■激戦の地、硫黄島では太平洋戦争時に日米合わせて2万人を超える戦死者を出しています。
そして1万柱を超えるご遺骨が今も硫黄島で眠ったままだそうです。
年に一度、硫黄島訪島事業で戦没者慰霊祭が
「硫黄島旧島民平和記念墓地公園」で執り行われました。
まずは村長の式辞から始まります。
そして平和の鐘を鳴らし、全員で黙祷します。
微かな硫黄の匂いがする海風を感じながら、
戦闘時の心境を想い、
無念にも散った兵士の皆さんの魂に黙祷を捧げる。
爆撃で轟音が轟く戦場だった硫黄島も、
今は鳥がさえずる静かな島になっています。
黙祷を捧げながら、色んな感情が込みあげて来ました。
そして、
小笠原村村議会議長、
硫黄島旧島民代表
硫黄島戦没者遺族代表、
が追悼の言葉を述べました。
「硫黄島に帰ってくるまで、
最後のご遺骨を見付けるまで、
私達の戦後は終わらない」
そんな感情が伝わってくる言葉でした。
その後はその場にいる全員が献花を行いました。
少しでも安らかに眠ってくれることを祈り、
今平和に生きれることを感謝し、
これからの未来に平和を築くことを約束して、1本1本、花を添えました。
そして、
小笠原中学2年生、母島中学2年生が
これからの未来を生きる身として、「誓いの言葉」
を述べました。
硫黄島で亡くなった兵士、
島に帰れない旧島民に思いを馳せて、
その気持ちを忘れずに、
これからを生きていくという、
素晴らしいスピーチだったと思います。
手には子供達の手で折られたものでしょうか、美しい千羽鶴が供えられました。
私の子供達も中2になったらこの地で、
慰霊祭に参加するはずです。
どのような体験になり、
どんなおもいで過ごすのでしょうか…
最後に「故郷の廃家」を全員で献歌しました。
この歌は硫黄島でも少年兵たち(15~16歳)が壕の中から顔を出し、
夕陽を見ながら故郷を想い歌っていたそうです。
歌っていると本当に故郷を想う淋しい気持ちになってきます。
「故郷の廃家」
幾年ふるさと 来てみれば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど
あれたる我家に
住む人絶えてなく
昔を語るか そよぐ風
昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて
遊びし友人 いまいずこ
さびしき故郷や
さびしき我家や
作詞: 犬童球渓(いんどう・きゅうけい/1884 - 1943)
※1907年発表の日本の唱歌。
原曲:W.S.ヘイス作曲『My Dear Old Sunny Home』(1871年)
こうして、
硫黄島の旧島民の皆さん、
硫黄島で家族の命を失った遺族の皆さん、
私も含め、硫黄島訪島事業に参加した一般の村民の皆さん、
関係者の皆さんが追悼の意を表しました。
■この場所には硫黄島に住んでいて、
強制疎開で内地に渡らず、そのまま軍属(兵隊として戦うのではなく、軍の為に働く人の事)として島に残り、
そのまま亡くなった方全員の名前が祀られていました。
硫黄島で命を落とした82名の硫黄島島民軍属の島民の命を含む、
日本軍 20,129名
米軍 6,821名
という多くの方が硫黄島で命を落としました。
太平洋戦争の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死者+戦傷者)が
日本軍を上回った稀有な戦いだったそうです。
硫黄島上陸後わずか3日間で
対ドイツ戦における「史上最大の上陸作戦」と言われるノルマンディー上陸作戦
における戦死傷者数を上回るなど、
フィリピン・沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られています。
天皇陛下も来島したことがあり、
真偽は不明ですが、天皇陛下が硫黄島に参ってからは、
無念に散った兵士たちの心霊現象が格段に減ったと言います。
平和を願い、大きな記念碑もありました。
母島でもなかなかお目にかかれないほどの生き生きとしたプルメリアが
墓参に訪れた人たちの心を癒してくれていました。
■島全体が激戦の地となった硫黄島は各所に慰霊碑や地蔵が置かれています。
古山のあった天山には
大きな硫黄島戦没者の碑が祀られています。
