「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「死刑は世論が支持」 本当か

2016年04月05日 20時57分22秒 | 死刑制度と癒し
 
 先日の朝日新聞に出ていた記事を 要約して紹介します。
 
 死刑制度は 世論の8割が 支持していると言われていますが、
 
 それは “神話” だとする論考です。
 
 政府の1年前の世論調査では、
 
 「死刑は廃止すべき」 「死刑も止むを得ない」 の2択で、
 
 前者が1割, 後者が8割でした。
 
 政府はこれを 死刑継続の主な理由としています。
 
 しかし英国大学講師の調査で、 5択の質問で試みると、 結果は下記でした。
 
 「絶対あった方が良い」 27%
 
 「どちらかといえばあった方が良い」 46%
 
 「どちらともいえない」 20%
 
 「どちらかといえば廃止すべきだ」 6%
 
 「絶対に廃止すべきだ」 2%
 
 熱心な存置派は 27%に留まっており、
 
 世論は必ずしも 死刑を強く支持しているわけではない ということです。
 
 また、 政府主導で死刑を廃止した場合の 質問もしています。
 
 「政府が決めたことなら、 不満だが仕方ない」 は、 存置派のうち71%でした。
 
 死刑廃止を誰が決めるべきか については、 世論, 国家とも4割ずつでした。
 
 日本には 死刑廃止を受け入れる余地がある ということです。
 
 欧州では 世論が存置派が多いなか、 政府主導で廃止するパターンが 典型でした。
 
 その背景は、 「存置派は多いが 強くはない」 という現実でした。
 

裁判員の負担軽減を目指す …… 重い選択 (2)

2010年12月16日 19時35分36秒 | 死刑制度と癒し
 
 被害者の首を生きたまま 電動ノコギリで切断した 池田被告に対し、

 裁判員制度で初の 死刑判決が出ました。

 残虐さが突出しており、 死刑が出やすいケースでしたが、

 それは裁判員の重圧を 軽くすることにはなりませんでした。

 法廷の最後に裁判所は、  「控訴してください」 と付け加えたのです。

 このことは、 どんなに残虐な罪を犯しても、

 目の前の被告に 死刑を宣告する精神的負担が、 いかに大きいかを示しています。

 それは 職業裁判官でも同じで、 ある裁判官は こう言っています。

 「死刑の結論を述べるとき、 のどがつっかかる感じがした。

 その瞬間の被告の表情は えも言われぬものがあり、 一生忘れられないだろう」

 「法と証拠に基づけば、 これが最善の結論だったと 思うしかない。

 そのためには 一人で結論を出したのではないと 実感できるよう、

 充実した評議を する必要がある」

 市民の間では、  「裁判員経験者ネットワーク」 が作られています。

 経験者同士が 率直に語り合うことで、 負担が軽減されるといいます。

 裁判員には もうひとつの負担があります。

 高齢夫婦強盗殺害事件では、 裁判期間は最長の40日間。

 連日、 審理時間が予定オーバーし、

 裁判員の疲労がたまって、 公判内容を振り返る 余裕もなかったそうです。

 休廷日を入れるなど、 時間を取って 審理することが求められます。

 死刑判決は、 被告の生命を絶つという 究極の権力行使です。

 その過程の一部を 国民がチェックする意味では、 裁判員制度は意義があるでしょう。

 しかし現状では、 負担の方が 余りに大きすぎます。

 守秘義務を軽くし、 裁判員経験者が 意見を交流できる 場が必要です。

〔 読売新聞より 〕
 

死刑 人間像で決める …… 重い選択 (1)

