もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

日本海海戦記念日と「久松五勇士」顕彰譚

2020年05月29日 | 歴史

 一昨日(5月27日)は115回目の日本海海戦の戦勝記念日(旧海軍記念日)であった。

 日本海海戦は、日露戦争下の明治38(1905)年5月27日から28日にかけて連合艦隊とロシアのバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)との間で行われた海戦で、連合艦隊の大勝によって日露戦争の帰趨を制した海戦である。双方の損害は、バルチック艦隊(沈没21隻、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻、戦死4,830名、捕虜6,106名(ロジェストヴェンスキー・ネボガトフ両提督を含む)、連合艦隊(水雷艇3隻沈没、戦死117名、戦傷583名)であり、艦隊決戦としては現在に至るまで史上稀に見る一方的勝利とされている。大勝利の背景としては、日本海軍が精強であったことの他に、日英同盟によってイギリスからの情報や補給妨害の支援を得たこと、連合艦隊の優速、下瀬火薬の破壊力、巧緻な監視態勢等々が挙げられるが、日本海海戦当時の日本軍は、大東亜戦争の敗因ともされる情報戦や装備の近代化においてはロシアを凌駕していたと考えられる。本日は、大勝利には直接寄与できなかったものの、国難に挺身・貢献しようとした銃後の「久松五勇士」顕彰譚である。日本海海戦に先立つ5月23日に奥浜牛という那覇の帆船乗りの青年が宮古島付近を北上しているバルチック艦隊に遭遇した。奥浜は宮古島の平良港に26日午前10時頃に着き役場に注進し、宮古島は大騒ぎとなったが当時の宮古島には通信施設がなかったため、石垣島にこの情報を知らせる使いを出す事となり、垣花善・垣花清・与那覇松・与那覇蒲・与那覇蒲(前記とは同姓同名の別人)の屈強な漁師5人を選抜し石垣島に通報することとした。5人は15時間、170キロの距離をサバニを必死に漕いで石垣島の東海岸に到着、さらに30キロの山道を歩き27日午前4時頃に八重山郵便局に飛び込んだ。局員は電信を那覇の郵便局本局へ打ち、電信はそこから沖縄県庁を経由して東京の大本営へ伝えられた。大本営へのバルチック艦隊発見報告は既に27日の4時50分に連合艦隊特務艦隊所属の仮装巡洋艦「信濃丸」から報告されていたために、信濃丸の報告よりも数時間遅れたこの情報が直接役に立つことはなかった。その後5人の行為は忘れられていたが、昭和になって教科書に掲載されると一躍評価が高まり、5人は沖縄県知事から顕彰され郷土の英雄となった。戦後、教科書から姿を消すと本土では瞬く間に忘れ去られていったが、宮古島や石垣島では依然として郷土の英雄という評価は揺るがず、石垣島の上陸地点には「久松五勇士上陸之地」の石碑が、宮古島にはサバニを5本の柱で支えるコンクリート製のモニュメントが建てられたとされている。

 開戦に先立つ電文の末尾に「・・・本日天気晴朗なれど波高し」と秋山真之参謀が付け加えたことから、当日の海象は決して穏やかなものでは無かったであろうし、戦闘に依る犠牲を強制されない銃後の国民であれば、当時の世相下でも手漕ぎ船に依る170Kmの航海を拒否することもできたと思うが、彼等は国民の義務として・莞爾として出港したものと思いたい。滅私奉公は死語となったが、もし彼等の「爪の垢」が残っていたら、自分も飲まなければならないし、飲んだ方が良い人も多いのではないだろうか。・・・と考えた海戦・海軍記念日であった。