もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

文芸春秋の筆禍賠償に思う

2022年06月11日 | 社会・政治問題

 東京地裁が、文芸春秋社に対して110万円の損害賠償を命じたことが報じられある判決

 いきさつは、令和元年に文春オンラインがタレントで医師の木下博勝氏のセクハラ疑惑を報じたことに対して、木下氏が名誉棄損と損害賠償1100万円を求めて提訴していたものである。
 判決では、記事の真実性は認められないと断定しているので、素人観には木下氏の完全勝利であるように思えるが、賠償額を請求額の1/10に減額査定したのは何故であろうかとの疑念が湧く。
 裁判所の判断については、刑法犯では検察の求刑を、民事訴訟においては原告の申し立てをそれぞれ下回るのが一般的である。刑法犯については改悛の情など諸々の情状を酌量し、民事判断においては被告・原告双方の瑕疵を案分・相殺するのであろうことは理解できるが、今回のように記事がフェイクであると断定したにも拘わらず、請求額を減額するのはいかなる根拠に依っているのだろうか。
 乱暴に言えば、検察や原告の請求をそのまま認めるのは裁判所・判事の沽券にかかわるという驕り若しくは独りよがりがあるのではないだろうか。
 2000年に公開されたハリウッド映画「エリン・ブロコビッチ(ジュリア・ロバーツ主演)」は、大手企業から史上最高額の和解金を勝ち取った弁護士を描いた実話であるが、判決に際して陪審員は請求額に数倍する懲罰的賠償を加えるよう評決している。
 自分も、今回の文芸春秋社の筆禍においては、請求額に数倍する賠償判決が必要と思う。筆禍被害が後を絶たず、さらには文春砲なる言葉が闊歩する背景には、不確かな、伝聞による、眉唾な、情報であっても、それを記事にすることで得られる利益が、訴えられた場合に予想される賠償額の数倍であるというメディアの損得勘定が見て取れる。この「筆禍賠償額が雀の涙」の風潮は、国民にまで伝播してSNSにおける誹謗多発現象を育ててしまったように思える。
 一罰百戒の言葉があるように、裁判所の判決は犯罪者の贖罪以上に、同種犯罪抑止も期待していることを考えれば、筆禍を起こした企業がつぶれるほどの賠償が適当と思える。こう書けば「厳罰化はメディアを委縮させて言論・報道の自由を損なう」の常套句が聞こえそうであるが、自由には責任を伴うことを思えば加害者擁護に他ならないと思う。

 裁判官に対しても一言。
 近年、保釈した被疑者の逃亡や逃亡後の犯行が相次いでいるが、保釈を決定した判事の名前、保釈判断の根拠・適否、は明らかにされないし、折に触れて当事者の説明責任を求めるメディアも判事に舌鋒鋭く説明を求めることもしない。
 また、保釈中の逃亡については幇助者を含めて処罰規定が無いと聞いているが、それもあってだろうか保釈中のゴーン被告の逃亡に手を貸したであろう広中弁護士は指弾されることもなく、本人も小便を掛けられた蛙ほども動じていないように見受けられる。