2010年12月15日 21時28分56秒 | 死刑制度と癒し
 
 死刑が求刑された 裁判員裁判で、 裁判員の重い選択と 審理についての記事が、

 読売新聞に掲載されています。

 その記事から 書いてみたいと思います。

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 ある裁判員経験者は、

 「被告が少年だということは 重視しなかった」 と 述べています。

 石巻で 少年が 元交際相手の姉ら3人を 殺傷した事件です。

 同じ日、 宮崎では、 

 義母と妻、 5才の長男の3人を 殺害した被告に 死刑が求刑されました。

 評議で 裁判員に示された、 過去の同種事件の量刑資料は、

 死刑を回避した事例でした。

 家族間の殺人事件は、 複雑な人間関係が絡むなど、

 被告に同情すべき事情が 多いからです。

 しかし この判決も死刑でした。

 裁判員は、 少年事件や家族間の事件といった パターンより、

 被告の人間像に着目し、 死刑の是非を 判断しているようです。

 裁判官は少年に対しては 更生の余地を考慮しますが、

 裁判員は 「少年のときから こんな犯罪に走るのでは、 人間性の欠如が一層深く、

 我々とは異なる存在だ」 と 見なした可能性があるといいます。

 宮崎の裁判でも、 「守るべき妻子を殺すとは、 著しく人道に反する」 と考えて、

 量刑が重くなったことがあり得ます。

 一方、 耳かきサービス店の女性従業員らが 殺害された事件では、

 「動機は極刑に値するほど 悪質ではない」 として、 無期懲役を言い渡しています。

 被告が被害者に抱いた 恋愛感情は、

 同じ人間として 理解できなくもないと感じたのかもしれません。

 裁判員には 過去の量刑基準は通用しないようです。

 今後、 死刑の基準は 一般的な日本人の価値観に 近づくでしょう。

 見方によって 結論にばらつきが出ることもあるでしょうが、

 それは裁判員制度の現実と 受け止めるべきだといいます。

〔 読売新聞より 〕
 

死刑を下す重責

2010年12月13日 21時55分10秒 | 死刑制度と癒し
 
 鹿児島夫婦強盗殺人事件に 無罪判決を出した 裁判員経験者の何人かは、

 「被害者遺族には申し訳ない」 と 述べています。

 冤罪を作らないようにしたのであって、 申し訳ないと感じる 必要はないわけですが、

 裁判員経験者は 被害者遺族に対しても 罪悪感を感じてしまっています。

 ある心理学の調査では、 殺人事件の被害者遺族の陳述を 聞いた場合、

 有罪と答えた割合は 71%でしたが、 聞かなかった場合は 46%だったそうです。

 被害者の声によって 大きな影響を受けていることが 分かります。

 一方、 先の石巻3人殺傷事件 (被告が少年) の 裁判員経験者は、

 死刑判決を下したことを 被告から一生怨まれても 仕方ないと、

 重い責任を 生涯背負う覚悟をしています。

 裁判員は どのような判決を出しても、

 誰かから責められる 重荷を負わされるわけです。

 その深刻さを、 未経験者は 理解できていないだろうと思います。

 ネット上には 相変わらず軽々しい 死刑合唱の書き込みが見られます。

 またTVでは、 裁判員と被害者の 両方の立場を経験した人が 紹介されていました。

 2年前に 妊娠中の娘が 交通事故に遭い、 母子とも後遺症を負ったという 父親は、

 加害者に死刑を求刑してほしいと 望みました。

 しかし 自分が裁判員になり、 放火で 自宅の一部を失った被害者が、

 加害者に死刑を求めたとき、 「勘弁してください」 と 思ったといいます。

 そして、 憎しみだけで簡単に 人を殺してほしいと 言った自分が、

 恥ずかしくなったというのです。

 自分が裁く側になって 初めて、

 「死刑」 という言葉の 大変な重さを感じたわけです。

 この男性は 裁判員を経験したことによって、 憎しみからは離れたといいます。

 このような経験も、 裁判員制度の 大きな効用と言えるのでしょう。

 厳罰化を要求する 多くの人は、 処罰感情だけで 決めているように思えます。

 けれども 自分が実際に 裁く立場になれば、

 とても簡単に 極刑を下すことなど できないということです。