周囲には壕もあり、
地蔵や慰霊碑が沢山祀られています。
参拝した私たちは
水が不足した硫黄島なので、
水に飢えて亡くなったであろうと察して、
多くの水をかけて参拝しました。
ここは鎮魂の丘です。
米軍上陸の浜の近くの南付近にあります。
すり鉢山を望むは水と花をイメージして作られていました。
天山の慰霊碑もそうですが、
多くの兵士が飲み水に飢えて亡くなったことから、
水が絶えず注がれている慰霊碑が建てられています。
すり鉢山山頂にも慰霊碑があります。
本当に多くの命がここで失われたのです。
一方米軍の方は、星条旗を立てた場所に記念碑が建てられていました。
有名な硫黄島山頂に星条旗を立てるあの写真が掘られていました。
アメリカにとっても硫黄島はとても特別な場所らしく、
毎年10万人近くのアメリカのご遺族や兵士が島を訪れ、
太平洋戦争で最も多くの犠牲となった戦友に向けて、
こうして自分の軍証などを置いていくそうです。
■硫黄島訪島事業の最後の夕方、
硫黄島を離れるときに島を一周し、
最後に長い、本当に長い汽笛を流しながら
みんなで一斉に洋上献花を行いました。
すり鉢山山頂では、
村役場の職員が日の丸と村旗を振ってくれていました。
この最後に硫黄島を離れるときの雰囲気は言葉にできません。
何とも言えない感情が自分の心を揺さぶりました。
こんなにも美しい島の暮らしを破壊した戦争。
今も眠るご遺骨。
本土に帰れたご遺骨。
同じ船に乗っているご遺族と旧島民。
ただただ圧倒されるばかりでした。
あまりに美しい硫黄島の夕暮れは、
こうして夜の帳の中に消えていきました。
映画や写真、映像で知っていた硫黄島。
しかし、実際にその地に立って空気を吸い、
壕の暑さを体感し、亡くなったその場所で祈っていると、
こうして硫黄島に来れて、
本当にいい体験だったと思います。
決して忘れることはないと思います。
本当に多くの人に来島してもらい、
戦争と平和について感じ、考えてもらいたいです。
小笠原に住んでいれば、
旧島民でも遺族でなくても来れる可能性はあります。
ぜひ1度は硫黄島に足を運んでみることをお勧めします。
訪島記⑤に続く
そして1万柱を超えるご遺骨が今も硫黄島で眠ったままだそうです。
年に一度、硫黄島訪島事業で戦没者慰霊祭が
「硫黄島旧島民平和記念墓地公園」で執り行われました。
まずは村長の式辞から始まります。
そして平和の鐘を鳴らし、全員で黙祷します。
微かな硫黄の匂いがする海風を感じながら、
戦闘時の心境を想い、
無念にも散った兵士の皆さんの魂に黙祷を捧げる。
爆撃で轟音が轟く戦場だった硫黄島も、
今は鳥がさえずる静かな島になっています。
黙祷を捧げながら、色んな感情が込みあげて来ました。
そして、
小笠原村村議会議長、
硫黄島旧島民代表
硫黄島戦没者遺族代表、
が追悼の言葉を述べました。
「硫黄島に帰ってくるまで、
最後のご遺骨を見付けるまで、
私達の戦後は終わらない」
そんな感情が伝わってくる言葉でした。
その後はその場にいる全員が献花を行いました。
少しでも安らかに眠ってくれることを祈り、
今平和に生きれることを感謝し、
これからの未来に平和を築くことを約束して、1本1本、花を添えました。
そして、
小笠原中学2年生、母島中学2年生が
これからの未来を生きる身として、「誓いの言葉」
を述べました。
硫黄島で亡くなった兵士、
島に帰れない旧島民に思いを馳せて、
その気持ちを忘れずに、
これからを生きていくという、
素晴らしいスピーチだったと思います。
手には子供達の手で折られたものでしょうか、美しい千羽鶴が供えられました。
私の子供達も中2になったらこの地で、
慰霊祭に参加するはずです。
どのような体験になり、
どんなおもいで過ごすのでしょうか…
最後に「故郷の廃家」を全員で献歌しました。
この歌は硫黄島でも少年兵たち(15~16歳)が壕の中から顔を出し、
夕陽を見ながら故郷を想い歌っていたそうです。
歌っていると本当に故郷を想う淋しい気持ちになってきます。
「故郷の廃家」
幾年ふるさと 来てみれば
咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
門辺の小川の ささやきも
なれにし昔に 変らねど
あれたる我家に
