こげいの花を見たのは伊豆七島の一つ新島でした。1960年代の初め、短期間でしたがその島に住んだいたのです。当時その島はミサイル基地建設に対する賛成派と反対派に2分されていました。そこに保育所を作ろうとしていた人がいました。教授の一人が『行くとしたらあんた位だろうね。』と声をかけてきました。『うん、それもいいかな。』となんとなく出かて行きした。
保育所に充てられたのは6畳2間の隠居所をぶち抜いた粗末な{失礼かな!}家でした。隠居所ですからトイレも台所もありません。トイレは外に付けてくれました。手洗いの水は助手の女のこと坂下の家から貰って来ました。その狭い空間に50数人の子ども達が集ったのです。まさに若さと体力での勝負でした。
保育所に飽きたら子ども達が居なくなってしまうのです。途中で親に連絡して子どもを帰宅させ村中を探し回ったことが2度ほどありました。
海まで3分の場所です。先ず一番に海に駆け下ります。一度は海で遊んでいるのを見つけて肝を冷やしました。もう一度はお昼前にお腹が空いたのでおやつを食べに自宅に帰ったということでした。2度とも首謀者は腕白な同一人物でした。時間に縛られず自由に過ごしていた子ども達を保育所に留まらせるにはどんな保育が良いかと工夫工夫の毎日でした。子ども達が定着した頃、お寺さんから広い場所もあるし、保育所を開きたいという申し出があり、11月いっぱいで私の役目は終わりました。
ある日曜日、5月末、あるいは6月だったと思います。営林署に勤める実さんが島を案内してやるといってくれました。彼は保育所の世話役の一人で、子どもが保育所の一員でした。
峠に上るには港に近い所から若郷に通じる道が建設されていましたが、実さんは観音と呼ばれる家の横の狭い古くからの道から上って行きました。周りは藪。その藪のあちこちに白い花が咲いていました。形は額アジサイです。その白い花びらは{花びらではなく額が変形したのでしたでしょうか?)大きく、小さな真っ白い貝殻を4枚合わせたた様な感じでした。花は大きく目立っているのに、緑一色の中に群れているとなぜかやけに寂しく見えました。
後で、居候をしていた家のウンバァ(おばあさん)やウンジィ(おじいさん)にどう書くか訊いたのですが誰も知りませんでした。
私は勝手にその花を『小貝の花』と書きました。
峠への途中、海に面して第二次大戦中に使われた砲台の跡がありました。砲台といっても砦があるわけではありません。下がコンクリートで固められただけのもです。砲台跡に立つとすぐ目の前に伊豆半島が突き出ています。距離にして50キロぐらいと聞いたような気がします。しかしまさに目の前にあるような感じでした。
本土に近いのに我が家に帰れないということが兵達の望郷の念を駈りたてたらしく、戦時中の兵隊の自殺が伊豆七島の中で新島が一番多かったそうです。
兵士達も、こげいの花を見ながら砲台へと上ってきたのだろうと想像すると花の白さが目に沁みました。
戦時中、島の女と子どもは全員、山形に強制移住させられました。家のウンバァの話によると船を持っている家では男達が漁をし、作った干物を運んできてくれたので、それをお米に替えることが出来たけれど、そう言う手段の無い人はとても大変な苦労をしたということでした。
数年前、我が家の風呂場を修理してくれた職人の親は新島出身ということでした。今、新島には新島銀座なる物までできてすっかり俗化してしまったと話していました。
保育所に充てられたのは6畳2間の隠居所をぶち抜いた粗末な{失礼かな!}家でした。隠居所ですからトイレも台所もありません。トイレは外に付けてくれました。手洗いの水は助手の女のこと坂下の家から貰って来ました。その狭い空間に50数人の子ども達が集ったのです。まさに若さと体力での勝負でした。
保育所に飽きたら子ども達が居なくなってしまうのです。途中で親に連絡して子どもを帰宅させ村中を探し回ったことが2度ほどありました。
海まで3分の場所です。先ず一番に海に駆け下ります。一度は海で遊んでいるのを見つけて肝を冷やしました。もう一度はお昼前にお腹が空いたのでおやつを食べに自宅に帰ったということでした。2度とも首謀者は腕白な同一人物でした。時間に縛られず自由に過ごしていた子ども達を保育所に留まらせるにはどんな保育が良いかと工夫工夫の毎日でした。子ども達が定着した頃、お寺さんから広い場所もあるし、保育所を開きたいという申し出があり、11月いっぱいで私の役目は終わりました。