 繰り返し言っているように、

 被害者の立場では 犯人が死んでほしいと思うのが 自然だとしても、

 裁判は決してそれだけで 判断するものではないのです。

〔 参考文献 : 読売新聞, TBS 「報道特集」 〕
 

証拠認定の重大さ

2010年12月12日 00時21分16秒 | 死刑制度と癒し
 
 鹿児島夫婦強盗殺人事件では、 被害者宅の物色された場所のうち、

 一部からは 被告のDNAや指掌紋が 発見されましたが、

 他の場所からは見つかりませんでした。

 弁護側は、 偽装工作の疑いがあると 訴えています。

 僕は、 共犯がいて、

 被告は 何かかばっている可能性も あるのではないかと思ってしまいました。

 それはさておき、 今回の事件では、

 「被告が犯人でなければ 説明できない事実」 が ありませんでした。

 判決は、  「被告が犯人なら発見されるはずの 痕跡がない」 という、

 消極証拠も取り上げるべきとまで 述べています。

 まして 死刑が求刑されている 裁判であれば、 それも当然だと 僕は思います。

 ところが 今回の判決で、 有罪認定のハードルは 高くなったと言われます。

 ある検察幹部も、 状況証拠を積み重ねで 立証する事件では、

 これまで以上に 丁寧な立証が必要だと 述べています。

 ということは、 従来は 上記の当然の判断材料も

 充分に踏まえられていなかった ということでしょうか。

 だとすれば、 幾つもの死刑冤罪事件が 生まれたように、

 職業裁判官の裁判は 恐ろしいものですし、

 裁判員の 良識的な感覚による 判断が活かされるのは、 とても願わしいことです。

 一方、 争点を絞った迅速化を 危ぶむ声もあります。

 裁判員裁判では 公判前手続きによって、 提出される証拠も限定されますが、

 従来の精緻主義の裁判では、 重箱の隅をつつくような 裁判が行なわれていました。

 それが 裁判を長引かせる 原因になっていた反面、

 その重箱の隅をつつくことから、 初めて見えてくる 真実というのもあります。

 僕も、 裁判員制度が始まる前に 書いたことがありますが、

 精緻主義に与するものではあります。

 精密な事実認定と、 市民による迅速な裁判、 その狭間で揺れるものがありますが、

 両者のバランスを 保っていくべきなのかと思います。

〔 参考文献 : 読売新聞, TBS 「報道特集」 〕
 

裁判員裁判ならではの無罪判決? 

2010年12月11日 11時26分23秒 | 死刑制度と癒し
 
 鹿児島夫婦強殺事件に 死刑が求刑された裁判員裁判で、 無罪判決が出されました。

 有罪に対し わずかでも合理的な疑いがあれば、 有罪にはしないという思いは、

 職業裁判官よりも 裁判員のほうが強いという、 専門家たちの意見があります。

 裁判員は一回限りの裁判で 後悔しないよう、

 裁判官より純粋に 証拠を判断するという、 裁判員経験者の意見も。

 確かに 過去の冤罪事件を見ると、

 明らかに 有罪に合理的な疑いが 幾つもあるのに、

 一体どうして 死刑判決を下せるのかと 思わざるを得ません。

 被告が嘘をついていると、

 裁判官は 有罪の方向へ向かってしまうと言う 専門家もいました。

 「疑わしきは被告人の利益に」 とする 裁判官も大勢いると思いますが、

 全裁判のデータは 僕は持ち合わせていません。

 でも裁判員裁判によって、 従来より冤罪を 減らすことができるとするなら、

 裁判員制度の ひとつの目的が達成される 大きな意義があります。

 今回の事件では、 現場の窓ガラスからは 被告の指紋やDNAが発見されましたが、

 凶器のスコップからは 指紋などは検出されませんでした。

 被告は 現場に一度も行ったことはない と主張し、 それは嘘と認定されましたが、

 それをもって 被告が犯人とは言えない とした判決は、 妥当なものだと思います。

 ただ、 今回の裁判員は 被告に質問をしなかったそうですが、

 何故 被告が嘘をついたのか、 また、

 凶器の指紋を拭き取った 痕跡はなかったのか、 報道だけでは疑問が残ります。

(読売新聞は、 「スコップから被告の痕跡が 全く検出されなかった」

 という表現ですが、 これは拭き取った痕跡もない ということなのでしょうか。)

