)
 
第二章で取り上げた 心子の 「病状」 も、
 
心子のメンタルな 個体の失調というより、
 
心子と稲本、 あるいは 心子と周りの人たちとのあいだの
 
関係性の失調と考えた方がよい。】
 
 BPD患者の生きづらさが 人間関係のものであるというのは、
 
 その通りだろうと思います。
 
 BPDはコミュニケーションの障害である という人もいます。
 
 統合失調症やうつ病など 他の精神障害と違って、
 
 BPDは 人との関わりなしに 症状は起きてきません。
 
 DSMの診断基準も、 大半が 対人関係の中から生じてくるものです。
 
 従って、 周りの人や社会のほうが変われば、 BPDの人との関係も変わり、
 
 BPDの人の生きづらさも 違ってくるでしょう。
 
 生きづらさは BPD個人の問題だけでなく、 社会の問題でもあると言えるでしょう。
 
 ただし、 コミュニケーションの障害ということは、
 
 コミュニケーション能力の障害ということで、
 
 BPDの人が 適切なコミュニケーション能力を 身に付ければ、
 
 生きづらさも減ってきます。
 
  「関係」 というからには、 一方だけの問題ではなく、
 
 双方が関わり方を考えることで、 関係は変わってくるはずです。
 
 生きづらさの原因が 社会にだけあるとは、 ちょっと言い難いのではないでしょうか。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (15)

2015年03月08日 19時53分15秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 次に、 以下の点について 考えてみたいと思います。
 
【 《ボーダーの人は 人格の 「核」 ができていないので、
 
 苦しみや悲しみに向かい合う力が きわめて弱いと考えられる。
 
 葛藤を冷静に見つめたり、 自省する自我ができていない。
 
 心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
 生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
 
 「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった
 
個人の問題に還元させてしまい、
 
 「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
 
(中略)
 
個人の問題に焦点を当てることは、 社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。】
 
 野崎さんは、 BPDの人の生きづらさを、
 
 BPD個人の問題より 社会の問題という立場で 主張しているため、
 
 特にこのように強調されるのでしょう。
 
 しかしこれは なかなか難しい命題だと思います。
 
 例えば、 身体障害者の場合なら、 周囲の人々の理解や協力があり、
 
 バリアフリーのインフラがあり、 制度も整っている社会であれば、
 
 身体障害者の人は 健康な人と比べて 日常に多少の不便はあるとしても、
 
 生きづらさを感じることはないでしょう。
 
 そのような社会は 誰もが反対しないだろうと言えますが、
 
 心の障害の場合、 それほど簡単にはいかないように思えます。
 
 人の資質にはあらゆるものがあり、 ひとつの性質が 長所にも短所にもなり、
 
 生きやすさにも生きにくさにもなり得ますから、
 
 何を基準にして 社会を変えればよいかというのは、
 
 容易に言えないのではないでしょうか。
 
 これに関しては、 どのような社会が望ましいか、 求めていくべきかということは、
 
 個々人の価値観によって 異なってくるだろうと思われます。
 
(次の記事に続く)
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (14)

2015年03月06日 21時43分44秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 「伝統的な価値観」 が、  「伝統的」 であるだけで 正しいとは限らない。
 
 むしろ 伝統的価値観に基づいた  「父親や母親の役割」 は、
 
 社会において 女性を不当に抑圧してきたことは、
 
 フェミニズムが指摘してきたとおりである。】
 
 拙著では、 本論ではないため 言葉が足りなかったようですが、
 
 僕は 林道義先生の 「父性の復権」 (中公新書) に 基づいて述べています。
 
 (林先生は 河合隼雄さんに先んじ、 正統なユングを 日本に紹介した方で、
 
 僕も林先生の下で ユングを勉強しました。)
 