住む人絶えてなく
昔を語るか そよぐ風
昔をうつすか 澄める水
朝夕かたみに 手をとりて
遊びし友人 いまいずこ
さびしき故郷や
さびしき我家や
作詞: 犬童球渓(いんどう・きゅうけい/1884 - 1943)
※1907年発表の日本の唱歌。
原曲:W.S.ヘイス作曲『My Dear Old Sunny Home』(1871年)
こうして、
硫黄島の旧島民の皆さん、
硫黄島で家族の命を失った遺族の皆さん、
私も含め、硫黄島訪島事業に参加した一般の村民の皆さん、
関係者の皆さんが追悼の意を表しました。
■この場所には硫黄島に住んでいて、
強制疎開で内地に渡らず、そのまま軍属(兵隊として戦うのではなく、軍の為に働く人の事)として島に残り、
そのまま亡くなった方全員の名前が祀られていました。
硫黄島で命を落とした82名の硫黄島島民軍属の島民の命を含む、
日本軍 20,129名
米軍 6,821名
という多くの方が硫黄島で命を落としました。
太平洋戦争の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死者+戦傷者)が
日本軍を上回った稀有な戦いだったそうです。
硫黄島上陸後わずか3日間で
対ドイツ戦における「史上最大の上陸作戦」と言われるノルマンディー上陸作戦
における戦死傷者数を上回るなど、
フィリピン・沖縄戦とともに第二次世界大戦屈指の最激戦地の一つとして知られています。
天皇陛下も来島したことがあり、
真偽は不明ですが、天皇陛下が硫黄島に参ってからは、
無念に散った兵士たちの心霊現象が格段に減ったと言います。
平和を願い、大きな記念碑もありました。
母島でもなかなかお目にかかれないほどの生き生きとしたプルメリアが
墓参に訪れた人たちの心を癒してくれていました。
■島全体が激戦の地となった硫黄島は各所に慰霊碑や地蔵が置かれています。
古山のあった天山には
大きな硫黄島戦没者の碑が祀られています。
周囲には壕もあり、
地蔵や慰霊碑が沢山祀られています。
参拝した私たちは
水が不足した硫黄島なので、
水に飢えて亡くなったであろうと察して、
多くの水をかけて参拝しました。
ここは鎮魂の丘です。
米軍上陸の浜の近くの南付近にあります。
すり鉢山を望むは水と花をイメージして作られていました。
天山の慰霊碑もそうですが、
多くの兵士が飲み水に飢えて亡くなったことから、
水が絶えず注がれている慰霊碑が建てられています。
すり鉢山山頂にも慰霊碑があります。
本当に多くの命がここで失われたのです。
一方米軍の方は、星条旗を立てた場所に記念碑が建てられていました。
有名な硫黄島山頂に星条旗を立てるあの写真が掘られていました。
アメリカにとっても硫黄島はとても特別な場所らしく、
毎年10万人近くのアメリカのご遺族や兵士が島を訪れ、
太平洋戦争で最も多くの犠牲となった戦友に向けて、
こうして自分の軍証などを置いていくそうです。
■硫黄島訪島事業の最後の夕方、
硫黄島を離れるときに島を一周し、
最後に長い、本当に長い汽笛を流しながら
みんなで一斉に洋上献花を行いました。
すり鉢山山頂では、
村役場の職員が日の丸と村旗を振ってくれていました。
この最後に硫黄島を離れるときの雰囲気は言葉にできません。
何とも言えない感情が自分の心を揺さぶりました。
こんなにも美しい島の暮らしを破壊した戦争。
今も眠るご遺骨。
本土に帰れたご遺骨。
同じ船に乗っているご遺族と旧島民。
ただただ圧倒されるばかりでした。
あまりに美しい硫黄島の夕暮れは、
こうして夜の帳の中に消えていきました。
映画や写真、映像で知っていた硫黄島。
しかし、実際にその地に立って空気を吸い、
壕の暑さを体感し、亡くなったその場所で祈っていると、
こうして硫黄島に来れて、
本当にいい体験だったと思います。
決して忘れることはないと思います。
本当に多くの人に来島してもらい、
戦争と平和について感じ、考えてもらいたいです。
小笠原に住んでいれば、
旧島民でも遺族でなくても来れる可能性はあります。
ぜひ1度は硫黄島に足を運んでみることをお勧めします。
訪島記⑤に続く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます