■レジェンドストーリー②は戦前のアウトリガーカヌーの昔話です。
個人的にはとても興味ある分野ですし、
ハワイからアウトリガーカヌーが日本で最初に伝わってきたのが小笠原だそうなので、
ある意味、小笠原のアイデンティティーの象徴がアウトリガーカヌーだと思うのです。
※これは1986年(昭和61年)にヤップ島からタマナで作ったカヌー「ペサウ号」で若者が小笠原に渡ってきた写真。
くらしくはこちら。
丁度、戦前のカノー(カヌーの事)の話を、
忘れないうちに書き留めておきます。
過去のカヌーカテゴリーについてはこちら。
→現在の小笠原はカヌーを漕ぐのが主流です。カヌー大会などが毎年開催されています。
小笠原の先史時代についてはこちら。
→なんと石器時代に小笠原に人が住んでいたのが分かっています。カヌーを掘っていた石器が見つかっているのです。
■これは父島のビジターセンターに展示されている、カノーです。
戦前に使われていたものを復元したものです。
僕はこの前で1日眺めていられる自身があります(笑)。
それくらい、島の暮らしに根差したカノーは美しい♪
戦前はこうした帆で進むカノーが、島では一般的だったそうです。
帆で進むカノーは向かい風でも追い風でも自在に海を駆けていたとのこと。
現在、母島カノー倶楽部ではハワイ語の名前で各部分を呼んでいますが、
今回は沢山の島ならではの呼び方を沢山教わったのでここに記しておきます。
ちなみに小笠原ではカヌーではなく、カノーと発音するのですが、
なんと青ヶ島でも同様の呼び名だそうです(*^_^*)
なんだか嬉しいです♪
・アウトリガーカヌー…カノー(ヴァア Va'a)
・胴体部分…身ガノー(ハル HALU)
・アウトリガー部分…ウデ(ヤク IAKO)
・浮き部分…ウケ(アマ AMA)
・道具類をひっかける部分…カットリ(マタギ、シャリンバイの枝などを使う。)
・船首部分…オモテ カッパ(マヌイフMANU IHU)
・船尾部分…トモ ガッパ(マヌホペMANU HOPE)
・パドル…カイ(前の漕ぎ手は丸いブレード、舵取りは細長いブレード)
・調理台…コバシ叩き(魚を切ったり、刻んだりする場所)
ビジターセンターの展示の図面とは少し名称が違う部分もありますね。
母島ならではの名称なのでしょうか?
とても興味がある部分です。
写真はトモ部分(船尾)になるのですが、このカイ(パドル)2種類が分かりやすいですね。
丸いのがオモテ側、細長いのが舵取り用だそうです。
父島にはカノーの船首部分に、魔よけの様な仮面飾りを付けていたようですが、
母島では特にそんな飾りは見た記憶はないと言っていました。
■カノーの大きさ
主に漁師は10人くらい乗れるサイズを二人で使っていたそうです。
戦前でも年が上の人が帆でカノー漁。
若い漁師はポンポン船の和船が多かったそうです。
双胴船タイプ(ダブルハル)のカノーは母島にはなかったそうですが、
聞いた事はあるそうです。
現在のベルーガ(6人乗り、レース用カノー)くらいのサイズになるでしょうか?