 林先生は フェミニズムに異議を唱え、  「父性の復権」〔*注〕 で
 
 父性 (父親「的」役割) の重要性の 再構築を主張されました。
 
 〔*注: 「父権の復活」 ではないことが重要です。〕
 
 父性, 母性は 父親にも母親にもありますが、
 
 基本的には 父性は父親, 母性は母親が 主に担うことが望ましいと、
 
 林先生は述べています。
 
 もちろん 家族が多様化した現代では 様々な形があるでしょうし、
 
 母親役割を女性に押しつけて 女性を抑圧してはならないのは、
 
 言うまでもないことです。
 
 伝統的な父性, 母性そのものは、 時代が変わっても必要で、
 
 子供の健全な発育に 大切な役割を果たします。
 
 しかし現代は 父性, 母性の存在自体が揺らいできて、
 
 まだ枠組みができていない子供は 何をモデルしてよいか分からず、
 
 価値観を築いていくのに 影響があるだろうということを述べています。
 
 拙著では、  「父親や母親の役割」 という 言葉を使ってしまいましたが、
 
  「父性や母性」 という 言い方をすればよかったと思います。
 
 舌足らずだったために、
 
 僕が 伝統的なものを安易に肯定していると 野崎さんは受け取り、
 
  「稲本の叙述は不可解である」 と 述べたのでしょう。
 
 拙著の執筆に当たっては、 推敲の上にも推敲を重ねましたが、
 
 未だ不充分だった点を指摘され、 ありがたくも遺憾な思いがします。
 
 
 さて、 ここでいう伝統的価値観とは、
 
  「正義」 でも 「優しさ」 でも 「誠実」 でも、
 
 望ましいものなら何でもよく、
 
 子供が人格形成をする過程で まず規範とすべきものです。
 
 自分の核ができてから (未熟でも)、 その伝統的価値観を 自分自身で見直し、
 
 本当に正しいのか批判したり、 変化, 展開させていけばよいものです。
 
 ある程度成長すれば、 世の中の不正にも 目が向いていくでしょう。
 
 ところが現代のように、 あらゆる価値観が相対化してしまうと、
 
 子供は 人格の核を育てる際の 柱を見失い、
 
 BPDの発症に関わるのではないか という趣旨です。
 
【BPD患者は、 そのような世の中の不正には 敏感なのである。】
 
 という野崎さんの趣旨とは、 論点を異にしていると思います。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (13)

2015年03月05日 21時12分29秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【BPD患者は、  「世の常識に染まることがない」 ゆえに
 
 〈生きづらさ〉 を感じる
 
(中略)
 
だとすれば、 次のような稲本の叙述は不可解である。

《ボーダーの人は、 本来発達するべき人格が できなかったと言える。
 
(中略)
 
子供に適切な愛情を 与えられない親が増加し、
 
子供の健全なメンタリティの発育が 妨げられることと 関係しているかもしれない。
 
現代は 父親や母親の役割をはじめ、 世の中の伝統的な 価値観の枠が揺らぎ、
 
確固として人格の形成が しにくくなっている。
 
境界性パーソナリティ障害は、 ボーダーレス時代の 象徴的な心の障害だと思う。
 
(中略)
 
ボーダーの人は 人格の 「核」 ができていないので、
 
苦しみや悲しみに向かい合う力が きわめて弱いと考えられる。
 
葛藤を冷静に見つめたり、 自省する自我ができていない。
 
心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。》
 
(中略)
 
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
 
「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった 個人の問題に
 
還元させてしまい、  「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
 
また、 「伝統的な価値観」 が、  「伝統的」 であるだけで 正しいとは限らない。
 
むしろ伝統的価値観に基づいた  「父親や母親の役割」 は、
 
社会において 女性を不当に抑圧してきたことは、
 
フェミニズムが指摘してきたとおりである。
 
BPD患者は、 そのような世の中の不正には 敏感なのである。
 
(中略)
 
個人の問題に焦点を当てることは、
 
社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。
 
また、 言動の否定と生存の否定とを 結びつけてしまうのは、
 
BPD患者の責任でもなんでもない。
 
私たちの社会が、 正しいやり方で議論をし、
 
何ごとかを決定する段を ふまえないからこそ、
 
こうしたことが BPD患者の 〈生きづらさ〉 となって 現れてしまうのではないか。
 
つまり、  「主張の否定が人格の否定ではない」  ということを、
 
社会に根づかせる必要が あるということである。】
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (12)