 このような不備を もっと解消していくよう、 情報公開を含め、

 今後の裁判員裁判は 研鑽されていってほしいと望まれます。
 

更生の可能性、 少年法の理念

2010年11月27日 23時35分15秒 | 死刑制度と癒し
 
 石巻事件の裁判の論点は、 被告の更生の可能性でした。

 特に少年法では、 刑罰よりも教育が重要視されます。

 今回の判決文では、 「更生の可能性は 著しく低い」 とされましたが、

 それは更生の可能性が  「0」 ではないということでしょう。

 わずかでも 改悛の情が認められれば、

 矯正を図るべきというのが、 少年法の理念です。

 そして、 「疑わしきは被告人の利益に」。

 それが裁判の大原則です。

 被告の少年は、 涙を流して謝罪をしたといい、 判決を受け入れたいと述べています。

 それは確かに 改悟の念が芽生えている 現れではないでしょうか。

 更生の芽を 摘み取ってしまう死刑は、 正に 取り返しのつかない刑罰です。

 もし被告が 更生できると言えないとしても、 できないとも言えないのです。

 更生は不可能と 断定できない以上、

 被告の利益のため 極刑は回避するのが 原則だと思います。
 

 今回、 大変な重責を果たした 裁判員の人たちには、

 僕は心から 敬意を表しますし、

 被告の態度をその目で見た 裁判員の心証は尊重するべきです。

 けれども、 裁判員に 少年法の理念を 正しく理解してもらうための情報が、

 充分提供されていなかった恐れを 指摘する専門家たちもいます。

 児童心理学の専門家の証人申請が 認められなかったことも、 問題だといわれます。

 被告が少年である場合、

 職業裁判官では9割が 刑を軽くするほうに傾くと 答えています。

 ところが 一般の国民は、 50%が 「重くも軽くもしない」、

 25%が 「重くする」 と言い、  「軽くする」 は4分の1に過ぎませんでした。

 これは僕には 遺憾なことに思えます。

 特に 少年の方が重くするというのは、 どうにも理解に苦しみます。

 少年は大人に比べて、 明らかに変わるものではないでしょうか。

 改心や更生には 長い時間がかかり、 それを短時間の法廷で 見極めるのは困難です。

 迅速化が求められる裁判員裁判では、

 少年事件は対象外にすべきだ という意見もあります。

 或いはそれらも 考えていかなければならないのかもしれません。

〔 参考文献 : 読売新聞 〕
 

苦しみ悩み抜いた 裁判員

2010年11月26日 21時43分04秒 | 死刑制度と癒し
 
 石巻3人殺傷事件の 裁判員の人たちは、

 本当に、 深く、 真剣に、 苦悩しぬいたのでしょう。

 記者会見での重い言葉には、

 死刑に反対する者でも、 神妙に 耳を傾けざるを得ません。

(きのうの日記に書いた考えが 基本的に変わるわけではありませんが、

 さらに真摯に 向き合わなければと感じます。

 また昨日は 時間がないなかで書いたため、

 被告の情状に関する情報を 充分得ていませんでした。)

