ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

ドリームランド2011:震災被災者にエール 佐賀でコンサート--17日 /佐賀

2011年04月14日 02時18分26秒 | 障害者の自立
 ◇アマバンドら10組出演

 九州各県のアマチュアバンドやミュージシャンが生演奏を繰り広げる「春らんまん ドリームランド2011」が17日午前10時~午後4時、佐賀市兵庫町のひょうたん島公園で開かれる。障害者に配慮したコンサートを開くなどし、今年2月に亡くなった泉三千夫さん(享年61)ゆかりのイベント。会場では東日本大震災義援金の募金も集める。

 同市で毎秋開かれている「佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」会場で無料コンサートを実施している「音楽広場ドリームランド」のメンバーが春のイベントとして企画し、今回で3回目。

 泉さんは筋ジストロフィーと闘いながら同コンサートを主宰した。人ごみに気後れする障害者もフェスタに来やすいようにするのが目的だった。音楽仲間の有志がその遺志を継ぎ、今回はバンドや琉球太鼓グループなど10組が出演する。

 入場無料。実行委の今村輝子事務局長は「九州から大震災被災地にエールが届くようなイベントにしたい。その方が泉さんも喜ぶと思う」と参加を呼び掛けている。

 問い合わせは今村事務局長090・4354・5857。

毎日新聞 2011年4月13日 地方版

手作り品で被災地支援 山科の障害者施設利用者ら

2011年04月14日 02時16分23秒 | 障害者の自立
 東日本大震災の被災地に義援金を贈ろうと、京都市山科区の知的障害者通所施設「新明塾」の利用者たちが手作りの菓子や食器を販売している。12日にも左京区の商店街の露天市に参加し、青空の下で声を張り上げてお客を呼び込んでいた。

 お金の大切さや販売の楽しさを知ろうと同施設は今年1月から毎月1回、左京区の田中京極商店街の露天市で手作り商品の販売を始めた。

 3回目の市を前に震災が発生し、施設利用者から「自分たちに何かできないか」と声が上がった。当初、同施設は売り上げの一部を寄付することを提案したが、利用者からの強い希望で売り上げの全額と、利用者や施設職員の給与の一部も被災地へ贈ることに決めたという。

 先月(22日)に続き、12日にも市に参加した。利用者13人が作ったパウンドケーキやクッキー、陶器のカップや置物といった商品約100点と募金箱を店頭に並べ、通行人に「みんなで作りました」「お願いします」と声をかけ、笑顔で接客していた。

 谷川史朗施設長(47)は「利用者の頑張っている姿を見てもらい、被災地支援にも協力していただいて、人の輪が広がっていってほしい」と話している。


募金する人に「ありがとうございます」と笑顔で声をかける利用者ら(京都市左京区・田中京極商店街)

京都新聞

東日本大震災:在宅障害者に物資足りず 「誰か声をかけて」石巻の母娘訴え /宮城

2011年04月14日 02時10分21秒 | 障害者の自立
 ◇年金頼りの石巻の母娘訴え

 震災から1カ月たつが、被災地の在宅障害者には、いまだ支援が届いていない実態がある。知的障害のある長女(29)らと石巻市向陽町の市営住宅に暮らす馬場きり子さん(69)は両足が不自由で震災後、両手でつえをついて買い物や給水に出かけている。救援物資は足りず、所持金も残りわずか。月に何度か様子を見に訪ねてきていた市職員も震災後は現れない。馬場さんは「誰かに声をかけてほしい」と悲鳴を上げている。

 馬場さんはもともと両足に障害があるうえ、2月21日に自転車に乗っていて乗用車との交通事故に遭い、右足骨折で全治6週間の重傷を負い、市内の病院に運ばれた。3月11日、入院先で地震に襲われた。ベッドが激しく動き、柵につかまって必死に耐えた。

 障害者施設に通う長女とは即日連絡がついた。安否が分からなかった同居の次男が震災2日目、病室に現れ、自宅がかろうじて津波被害を逃れたことを知らせてくれた。次男は「食べる物がないから避難所に行ったが、『初日に来た人以外はだめ』と入れてくれなかった」と言う。馬場さんはまもなく退院し、娘も施設が浸水で使えなくなったため自宅に戻った。避難所に頼れない3人の在宅避難生活が始まった。