イメージするよりはずっと大きいのです。
父島のボート置き場にはまだ何隻もカノーが置かれていますし、
今も現役でカノーで漁をしている方がいます。
※過去記事で少し書いています。
■漁について
母島のカノーによる漁は、
餌をばらまいて、そこに集まってくる魚を銛で突くスタイルだったそうです。
柄はオガサワラビロウの葉の茎を使い、
銛先に関しては、展示と同じく、片側のみ返しがあるタイプの銛先を使っていたそうです。
片側でないと魚の身を大きく痛めてしまうからだそうです。
銛先も船首方向(オモテ)ではなく、船尾方向(トモ)側に向けていたそうです。
そちらの方が、魚を見つけて手早く突けたそうです。
カノーの胴体に海水を入れて、魚をなるべく生きさせて、鮮度を保っていたようです。
帆でカノーをかけて、船の上から銛を構える様は、創造するだけでゾクゾクしてきます☆
父島の最初に定住した、欧米系の末裔、瀬掘エーブルさんは、生粋のカヌー漁師だったそうです。
僕にとっては畑をして、鼻歌を歌っている、素敵なじーちゃんでした(笑)。
エーブルさんはよく、遠路はるばる母島のサワラ根に寮に来ていたそうです。
彼は晩年、末期がんの体で夢であった父島ー母島間をウインドサーフィンで渡る事を成功させています。
暑い日差しの中、ずっと沖に出るのはしんどいので、
背中はシュロ葉(オガサワラビロウの葉)で日陰を作り、
日傘として、シュロで頭の上に被っていたそうです。
■帆について
帆については、とても重要な部分だと念を押して頂きました。
母島にも帆を裁つ名人がいて、その人にお願いしていたそうです。
素材は綿。
綿が導入される前はタコの葉を使っていたという記録がポリネシアではあるそうです。
帆柱は丈夫で粘りがある杉を使っていたそうです。
島の材では、なかなかいい帆柱は難しいようです。
輪っかで柱に付けて、
時と場合に合わせてめくったり上下できるようになっているそうです。
身ガノ―に座った自分の頭に当たらない高さに調整するのがポイントだそうです。
船尾(トモ)には帆のロープをかける引掛け「シーツかけ」があります。
そこと自分のお尻の下にロープを入れて、加減を調整しつつ、
舵のカイ(パドル)で操船していたそうです。
そうした技術に関して、大人は子供に教える暇なんかなく、
子どもは大人について行って、ひたすら見て、学び、
技術を覚えるしかなかったそうです。
■カノーの材について
ビジターの展示ではハスハギリを材に使うと書いてありますが、
太平洋戦争直前の頃は主に内地のスギを使っていたそうです。
今の漁協ら辺に船工場があり、そこでカノーは作られていたようです。
現在は軽くて丈夫なFRPで作るのが主流ですが、
昔の木のカヌーは木。
とても重くて、どう扱っていたのだろうと思ってしまいます。
特にウケ(浮き部分、アマ)までの曲がったウデ部分(アウトリガー部分、ヤク)は、
とても重要で、ここが折れてしまったら終わりです。
今回お話を伺った方の時代は、
材を内地から取り寄せていたそうですが、
昔は島の斜面に生えて、曲がって伸びている木を使っていたと聞いた事があります。
ビジターセンターに展示されているカノーのウデ部分は、
2つの木を組んで途中で繋いでありますね。
この方法が主流だったようです。
こちらもとても興味がある部分です。
ハワイから伝わってきている小笠原のカノーは、
ウケ部分(浮き)は身ガノ―(船体)に対して左側に付いています。
国によっては両側に受けがあるもの、右側にウケがあるものと分かれていきますが、
小笠原のカノーは全てハワイ式、左側です。
こちらは返還20周年事業(うる覚えです)で作成した島カノー。
新島で5隻。作ってもらったそうです。
現在は父島に2隻、母島に3隻あります。
■危なかったこと
やはり、海でカノーを操っていて、危なかった事は何度もあったそうです。
カノーが沈することを「のもる」と言っていたそうです。
これはひっくり返るのも、浸水して転覆するのも両方のもると言っていたそうです。
ある時、二人で沖に出ていて、急に時化になり、集落に戻って行こうとするとき、
母島の沖港のすぐ外、中岬付近にある「滝の水」(雨の時に滝が出来る評議平の先)で帆柱が折れて、
船体もかなり浸水し、死に物狂いでふたりで漕いで集落に戻ったと言います。
10人乗れる大きなカノーを二人で漕ぐって、相当です。
また、母島の北にある「わんとね」や「南崎瀬戸」はやはり難所だそうです。
すごく神経を使って、通っていたそうです。
でも凄い点は、いざという時はカノーを捨てて泳げば、
絶対に生き残れるという自信があるという部分でした。