 このような裁判員経験者の 生身の言葉を前にしたとき、

 誰しもが 同じ立場になる可能性を 我が身のものとして捉え、

 裁判や死刑について 真面目に考えるのではないでしょうか。

 それが裁判員制度の 大きな目的のひとつですが、

 顔を出して会見に臨んだ 裁判員経験者の勇気には、 ただ敬服するばかりです。

 この裁判員経験者は、 被告が判決の主文を 聞いたときの表情を見て、

 こう思ったと語りました。

 「正直 …… (長い沈黙) …… 何とかできなかったのかなと ……」

 それでも、 苦しい 心の痛みにも拘らず、 死刑を選択せざるを得なかった。

 僕は、 死刑は最後の最後まで 回避すべきと考えていますが、

 このような 裁判員経験者の声を聞けば、

 それだけ必死に 考え抜いた末に 極刑を選択したのだという 結論を尊重し、

 そういう立場の人の価値判断を 理解しようとしないわけにはいきません。

(それなのに ミクシィの他の人の日記を 見てみると、

 こんなにも懸命な 裁判員経験者を茶化したり、

 軽薄に死刑を訴える輩が まま見られるのは嘆かわしいことです。

 彼らは 実際に自分が 裁判員の席に座ったとき、

 同じ態度でいられるのでしょうか? 

 もっとも そういう手合いは、 仮に裁判員候補に選ばれたとしても、

 事前の面接で はねられるでしょうが。)

 また、 死刑制度廃止を標榜することと、

 死刑が存在する 現在の法律のなかで 遵法精神に則って 判決を出すことは、

 別の問題です。

 そこにも 苦渋の選択を迫られる 辛労があるでしょう。
 

少年に死刑は不適

2010年11月26日 07時46分22秒 | 死刑制度と癒し

 ついに裁判員裁判で、 少年に対して 死刑判決が出てしまいました。

 現場で悩み抜いて 結論を出した裁判員の決定は 尊重しなくてはなりませんが、

 死刑回避の立場の 僕としては残念です。

 少年というものは とにかく未熟であり、

 今後の矯正教育次第で どう変化するか分かりません。

 更生の可能性がないというのは、 どのような場合でも 断じるのは困難だと思います。

(それだけに 矯正教育のプログラムが重要です。)

 被告の少年は、 涙声で 「一生償いたい」 と謝罪しています。

「犯行当時は 相手の気持ちを考えず、 自分勝手な気持ちで 二人の命を奪ってしまい、

 申し訳ないと思っています」 と 声を絞り出したといいます。

 光市母子殺害事件との比較がありますが、

 光市の被告は 犯行後の行状が 甚だ悪かったところがあります。

 それに比すれば今回は、 保護観察中に起こした 事件だったとはいえ、

 更生の可能性は 充分あるのではないかと思えます。

 その希望を 国家が抹殺してしまうのは、 余りにも無惨ではないでしょうか。

 被告の母親も すすり泣きながら、

「今後、 何があっても 息子を見捨てません」 と言っています。

 光市の事件では、 この親にしてこの子あり という父親でしたが、

 更生を支える 環境があるかどうかも 大事なことかと思います。

 被害者遺族が 極刑を望む気持ちになるのは、

 例え死刑制度反対論者が そう思ったとしても、 止むを得ないことでしょう。

 ただ量刑は それだけで決めるものではなく、

 その他の 幾つもの要件を熟慮して 選択するものです。

 死刑をためらう条件が ひとつでもあれば、 僕は選択すべきではないと思うのです。
 

死刑判決の今後への影響

2010年11月19日 20時19分46秒 | 死刑制度と癒し
 
(前の記事からの続き)

 今回の裁判員裁判の死刑判決は、 今後の裁判に どのような影響を与えるでしょう?

 裁判員が 重い負担を覚悟してまで 死刑を選択したことで、

 死刑への国民の支持が 強くなるのではないかという、 法務省幹部もいます。

 一方、 裁判員が 法廷での被告の態度をくみ取り、

 裁判官に比べて 死刑を回避する可能性があるという、 元高裁判事の意見もあります。

 僕は この見方のほうに与します。

 プロが業務として 判決を出すのではなく、

 人間の素朴な 感情を感じ取って 反映させるのは重要なことです。

 裁判に関わる文献や 体験者の話を見聞きすると、

 人として考えられないくらい 無責任でいい加減な 裁判官の数々は、

 本当に 司法を信頼できなくなるほどです。

(死刑判決は そんなに杜撰ではないでしょうが。)