 自治会を通じた救援物資はごくわずか。知人が分けてくれる米や飲料水を加えても、とても足りない。自転車なら片道10分ほどのスーパーや給水所まで40分かけて歩き、長女に荷物を持ってもらって帰る。

 収入は馬場さんと長女の障害者年金だが、足の治療費がかさみ、15日の振込予定日まで残り1万円しかない。生活相談に乗ってくれていた市の職員も震災後はまったく訪れず、窮状を訴える相手もいない。

 馬場さんは以前から進んでやっていた自宅前のごみ収集所の整理を、今も毎日続けている。「つらい時ほど頑張らなくては」と思うからだ。被災した家具や衣類などが捨てられ、収集所には大量のごみが積もる。馬場さんは、それらを黙々と片付ける。

 心の支えは家族の存在だ。10日午後、神奈川県平塚市の長男家族から救援物資が届いた。玄関先で段ボール箱を開くと、衣類や食料とともに、6歳の孫が書いた手紙が入っていた。小学校に上がったばかりの女の子だ。

 「いちねんせいになりました。たくさんべんきょうして、ともだちたくさんつくるよ。またあそびにいくからまっててね。おげんきで」

 馬場さんは「支えてくれる人もいる。でも地域からは、私たちは見放されている。誰かに声をかけてほしい」と訴える。

毎日新聞 2011年4月13日 地方版

車から電源、停電乗り切る 釜石の重症心身障害者

2011年04月14日 02時08分14秒 | 障害者の自立
 東日本大震災に伴う停電は、在宅の重症心身障害者にとって死活問題。濃密な医療的ケアが必要で、電動医療機器が手放せないからだ。釜石市甲子町の菊池裕子さん(27)は、家族や周囲の懸命の支えで、震災発生から6日間の停電を乗り切り、笑顔を取り戻した。

 裕子さんは施設に入所せず、自宅で父俊二さん(63)、母紀子さん(61)との3人暮らし。電動たん吸引器が欠かせない。

 3月11日の地震発生時、俊二さんは日課の散歩中。家にいた紀子さんは、大きな揺れに驚き体をこわばらせた裕子さんに覆いかぶさり、ぎゅっと抱きしめ続けた。

 同市甲子町地区は内陸で津波被害は免れたものの、停電に。走って帰宅した俊二さんが機転を利かせ、車のシガーソケットから電源を確保し、たん吸引器を作動させた。

 車に残っていたガソリンは半分以下。1日たっても、2日たっても停電は続く。裕子さんが体調を崩しても病院に連れて行くのは難しいため、2人は暗闇の中、付きっきりで裕子さんに寄り添った。

 周囲がそんな日々を支えた。ヘルパーや訪問看護師、主治医は自分の家族らが被災しながらも「裕ちゃん、元気?」と訪問。紫波町に住む親戚はガソリンをかき集めてくれた。

 紀子さんは「重症者は周囲の助けがないと生きていけない。裕子は人に恵まれているとつくづく実感した」と感謝。16日夕方、電気がついた時は「思わず拍手しました」。

 4月7日深夜にまた激しい余震。泣き出した裕子さんだったが、両親が寄り添って落ち着きを取り戻し、8日夜まで続いた停電も乗り切った。

 県重症心身障害児(者)を守る会(平野功会長、会員251人)は震災発生後、同会が把握する陸前高田市から宮古市までの在宅重症者25人の安否確認を進め、全員の無事を確認した。

 持ち前の無垢(むく)な笑みを広げる裕子さん。その手を握りしめ、紀子さんは「お世話になっている多くの方々が被災し心が痛む。いつの日か被災地に日常生活が戻り、笑顔が戻ってほしい」と願う。

岩手日報

ニュースUP:障害者就職 ある難聴者の挑戦=学芸部・最上聡

2011年04月14日 02時05分47秒 | 障害者の自立
 <おおさか発・プラスアルファ>

 ◇公務員でも壁高く

 耳の不自由な岡山県倉敷市の嘱託員、沖田英和さん(30)が今春、正規の県庁マンになった。大学院生のころから7年間、働きつつ地方公務員試験を受け続け合格した。道のりは険しく、自治体によっては面接で口話を要求されたり、「門前払い」もあった。沖田さんの体験から、障害のある人たちの一生の仕事について考えたい。