島さえ見えれば、どんなに離れていても、流れがあっても、島に戻れる自信があったそうです。
速い流れの中に逆の流れも潜んでいることを知っていました。
僕も依然、若い頃になんと南崎瀬戸で流された経験があります。
その時も海の底を見たら逆方向に流されている魚を見つけたので、
僕も潜ることを繰り返して、ジグザグに戻ってきた覚えがあります。
島のレジェンドに話を聞いていると、本当に驚くことばかりです。
彼曰く、
「足ヒレなんか着けてしまうと疲れて泳げなくなるけど、
裸足ならいつまでも泳ぐ自信があった」
というのです。
毎日、沖村から南崎まで往復4時間歩ける足腰。
現代人とか体の作りが違います。
子供時代には休みに遊ぶなんて感覚すらなかった忙しい日々の暮らしです。
戦後の現代になって、
日本も欧米化が進み、
ものすごいスピードで過去の文化が失われてきています。
ディズニー映画「モアナと伝説の海」のメイキング映像にもあった、
モーレア島の漁師で長老でもある故イヴ“パパ・マペ”テヒホタータが語った言葉が忘れられません。
「今度は西洋が我々の文化に飲み込まれてみては?」
※過去のブログに詳しく書いています。
■自分たちに課せられた、クレアナ(役目)というものを考えさせられる部分です。
きっと、それは先祖が描いていた想い、なのかも知れません。
以前も紹介した、泣くほど感動した32歳のアイヌの女性の物語。
アイヌの歌に関わって生きて来て、これからの自分の生き方に悩んでいた萱野りえさん。
彼女が米国フロリダ州南部に居住する先住民・セミノール族の人々との交流するチャンスが訪れました。
同じ先住民として独自の文化を持つ彼らの姿に、彼女は何を学び、何を見出したのでしょうか。
今、自分がやりたいと思うことは、先祖が思っている気持ちなのかも知れません。
ぜひ、最後まで観てもらえたらと思います。
そんなレジェンドのお話、最後に
戦前は帆で、戦後はエンジンでカノーを操っていたレジェンド。
どちらがいいですか?と聞いたら、
「そりゃあ、エンジンが楽ちんだよ!帆なんて面倒だ(笑)」
凄い環境を生き抜いてきた人の言葉は、とても重く、深く、響いてくるのでした(#^.^#)
ああ、はやくコロナが落ち着いたら、カノーを漕ぎたい!
セーリングに挑戦したい!!!
参考資料として、返還40周年で小笠原で講演してくれた海洋文化学者の後藤明さんの記事もぜひどうぞ!
八丈に伝わったカノーなどが調べられています(*^_^*)
個人的にはとても興味ある分野ですし、
ハワイからアウトリガーカヌーが日本で最初に伝わってきたのが小笠原だそうなので、
ある意味、小笠原のアイデンティティーの象徴がアウトリガーカヌーだと思うのです。
※これは1986年(昭和61年)にヤップ島からタマナで作ったカヌー「ペサウ号」で若者が小笠原に渡ってきた写真。
くらしくはこちら。
丁度、戦前のカノー(カヌーの事)の話を、
忘れないうちに書き留めておきます。
過去のカヌーカテゴリーについてはこちら。
→現在の小笠原はカヌーを漕ぐのが主流です。カヌー大会などが毎年開催されています。
小笠原の先史時代についてはこちら。
→なんと石器時代に小笠原に人が住んでいたのが分かっています。カヌーを掘っていた石器が見つかっているのです。
■これは父島のビジターセンターに展示されている、カノーです。
戦前に使われていたものを復元したものです。
僕はこの前で1日眺めていられる自身があります(笑)。
それくらい、島の暮らしに根差したカノーは美しい♪
戦前はこうした帆で進むカノーが、島では一般的だったそうです。
帆で進むカノーは向かい風でも追い風でも自在に海を駆けていたとのこと。
現在、母島カノー倶楽部ではハワイ語の名前で各部分を呼んでいますが、
今回は沢山の島ならではの呼び方を沢山教わったのでここに記しておきます。
ちなみに小笠原ではカヌーではなく、カノーと発音するのですが、
なんと青ヶ島でも同様の呼び名だそうです(*^_^*)
なんだか嬉しいです♪
・アウトリガーカヌー…カノー(ヴァア Va'a)
・胴体部分…身ガノー(ハル HALU)
・アウトリガー部分…ウデ(ヤク IAKO)
・浮き部分…ウケ(アマ AMA)
・道具類をひっかける部分…カットリ(マタギ、シャリンバイの枝などを使う。)
・船首部分…オモテ カッパ(マヌイフMANU IHU)
・船尾部分…トモ ガッパ(マヌホペMANU HOPE)
・パドル…カイ(前の漕ぎ手は丸いブレード、舵取りは細長いブレード)
・調理台…コバシ叩き(魚を切ったり、刻んだりする場所)
ビジターセンターの展示の図面とは少し名称が違う部分もありますね。
母島ならではの名称なのでしょうか?