 それに比して、 裁判員の人たちの 真剣な姿勢と 冷静な判断には、

 予想を上回って 感服するばかりです。

 被告の内面の変化に 触れるなど、 裁判員が悩む姿が 伝わることで、

 国民も 自分の立場に引き寄せて、

 裁判や死刑について 深く考えるようになるでしょう。

 司法に国民が参加するという、 裁判員制度の第一の意義です。
 

 これまでの 年間の死刑判決数は、 80~90年代に 約20人未満でした。

 2003年以降、 被害者感情を重視する 世論など背景に、

 30~40人台に増え、 厳罰化傾向が見られました。

 世論の影響は間接的であり、 実際に国民自身が 直接死刑判決に関わると、

 やはり自ら 判断を下すことに 抵抗を感じるのではないでしょうか。

 表面的な感情や観念だけではなく、 自らの問題として 捉えて考えることが大切です。

 死刑の刑場が公表されたり、 法務省で 死刑存廃の勉強会ができたり、

 少しずつ 前に進んできていると思います。

 今後さらに 情報が発信され、 多くの人が詳しく知り、

 真摯に考えていきたいものです。

〔 参考文献 : 読売新聞 〕
 

裁判員の精神的負担の軽減

2010年11月18日 08時57分37秒 | 死刑制度と癒し
 
(前の記事からの続き)

 「控訴することを勧める」 という、 裁判長の言葉が 話題になりました。

 これまでの裁判官裁判でも 例のないことではないそうですし、

 死刑判決の場合は 原則として控訴するのが通例です。

 自分で出した判決に 責任を持つべきだと 批判的な向きもありますが、

 今回の裁判員裁判では、 裁判員の心理的な重荷を 軽くする考慮もあるでしょう。

 プロの裁判官でも 死刑判決を選択したときは、

 別の裁判官に チェックしてほしいと思うそうです。

 恐らく今回の評議は 全員一致ではなく、

 死刑に反対した裁判員も いたのではないでしょうか。

 死刑を望まなかったのに 死刑判決に関わることになった人の、

 精神的ストレスは大変なものだといいます。

 そういう意味でも、 また 審議に慎重を期す意味でも、

 死刑判決を選択する際には、 必ず全員一致にしなければならないと 僕は思います。

 そして、 将来的には 死刑制度廃止の方向へ 行ってほしいと思っている次第です。
 

 なお、 裁判員のアフターケアとして、

 「裁判員経験者ネットワーク」 というものがあるそうです。

 裁判員経験者や 弁護士, 臨床心理士などが呼びかけ、

 経験者の体験談や悩みなどを 打ち明ける場です。

 裁判員経験者の一番のストレスは、 守秘義務だそうです。

 どこまで言っていいのか分からず、 誰にも言えないで辛いときに、

 経験者同士で共有することで ストレスが軽減されるといいます。

 現在約20人が 登録しているそうですが、 まだあまり知られていません。

 このような組織が 拡充していくことを期待します。

〔 参考 : フジテレビ 「とくダネ!」 他 〕

(次の記事に続く)
 

池田被告の心情の変化

2010年11月17日 10時46分43秒 | 死刑制度と癒し
 
(前の記事からの続き)