ある日曜日、5月末、あるいは6月だったと思います。営林署に勤める実さんが島を案内してやるといってくれました。彼は保育所の世話役の一人で、子どもが保育所の一員でした。
峠に上るには港に近い所から若郷に通じる道が建設されていましたが、実さんは観音と呼ばれる家の横の狭い古くからの道から上って行きました。周りは藪。その藪のあちこちに白い花が咲いていました。形は額アジサイです。その白い花びらは{花びらではなく額が変形したのでしたでしょうか?)大きく、小さな真っ白い貝殻を4枚合わせたた様な感じでした。花は大きく目立っているのに、緑一色の中に群れているとなぜかやけに寂しく見えました。
後で、居候をしていた家のウンバァ(おばあさん)やウンジィ(おじいさん)にどう書くか訊いたのですが誰も知りませんでした。
私は勝手にその花を『小貝の花』と書きました。
峠への途中、海に面して第二次大戦中に使われた砲台の跡がありました。砲台といっても砦があるわけではありません。下がコンクリートで固められただけのもです。砲台跡に立つとすぐ目の前に伊豆半島が突き出ています。距離にして50キロぐらいと聞いたような気がします。しかしまさに目の前にあるような感じでした。
本土に近いのに我が家に帰れないということが兵達の望郷の念を駈りたてたらしく、戦時中の兵隊の自殺が伊豆七島の中で新島が一番多かったそうです。
兵士達も、こげいの花を見ながら砲台へと上ってきたのだろうと想像すると花の白さが目に沁みました。
戦時中、島の女と子どもは全員、山形に強制移住させられました。家のウンバァの話によると船を持っている家では男達が漁をし、作った干物を運んできてくれたので、それをお米に替えることが出来たけれど、そう言う手段の無い人はとても大変な苦労をしたということでした。
数年前、我が家の風呂場を修理してくれた職人の親は新島出身ということでした。今、新島には新島銀座なる物までできてすっかり俗化してしまったと話していました。
自殺したという兵士の中には泳いで帰られると思った方もいたかもしれませんね。悲しいですね。
手を焼かせた腕白坊主は今でも島に住んでいるのだろうか、glimi先生のことを覚えているのだろうか、
なんてことを思ってしまいました。
小貝の花の字を見てなんとなく頭の中で想像しています。
コメントありがとうございました。きょうこちゃんの話は印象深くて覚えています。今日も読んで、泣いてしまいました。幼い日の大切な友達との別れは、いつまでも鮮烈な印象で残るのかもしれませんね。
情況は違うのでしょうが、若い先生の一生懸命さが目に浮かぶようです。
先日のTVで、アフリカの何処か忘れましたが、さらわれて、否応なしに銃を持たされ兵士になっている幼い子供達が映っていました。親は殺害されているので帰る家もないし、同年くらいの子供を殺す役目もさせられたり(殺さなければ自分が殺される)などの情報に胸が痛くなりました。
子供らしい夢も何も失ってしまっているこの子供達が助け出されるのは何時なのでしょう。
{hahaha・・・!}
serenaさん
シオラレオネではないでしょうか。私も国連関係の多分ユニセフのものと思いますがドキュメントを見ました。10歳くらいまでは使い走り、そして、銃を持たされます。自分の背丈と同じ位の長さの銃を持ち撃つのです。恐がると銃弾をほぐし火薬を与えます。火薬の中に麻薬が入っているのです。不安になると自分で火薬を食べ銃を乱射する少年もいました。
NHKのドキュメントでは保護された少年達の様子を見ました。情著不安定ですぐに感情が爆発{日本では切れると言います}するのです。
シオラレオネはダイアモンド産出国です。その富が国民のために使われず権力者の権力維持の道具となっているのは悲惨なことです。
そこでは5歳まで生きられる子どもは少ないそうです。
子どもの気持はその時々に受け止めてやるよりしかたがないのですね。
無言で受け止めてやれば、その事が母親の優しさとして子どもの成長の糧になると思います。子どもに慰めの言葉や理屈での理解はいらないのです。
聞いた事の無い国名だったので、検索したらシオラレオネもシエラレオネも同じ所に出てきました。翻訳を押すとシオラレオネの方は翻訳してくれなくて(判らないとほっとくと言う翻訳です)綴りが判りません。
西アフリカですが私の地図は古いので多分載っていないでしょう。国連の難民に関する報告にギニアの名前がありましたのでその隣国と思います.
新島も出てきませんでした。