沖縄(琉球諸島及び大東諸島)返還から、48年が経過した。
沖縄は、1951(昭和26)年のサンフランシスコ講和条約でアメリカ合衆国の施政権下に置かれていたが、1971(昭和46)年に沖縄返還協定調印、1972(昭和47)年5月15日に施政権が日本に返還された。当時の佐藤栄作総理は、返還は「核抜き・本土並み」と説明したが、現実には米軍基地は存続・米軍人の一次裁判権は米国が保有した状態であり、後になって明らかにされたことであるが、密約で核兵器保管も容認されていた。しかしながら、返還当時にあっては、占領地域が外交交渉によって無血で返還されるのは世界史で稀有のことであり、その功績によって佐藤栄作氏はノーベル平和賞の栄誉に輝いている。返還以前にあって沖縄在住者が本土に渡航する場合にはアメリカ政府発行のパスポートが必要であり、甲子園大会に出場する選手もパスポートで入国していたし、乗組んでいた艦にもパスポートで入隊した沖縄出身者がいた。雲の上での出来事はさておき、乗組んでいた艦が沖縄の本土復帰のための現金輸送の護衛に従事したことを記憶している。当時は下級の機関兵であったために作戦の全貌は知る由もないが、現金は米軍から供与された揚陸艦に搭載され、護衛する艦はといえば、訓練(教練)ではない「合戦準備」が下令され、砲側には実弾を準備していた。これは、乗組んでいた艦の主(副)砲の、旋回・俯仰・装填の全てが手動であるために、弾薬は予め砲側の弾薬筐に準備しておかなければならなかったためである。現在、自衛艦の主砲は自動化されているために艦内の揚弾機に装填すれば事足りるのであるが、大戦末期から僅かに進歩した程度の兵装は未だ脆弱であった。弾を撃つことなく現金輸送は完了したが、自分が在籍していた間に乗組んだ艦で「真の合戦準備」が下令されたのは、この一度だけであった。北のスパイ戦追尾、ミグ戦闘機の亡命事件、海賊対処では「真の合戦準備」が下令されたであろうが、それらには参画できなかったし、参加したカンボディアPKOでは当時横行していた南シナ海の海賊対処のために上甲板に消火用ホースを準備しただけである。
中国コロナの影響で、沖縄復帰の祝賀行事、米軍基地撤去の集会ともに実施されない平穏な復帰記念日になるらしいこととともに、沖縄県民の中でも本土復帰前後の屈辱感や期待感が風化してきたとも報じられている。しかしながら、徒に過去の屈辱感や期待感を持ち続けることが良いことだろうか。確かに在日米軍基地は沖縄に集中して、佐藤政権の「核抜き、本土並み」とは程遠い状態であるが、沖縄の地勢的意義や尖閣海域での中国海警局公船の横暴を考えれば、民政保護のためにも米軍基地と米軍戦闘力はこれまで以上に必要性を増しているように感じられる。あまりにも過去に拘泥することが、時代の変革に対しては阻害要因となることを韓国が現在進行形で示している。沖縄返還記念日に際して、冷静に天秤を注視するのも必要ではないだろうか。