 「ナイフで殺してから 首を切ってほしい」

 被害者の究極の訴えをも退け、

 電動ノコギリで 生きたまま首を切った 池田被告。

 想像しうる最も残忍な 悪行を犯した男は、

 判決公判では その凶悪なイメージと かなりギャップがあったそうです。

 逮捕時の長髪を丸め、 色白で やや弱い印象の被告は、

 判決文が読まれる40分間、 体ごと 裁判官・ 裁判員のほうを向いて見つめ、

 背筋をこれ以上にないくらい 真っ直ぐに伸ばして、

 微動だにせず真剣に 判決に聞き入っていました。

 池田被告の反省の情が 読み取れる態度だったといいます。

 「被告を死刑に処する」

 主文が朗読されたとき、 池田被告は 裁判官・ 裁判員に 深々と頭を下げて、

 静かにゆっくりと、  「ありがとうございました」 と述べました。

 そして 回れ右をし、 傍聴席の遺族に、

 「どうも、 申し訳ございませんでした」 と謝罪しました。

 傍聴人が予想もしなかった言動で、 法廷は凍りついたといいます。

 裁判員の一人の女性は 涙を浮かべました。

 そのとき裁判長の  「控訴を勧めます」 という 付言がありました。

 重い空気に 包まれていた法廷で、

 傍聴人はその言葉に 救われる思いがしたと言っています。

 池田被告は 開廷当初、

 「悪いことをしたんだから 殺せ」 という 突っ張った態度でした。

 しかし 被害族の悲痛な訴えを聞いて 目を赤くし、

 ここから心情の変化が あったといいます。

 その後  「生きて償えるなら」 と 素直な気持ちを語るようになりました。

 それを聞いた記者は、 心から発した言葉で、

 別世界にいた被告が 現実に引き戻されたように感じた ということです。

 池田被告の弁護士によると、 被告は一日一日、 反省を深めていったといいます。

 被告の気持ちが 刻々と変わる事件で、 裁判の時間が 短すぎたと嘆きました。

 僕も、 被告に 更生の可能性が見られれば、 死刑判決は回避すべきだと思います。

〔 参考 : フジテレビ 「とくダネ!」, 読売新聞 〕

(次の記事に続く)
 

裁判員の心の負担 重く

2010年11月16日 22時47分19秒 | 死刑制度と癒し
 
 裁判員制度初の 死刑判決が出ました。

 一般人が自らの判断で 被告に極刑を下す、 精神的な重圧が危惧されています。

 裁判員制度が始まる前から それは議論され、 初めは 軽微な罪から関わることで、

 国民が裁判に慣れていってもらう という意見もありました。

 けれども、 国民的関心がある 重大事件を扱うことによって、

 死刑も含め 裁判を深く考えてもらう という立場が取られました。

 短期間の評議で 深刻な結論を出さなければならない 重責だけでなく、

 この先、 刑の確定や 執行の際にも、 裁判員の心は 揺れ動くことでしょう。

 残酷な犯罪を犯した 被告の生い立ちや 心の内、 更生の可能性など、

 裁判員には プロの裁判官以上に 情報が必要だという 意見があります。

 裁判中は 審議に夢中になっていますが、 その後 時間が経つと、

 あれで良かったのか考えてしまうという、 裁判員経験者の話もあります。

 死刑判決を出したことのある 裁判官は、

 「更生の可能性は 本当になかったか」 という思いが 時折わき起こったといいます。

 判決の10年後に 刑が執行されたことを知って、 冷静ではいられなかったそうです。

 プロの裁判官による 充分な合議の後でも、

 判決言い渡し後に 心が揺れることがあるということで、

 素人の裁判員なら なおさらのことではないでしょうか。

 他の裁判員経験者と 連絡を取ることもないし、 守秘義務もあるので、

 一人で悩み続けることも あるかもしれません。

 裁判員経験者には 24時間の電話相談窓口があり、 面談も受けられますが、

 裁判所は 相談が来るのを待っているだけでなく、

 積極的にサポートする アプローチも必要でしょう。

 死刑というものは、 判決を下す人にも これだけ重い負担を 課すほどの刑罰です。

 それを 国民全体が感じて、

 死刑制度の是非を 考えていく必要性が 迫られていると思います。

〔 参考文献 : 読売新聞 〕
 

市民が直接 裁判に向き合う意義

2010年11月02日 11時35分45秒 | 死刑制度と癒し
 
(前の記事からの続き)

