メリカのLAで元海兵隊員による銃乱射による死傷事故が起きた。
銃乱射のたびに銃規制強化の声が起こるが、銃の保有が憲法で許容・保証されていることと全米ライフル協会が大きな政治的影響力を持っていることから、掛け声だけに終わることが多い。日本の多くの識者もまた銃規制の必要性を訴えるが、いささか疑問に思える論旨であると思う。全米ライフル協会の常套句は「銃が人を殺すのではなく、銃を使う人が人を殺すのだ」であるが、1面の真理を述べていると思う。なぜなら、日本でも極めて平和的で便利なツールである「車」の「運転者」による”あおり運転””危険運転””飲酒運転”による死傷事故が後を絶たないからである。全米ライフル協会の言を借りるならば「車を運転する人が人を殺す」ということになり、銃規制を叫ぶ人は車規制も叫けばなかれば論理的に破綻することになる。更には、それ自体は殺傷力を持たないSNSでさえも、他人を自殺に追い込む威力を持っていることも問題視されている。アメリカの銃乱射に戻れば、犯人は銃が無ければ車や刃物で同じことをしたに違いないと思う。秀吉の刀狩り以降、兵農分離が成功して一般市民は一方的に武士の庇護を受けることで社会の平穏を保った日本では、市民が武装して自己防衛するという概念が育たず、更には、当時の先端兵器である刀さえも武士(庇護者)の象徴としての価値しかなくなったため、武力・武器イクオール悪という意識にまで発展したものと思う。現代文明を支える多くのツールは、用法によっては容易に武器となり得るものが多く、その安全性は使用者の理性に任されているものが殆んどである。ツールの進歩に伴って使用する人間の理性も進化すべきであるが、人間の本質は一朝一夕に変わるものではないことが、便利なツールを危険なツールにしているのではないだろうか。
アメリカには近代文明のツールのうちアイデンティティに合わないものの使用を拒否して、16世紀頃のドイツ農家の生活様式を頑なに守っている「アーミッシュ」という一団(宗教集団?)がある。自動車はおろか電気でさえも必要最小限に限るという質素な暮らしのコミュニティで、当然ながら銃・車・SNSで他人に危害を与える犯罪は無いと思う。人類の理性と欲望がアーミッシュのレベルにまで到達しない限り、どのような規制・罰則を設けようとも銃の乱射や危険運転は無くならないと諦観を持っているのだが。