とても興味がある部分です。
写真はトモ部分(船尾)になるのですが、このカイ(パドル)2種類が分かりやすいですね。
丸いのがオモテ側、細長いのが舵取り用だそうです。
父島にはカノーの船首部分に、魔よけの様な仮面飾りを付けていたようですが、
母島では特にそんな飾りは見た記憶はないと言っていました。
■カノーの大きさ
主に漁師は10人くらい乗れるサイズを二人で使っていたそうです。
戦前でも年が上の人が帆でカノー漁。
若い漁師はポンポン船の和船が多かったそうです。
双胴船タイプ(ダブルハル)のカノーは母島にはなかったそうですが、
聞いた事はあるそうです。
現在のベルーガ(6人乗り、レース用カノー)くらいのサイズになるでしょうか?
イメージするよりはずっと大きいのです。
父島のボート置き場にはまだ何隻もカノーが置かれていますし、
今も現役でカノーで漁をしている方がいます。
※過去記事で少し書いています。
■漁について
母島のカノーによる漁は、
餌をばらまいて、そこに集まってくる魚を銛で突くスタイルだったそうです。
柄はオガサワラビロウの葉の茎を使い、
銛先に関しては、展示と同じく、片側のみ返しがあるタイプの銛先を使っていたそうです。
片側でないと魚の身を大きく痛めてしまうからだそうです。
銛先も船首方向(オモテ)ではなく、船尾方向(トモ)側に向けていたそうです。
そちらの方が、魚を見つけて手早く突けたそうです。
カノーの胴体に海水を入れて、魚をなるべく生きさせて、鮮度を保っていたようです。
帆でカノーをかけて、船の上から銛を構える様は、創造するだけでゾクゾクしてきます☆
父島の最初に定住した、欧米系の末裔、瀬掘エーブルさんは、生粋のカヌー漁師だったそうです。
僕にとっては畑をして、鼻歌を歌っている、素敵なじーちゃんでした(笑)。
エーブルさんはよく、遠路はるばる母島のサワラ根に寮に来ていたそうです。
彼は晩年、末期がんの体で夢であった父島ー母島間をウインドサーフィンで渡る事を成功させています。
暑い日差しの中、ずっと沖に出るのはしんどいので、
背中はシュロ葉(オガサワラビロウの葉)で日陰を作り、
日傘として、シュロで頭の上に被っていたそうです。
■帆について
帆については、とても重要な部分だと念を押して頂きました。
母島にも帆を裁つ名人がいて、その人にお願いしていたそうです。
素材は綿。
綿が導入される前はタコの葉を使っていたという記録がポリネシアではあるそうです。
帆柱は丈夫で粘りがある杉を使っていたそうです。
島の材では、なかなかいい帆柱は難しいようです。
輪っかで柱に付けて、
時と場合に合わせてめくったり上下できるようになっているそうです。
身ガノ―に座った自分の頭に当たらない高さに調整するのがポイントだそうです。
船尾(トモ)には帆のロープをかける引掛け「シーツかけ」があります。
そこと自分のお尻の下にロープを入れて、加減を調整しつつ、
舵のカイ(パドル)で操船していたそうです。
そうした技術に関して、大人は子供に教える暇なんかなく、
子どもは大人について行って、ひたすら見て、学び、
技術を覚えるしかなかったそうです。
■カノーの材について
ビジターの展示ではハスハギリを材に使うと書いてありますが、
太平洋戦争直前の頃は主に内地のスギを使っていたそうです。
今の漁協ら辺に船工場があり、そこでカノーは作られていたようです。
現在は軽くて丈夫なFRPで作るのが主流ですが、
昔の木のカヌーは木。
とても重くて、どう扱っていたのだろうと思ってしまいます。
特にウケ(浮き部分、アマ)までの曲がったウデ部分(アウトリガー部分、ヤク)は、
とても重要で、ここが折れてしまったら終わりです。
今回お話を伺った方の時代は、
材を内地から取り寄せていたそうですが、
昔は島の斜面に生えて、曲がって伸びている木を使っていたと聞いた事があります。
ビジターセンターに展示されているカノーのウデ部分は、
2つの木を組んで途中で繋いでありますね。
この方法が主流だったようです。
こちらもとても興味がある部分です。
ハワイから伝わってきている小笠原のカノーは、
ウケ部分(浮き)は身ガノ―(船体)に対して左側に付いています。
国によっては両側に受けがあるもの、右側にウケがあるものと分かれていきますが、
小笠原のカノーは全てハワイ式、左側です。
こちらは返還20周年事業(うる覚えです)で作成した島カノー。
新島で5隻。作ってもらったそうです。
現在は父島に2隻、母島に3隻あります。
■危なかったこと
やはり、海でカノーを操っていて、危なかった事は何度もあったそうです。
カノーが沈することを「のもる」と言っていたそうです。
これはひっくり返るのも、浸水して転覆するのも両方のもると言っていたそうです。
ある時、二人で沖に出ていて、急に時化になり、集落に戻って行こうとするとき、
母島の沖港のすぐ外、中岬付近にある「滝の水」(雨の時に滝が出来る評議平の先)で帆柱が折れて、
船体もかなり浸水し、死に物狂いでふたりで漕いで集落に戻ったと言います。
10人乗れる大きなカノーを二人で漕ぐって、相当です。
また、母島の北にある「わんとね」や「南崎瀬戸」はやはり難所だそうです。
すごく神経を使って、通っていたそうです。
でも凄い点は、いざという時はカノーを捨てて泳げば、
絶対に生き残れるという自信があるという部分でした。
島さえ見えれば、どんなに離れていても、流れがあっても、島に戻れる自信があったそうです。
速い流れの中に逆の流れも潜んでいることを知っていました。
僕も依然、若い頃になんと南崎瀬戸で流された経験があります。
その時も海の底を見たら逆方向に流されている魚を見つけたので、
僕も潜ることを繰り返して、ジグザグに戻ってきた覚えがあります。
島のレジェンドに話を聞いていると、本当に驚くことばかりです。
彼曰く、
「足ヒレなんか着けてしまうと疲れて泳げなくなるけど、
裸足ならいつまでも泳ぐ自信があった」
というのです。
毎日、沖村から南崎まで往復4時間歩ける足腰。
現代人とか体の作りが違います。
子供時代には休みに遊ぶなんて感覚すらなかった忙しい日々の暮らしです。
戦後の現代になって、
日本も欧米化が進み、
ものすごいスピードで過去の文化が失われてきています。
ディズニー映画「モアナと伝説の海」のメイキング映像にもあった、
モーレア島の漁師で長老でもある故イヴ“パパ・マペ”テヒホタータが語った言葉が忘れられません。
「今度は西洋が我々の文化に飲み込まれてみては?」
※過去のブログに詳しく書いています。
■自分たちに課せられた、クレアナ(役目)というものを考えさせられる部分です。
きっと、それは先祖が描いていた想い、なのかも知れません。
以前も紹介した、泣くほど感動した32歳のアイヌの女性の物語。
アイヌの歌に関わって生きて来て、これからの自分の生き方に悩んでいた萱野りえさん。
彼女が米国フロリダ州南部に居住する先住民・セミノール族の人々との交流するチャンスが訪れました。
同じ先住民として独自の文化を持つ彼らの姿に、彼女は何を学び、何を見出したのでしょうか。
今、自分がやりたいと思うことは、先祖が思っている気持ちなのかも知れません。
ぜひ、最後まで観てもらえたらと思います。
そんなレジェンドのお話、最後に
戦前は帆で、戦後はエンジンでカノーを操っていたレジェンド。
どちらがいいですか?と聞いたら、
「そりゃあ、エンジンが楽ちんだよ!帆なんて面倒だ(笑)」
凄い環境を生き抜いてきた人の言葉は、とても重く、深く、響いてくるのでした(#^.^#)
ああ、はやくコロナが落ち着いたら、カノーを漕ぎたい!
セーリングに挑戦したい!!!
参考資料として、返還40周年で小笠原で講演してくれた海洋文化学者の後藤明さんの記事もぜひどうぞ!
八丈に伝わったカノーなどが調べられています(*^_^*)