2015年03月03日 19時54分10秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【 [21] 矛盾するようだが、
 
 BPD患者は時として  「妥協を許さない」 態度とはまったく正反対の
 
  「諦念する」 という態度をとる。
 
 しかし これも考えてみれば、 みずからが傷つかないように
 
  「0か1か」 の思考パターンが 身についてしまった
 
 BPD患者の特徴なのかもしれない。】
 
 心子にもこういうことがありました。
 
 僕と再会し、
 
 会社の苛めを 労災として認めさせたいと、 労働運動をしていたときのことです。
 
 《心子は、 職場の卑劣ないじめを 許したくないと言い、
 
 他のいじめに 苦しむ人たちのためにも、
 
 自分が精神的苦痛の労災認定の 前例になりたいと悲願を訴えた。
 
 例え 自分がちっぽけなアリであっても、
 
 世の中の理不尽という 巨象に立ち向かうことを はばからないのだ。》
 
 《心子はいじめに遭って 不快感で嘔吐し、 心身ぼろぼろになって、
 
 二度と立ちなおれないほど 打ちのめされてしまう。
 
 ガラス細工のような か弱さである。
 
 「一%でも可能性があれば 全力を尽くす!」
 
 そう言って 悲壮な気構えを見せた 翌日には、 
 
 「もうだめ……  何をやっても無駄……」
 
 と泣き崩れた。 
 
 まるでオセロのようである。
 
 ひとつでも黒に変わると、
 
 それまであった白が 瞬時にして 全て真っ黒になってしまう。
 
 百かゼロか、 どちらかしかない。
 
 中間がないのだ。》
 
 《心子はロマンチストで モラルを尊ぶ反面、
 
 世間は薄汚く、 きれいごとが通るわけはないと 見限っていたりした。
 
 そして ペシミスティックなことを言っては 僕を困らせた。
 
 でも純潔なゆえに 追求するものが高く、 そして打ち破られ、
 
 失意が高じて 何もかも捨ててしまいたい心理になるのは、 僕にはうなずけた。》
 
 野崎さんの論文は こう続きます。
 
【 「みずからが傷つかないように」 と述べたが、
 
  「どうしようもなく みずからをメチャクチャにしたい」  という願望も、
 
 おそらくは持っている。
 
 根底にある  「自分など必要とされない、 自分が生きていても価値がない」
 
 という思いが、 そのような願望を 抱かせてしまうのである。】
 
 これに当たる心子もいます。
 
 子供の人格に交替して、 自分の喉を突き刺そうと 繰り返していた時期のことです。
 
 《心子は 自分自身を抱きしめることができないのだ。
 
 人の犠牲になったり、 正義のためなら破滅しても 潔しとする心子だが、
 
 森本先生によれば、
 
 心子には自分をメチャメチャにしたい 無意識の自分があるのだという。
 
 それもやはり トラウマから生起してきたものである。》
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (11)

2015年03月02日 20時10分33秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【他人には 「私はどう生きていけばよいのか」 などという問いは、
 
 端的に言って答えられないものである。
 
 それを、 場面1における心子は問わずにはいられない状況だった。
 
〔*稲本・注: 場面1 → http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/64496357.html 〕
 
(中略)
 
 「このような問いに 私はとらわれているからこそ、 私は生きづらい」
 
 と解釈してもよいのではなかろうか。】
 
 拙著から引用された 「場面1」のエピソードは、
 
 「BPDの人と接するときは 巻き込まれないようにする」 という
 
 例として記したものでした。
 
 野崎さんは、 このエピソードに出てくる 心子の僕への詰問を取り上げ、
 
 BPDの人の生きづらさについて 考察しています。
 
 「どう生きていったらいいの!?  彼氏なら教えて!」
 
 という心子の問い詰めに、 僕は内心動揺し、
 
 そのとき答えなければと しばし焦っていました。
 
 「それも 白か黒かを求めてるってことだよ。
 
 ひとつの答えはないんだよ」
 
 と、 僕はかろうじて 取り澄まし答えました。
 
 でも野崎さんの言うように、
 
 「答えようのない問いに とらわれるほどの生きづらさ」 に
 
 目を向けることができていたら、
 
 もう少し落ち着いて、 心子に違った態度を 示せたかもしれません。
 
 「どう生きていいか分からないくらい 辛いんだね」
 
 というような対応ができたかもしれません。
 
 もちろんそれで 心子が満足するとも思えませんが。
 
 “どちらに転んでも恨まれる” と言われる、 ボーダーの人との袋小路ですが、
 
 僕自身が落ち着いているための 術にはなったのではないかと思います。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (10)