 テレビを見ていると、 今回の死刑判決回避を批判し、

 被告を死刑にすべきだと 声高に言うコメンテーターなどもいます。

 でも こういう人たちは、 死刑というものをまだ 具体的に、

 実感として考えていないのではないだろうか という気もします。

 今回の裁判員経験者は、

 「殺人事件に死刑があることは 当たり前と思っていたが、

 そんなに簡単に 死刑を科すことができるだろうか」、

 「遺族の思いと向き合ったが、 感情だけでは 死刑という判断はできない」

 と思うようになったといいます。

 市民が直接 裁判に参加する 意義が現れています。

 実際に 公判を傍聴した人の中にも、 元々死刑を肯定していたが、

 法廷での 被告の姿を見ていて 考えが変わったという人がいます。

 被害者遺族でさえ 感情に変化があり、

 被告が 「可哀相だ」 という、 “変な気持ち” になってきてしまったそうです。

 ともあれ、 一般市民である 裁判員の人たちは、

 事件を様々な面から 総合的に、 冷静な判断が できたことを示しているでしょう。

 死刑存廃の論議にも 国民が直に 関心を持つようになり、

 裁判員制度の意義は とても大きいと思います。

 さらに 今後は、 死刑か無期懲役かというだけでなく、

 有罪か無罪かから 決めなければいけないケースも出てきます。

(折しも 今日から公判が始まる、

 鹿児島の高齢夫婦強盗殺人事件が それに当たります。)

 現実に 法廷に身を置いて、 生身の被告や被害者遺族に 接する裁判員たちは、

 本当に 真実や量刑の見極めに 苦しむでしょう。

 死刑判決に加わったという 重荷を生涯背負ったり、

 死刑が執行されたときにも 相当心が揺らぐかもしれません。

 裁判員経験者には、 24時間心のケアに当たる 相談窓口がありますが、

 9月までの利用は 6件だそうです。

 裁判所のほうから積極的に ケアを行なうべき、 という意見もあります。

 また、 経験者は守秘義務があるため 周りに相談することもできないので、

 経験者同士が判決後に 話し合う機会を設けてはどうか、 という提案もありました。
 

やはり死刑回避、 よんどころなし

2010年11月01日 22時49分26秒 | 死刑制度と癒し
 
 初の死刑求刑となった 裁判員裁判の判決が出ました。

 やはりというか、 死刑は回避されました。

 判決理由では、 僕が 先日の記事に書いた、
(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/61248667.html)

 極刑しかないとは言えない 要素が考慮されました。

 裁判員にとって、 死刑の選択は 非常に重圧だったでしょう。

 法廷では 主文の言い渡しがあったとき、 遺族の嗚咽も聞こえたといいますが、

 それは 如何とも止むを得ないことです。

 遺族の感情は 判断基準のひとつであって、 報復感情だけで判断するのは、

 江戸時代の仇討ちと 変わらないからです。

 被害者遺族が 犯人を殺したいほど 憎むのは当然ですが、

 国家が正義の制度として、 権力によって 被告を殺すこととは 別次元の問題です。

 従って、 死刑犯対論者が、 自分自身が被害者遺族になった時、

 犯人を殺したいと思っても それはそれで構わないのです。

 でもだからこそ、 被害者遺族の心のケアや 社会的な保障を、

 最大限に充実させることが 何よりも重要だと、 僕は初めから訴えています。

 裁判員の 精神的な負担に関しても、

 今後 アフターケアを充分に やっていくべきだと思います。

 アメリカで 死刑判決を下した 陪審員 〔*注〕 の中には、

 PTSD様症状に悩まされる人も 少なくないそうです。

 拘置されている死刑囚に 復讐されるのではないかと、 恐れる人もいるといいます。

 死刑を宣告した 責任に苛まれたり、

 逆に 検察などに責任転嫁する 人もいるということです。

 まだまだ課題が多い 裁判員制度です。

〔*注: 陪審員制度は 有罪か無罪かを決めるだけで、

 量刑までは決めないのが 基本ですが、 州によっては、

 死刑に関してのみ 全員一致を絶対条件として 科する所があります。

(次の日記に続く)