ネットで、中津江村の今昔を読んだ。
記事は、2002年のサッカー・ワールドカップ日韓大会のカメルーン選手団のキャンプ地誘致の顛末を紹介する内容であったが、2005年の平成大合併で中津江村が日田市に吸収合併された後にも「日田市中津江村」とされていることに興味を持った。
翻って我が寒村・郷里を眺めると、1954(昭和29)年に同じく寒村の隣村と合併して縁も所縁もない名称となり、更には2005年には隣接する市に吸収されて、二度目の村名は大字としてかすかに残るものの、最初の村名は痕跡すら無い。
中津江村にあっては、カメルーン選手団のキャンプ地になったことで村名が流行語大賞に選ばれるほどの知名度を持ったために、日田市中津江村という市町村名がダブルという全国でも珍しい以上に、多分ないであろう地名表示となったものに思える。
しかしながら、Wikipediaで中津江村の来歴を眺めると、1875(明治8)年に野田村と栃原村が合併して栃原村、梅野村と中西村が合併して合瀬村がそれぞれ成立。さらに1889(明治22)年に栃原村と合瀬村が合併して中津江村が誕生しているので、江戸時代の行政割から見れば4つの村の集合体であるらしい。それらの4つの地名は大字・小字となって残されているようであるが、ご先祖様の痕跡・遺徳・愛着を受け継ぐとともに、地域のアイデンティティを地名に残すためには「寿限無」的にならざるを得ないようである。
そういえば、鹿児島県志布志町の支所は「鹿児島県志布志市志布志町志布志二丁目1番1号」であり、句読点やスペースを入れないと余所者には判読不能であると「マツコ・デラックス」の番組が紹介していた。
邪馬台国探しの原点である魏志倭人伝を読み解くに際しては、記述された地点を現在の地名に比定する方法が一般的であり、そこそこの説得力を持っているが、弥生の大合併以前には「吉野ヶ里」は不弥国・投馬国はたまた邪馬壱国と呼ばれていたのかもしれないし、纒向遺跡の由来である旧磯城郡纒向村一帯が邪馬壱と呼ばれていたのかもしれない。
地名については、織田信長が稲葉山城下の井ノ口を岐阜と改めたように為政者が人心を一新するために改名したり、天変地異を忘れるために住民が自然発生的に呼称を変更することもあったことだろう。近代の合併でもキラキラ志向や簡略化という利便性のために歴史を無視した・味も素っ気もない命名に奔ったことからも、弥生時代の地名が後世まで残されていない可能性は大いに考えられる以上に、残されていないほうが自然であるように思える。
そんななかにあって、日田郡中津江村を日田市中津江村としたことには商業的価値重視以上の含蓄があったのかもしれないが、住民が履歴書に日田市中津江村と書いたら、多くの人事担当者は誤記と判断するのではないだろうか。と要らぬ心配。