2015年03月01日 20時44分04秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 野崎さんの論文は以上です。
 
 BPDの人の生きづらさの原因を、 本人より社会に求める姿勢は、
 
 BPDの人に望みを 与えるものではないでしょうか。
 
 それは 僕も当初から述べている、
 
 社会に BPDの理解が広まることで、 本人や周りの人の 辛さが減っていく、
 
 という考えと 重なるものがあると思います。
 
 そもそも DSMのパーソナリティ障害の定義は、
 
 その人が属する文化から 期待されるものから著しく偏った 内面や行動、
 
 というものです。
 
 従って、 文化のほうが変われば、
 
 その人は パーソナリティ障害ではなくなるかもしれません。
 
 周囲が期待するものが変われば、
 
 パーソナリティ障害の行動や内面は 偏ったものではなくなり、
 
 本人も周囲の人も 生きやすくなっていくのではないでしょうか。
 
 そういう意味でも、 BPDへの正しい理解をし、
 
 適切な接し方が できるようになっていければといます。
 
 それは非常に難しく 長い年月もかかるわけですが、 それを求めていきたいものです。
 
 
 さて、 その他にも 野崎さんの論文に、
 
 順次 少しずつコメントを 書かせてもらいたいと思います。
 
【BPD患者の恋人である者 (中略) の 手記を使う利点としては、
 
 家族ほどには 利害関係が多くはないことが挙げられる。
 
(中略)
 
 親のほうも  「正しい理解を示すこと」 より
 
  「毎日の現実をまわすこと」 に追われ、 よき伴走者になれない場合が多い。】
 
 これはその通りだと思います。
 
 特に心子は、 普段はとてもチャーミングで、 楽しく気持ちよく過ごせました。
 
 (BPDは 人によって非常に異なり、
 
 常に脅威だけの存在になってしまう BPDの人も多いのですが。)
 
 心子と どんなに苛酷なことがあっても、 相殺して余りある魅力があり、
 
 それだから一緒にいられたのです。
 
 でも親には 恋人のような蜜月がなく (ある場合もあると思いますが)、
 
 同居していれば四六時中一緒で、
 
 息を抜くときもなくて 本当に大変なのではないかと思います。
 
【自分を持て余してしまう BPD患者当人とは違った目で、
 
 ときに外側から、 また ときに内側に迫って書くことが、
 
 恋人にはできるのではないだろうか。】
 
 という記述は、 ありがたいものでした。
 
〔引用:「境界性パーソナリティ障害の障害学」
 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕

(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (9)

2015年02月26日 20時36分12秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【さらに考察を進める。
 
BPD患者が  「答えのない問いを生きる」 とき、
 
最終的には みずからの犠牲によって  「解決」 しようとすることが多い。
 
多くの場合は、 周りの人たちを巻き込んでしまう。
 
心子は 最終的に究極的な自己犠牲、 つまり自殺によって この世を去った。
 
なぜ、 BPDを患った者が、
 
このように 生きることそれじたいに 苦しまなければならないのか。】

【BPD患者の織り成す世界の ひとつの魅力とは、
 
純粋なるものへの 激しいまでの渇望である。
 
ただし、 その世界においては、 現実と折り合いがつくことはない。
 
折り合いがつかないからこそ  〈生きづらさ〉 を感じるのだが、
 
そのとき、 現実のほうが間違っている 可能性もあるわけである。
 
言い換えれば、 この種の 〈生きづらさ〉 に関しては、
 
個人を病理化して治療しても、 「病巣」 は社会的不正義なのであるから、
 
〈生きづらさ〉 が解消することはないということである。】

【字義通り、 「答えのない問い」 に 答えることはできない。
 
ならばどうすればよいのか。
 
「答えのない問い」 を 可能な限り 社会からなくしていくことである。
 
すなわち、  「答えのない問い」 に はまり込む手前で、
 
そのような問いを 問う必要のない社会を 作っていくことである。
 
「現実は グレーゾーンであり、
 
白や黒など はっきりと決着のつけられないものである」 と よく言われる。
 
それは一理あるかもしれない。
 
しかしながら、
 
決着をつけるべき問いに 決着をつけようとしていないだけのこともあるだろう。
 
そのような状況を、 BPD患者は 出し抜かずにはいられないのである、
 
みずからの 〈生きづらさ〉 と引き換えに。
 
純粋さが、  「自己犠牲」 へと変わってしまうのである。

BPD患者の 「治療」 を考えるならば、
 
薬物療法と精神療法だけでは うまくいかない。
 
なぜならば、 それらは両方とも、 患者個体に働きかけることによって
 
社会との折り合いをつけることを 目指すものだからである。
 
むしろ、 BPD患者を取り巻く人たちや、 社会が変わらない限り、
 
真にBPD患者の 〈生きづらさ〉 は 焦点化されないと言ってよい。
 
社会的不正義を問題にし、 それを変えていくことこそ、
 
BPD患者の 「治療」 に つながっていくのではないだろうか。
 
BPD患者が社会と折り合いがつけられない、 ではなく、
 
社会のほうが BPD患者と折り合いをつけない、 と見たとき、
 
事態はこのように描くことができるだろう。】

〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (8)

2015年02月25日 19時42分11秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 野崎さんの論文で、 「境界に生きた心子」 が 引用された部分は以上です。
 
 「障害学」 という分野で 学術的に取り上げてもらい、 とても嬉しく思います。
 
 BPD体験談のノンフィクションは 少ないとはいえ、
 
 最近も2、 3の本が 出てきたようです。
 
 それらの中で 拙著が選ばれたのは光栄です。
 
 野崎さんの論文は、 続く第3章で、 BPDの人の生きづらさを、
 
 BPD本人より むしろ社会のあり方に求める 独自の論を進めていきます。
 
 興味深いことなので、 それも抜粋させていただきます。
 
【第3章 境界性パーソナリティ障害の障害学に向けて

私たちは 好む好まざるにかかわらず、
 
生きているかぎりは 社会と相対さざるを得ない。
 
先に見てきたように、 BPD患者は
 
「社会のなかで生きることそのもの」 に  〈生きづらさ〉 を感じているが、
 
その場合でも容赦なく、 生きているかぎりは 社会と相対さざるを得ない。
 
生きているかぎりは、
 
完全に個体だけが 問題として浮上してくることなど、 ほぼあり得ない。
 
BPD患者の 〈生きづらさ〉 は、
 
貴戸理恵の言う  「関係的な生きづらさ」 に 近いものではなかろうか。
 
 「それは 個人の特殊な 状態や性質というよりも、
 
 人が他者や集団につながるときに ある局面で 不可避に立ち現れてくる
 
 関係性の失調のようなもの、 ではないでしょうか」。】
 
【第二章で取り上げた 心子の 「病状」 も、
 
心子のメンタルな 個体の失調というより、 心子と稲本、
 
あるいは 心子と周りの人たちとのあいだの 関係性の失調と考えた方がよい。
 
なぜなら、 ひとは 個体で完結して生きていくわけではなく、
 
かならず他者との相互作用によって 生きていかざるを得ないからである。
 
こうして、 BPD患者が 失調を起こすと考えるのではなく、
 
むしろ この社会によって規定された 関係性によって
 
〈生きづらさ〉 を生起させられる、 という発想にたどりつくのである。
 
さらに掘り下げていけば、
 
こうした社会こそが 「正常」 であり、
 
病気や疾患を持つ個人、 個体が 「異常」 であるという考え方を
 
疑問に付すことができる。
 
個人が 「異常」 だから  〈生きづらさ〉 を感じるのではなく、
 
〈生きづらさ〉 を誘引するような 社会的規範が存在するのだと
 
考えることができるのである。】
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 
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