 ■面接止まり

 読唇のできる沖田さんだが、私はパソコンに文字を打ち合って「会話」する。合格した際の気持ちを尋ねると、「単純に『うれしい』」と返ってきた。

 沖田さんは福祉振興課の配属となり、「福祉にかかわりたい」という希望がかなった。研修期間では、すべて講義などで手話通訳が付いた。「周囲も積極的に筆談をしたり、ゆっくり話してくれ、『一緒に頑張ろう』と励まされた。今までの努力を評価してもらったように思える」と話す。

 沖田さんは生まれつき救急車のサイレンがようやく聞こえる程度の難聴だ。これまで職場だった倉敷市建築指導課では、業者に建築指導をする際の道路調査を担当。紙に文章をしたためた上でやり取りし、読唇も駆使して仕事をこなしてきた。一方で毎朝午前4時に起き、仕事に行く前や休日など、多い時には1日14時間も勉強した。

 これまで延べ6自治体を受験し、開示された筆記試験の結果は常に上位。予備校の模擬面接でも評価は高く、障害を持つ友人の協力で練習も重ねた。しかし面接を経ると、次点で不合格が続いた。

 ■門前払いも

 壁となるのが、面接の方法だ。沖田さんは、パソコンを使い要約筆記で会話するのが最も速く確実だという。しかし実際は、十分な時間が取れないままの筆談や、口話を要求されたり、手話だけしか認められなかった自治体もある。

 面接前に手紙で相談すると、ある自治体からは「平等に同じ状態で受けてもらうので、配慮はできません」と返事がきた。「聞こえない人は採らない」と、はっきり言われたこともあるという。「募集要項に該当しない」として、受験そのものを拒否した市も複数あった。

 その一つで、受験票を返送してきた市は、記者の取材に対し、「初めてのことで、今後対応を検討する時間が必要」とし、別の自治体は「耳の聞こえない人が十分に仕事ができる環境が整ってなく、現状では困難」と説明する。

 一方で、手元の紙に返答を書いて補助者がスクリーンに映すか、自分でパソコン入力する手法を選べるなど、あらかじめ面接に配慮する旨の連絡が来た県もあった。

 沖田さんは「聴覚障害と一言でいっても、聞こえる程度もコミュニケーションの手段も異なる。一人一人の障害に合わせた対応が必要と思う」と話す。

 03年度から身体障害者対象の採用試験を始め、今年度は沖田さんを含めて5人が合格した岡山県の人事課はこう語った。「実際に職場で働く中で、体の不自由な職員を地下駐車場まで迎えに行ったりということはある。受験資格を満たす以上、耳の聞こえない人には筆談など試験でも対応している」

 ■貴重な人材逃す

 私は3年前、「蝸牛型(かぎゅうがた)メニエール病の疑い」と診断された。症状が治まるまでの1カ月ほどは、取材で相手の話を聞く作業に、普段と比べものにならないほど集中力を要した。もちろん疲れてしまい、記者会見は録音で何度も聞き直す有り様。周囲の気遣いで仕事ができたが、聞こえにくい大変さを痛感した。

 そんな経験の後、和歌山県の複数の自治体が、採用試験中に障害を申告させる内容の書類を書かせていた問題を取材した。以前から付き合いのあった自治体幹部に「私は色盲があって、色分けして『分かりやすく』した資料の判別ができず、悔しい思いをしてきた」と告白された。見づらい資料は、同僚が知らないところで確認して理解を深めていたという。「障害があっても仕事はできる」と、その人だからこその説得力にうなずいたことが忘れられない。

 沖田さんは、その熱意のみならず、「(配慮はあったが)面接は私の準備不足で失敗したこともあった」と振り返るなど、客観的に自分を見られる人だ。聞こえない人に普段のコミュニケーション手段と違う試験を課すのは「歩けない人に歩かせる試験」をするようなもので、「門前払い」の自治体などは貴重な人材をみすみす失っているのではと思える。

 障害者欠格条項をなくす会(事務局・東京)は09年度、公務員採用試験の実態を調査した。20道府県が手話通訳が可能と明記していたほか、筆談などいくつかの選択肢を提示している県もあった。口頭面接を条件にしていたのは都道府県・政令市レベルでは2県のみ。徳島県は10年度から「より幅広い人材を集める」として改めた。同会によると、沖田さんのように実際に受験することで、自治体の対応が改まっていく例もある。

 ■自らを前例に

 一般市レベルでは取り組みが進んでいない場合が多い。障害者枠を設けていても「単独で介助なしで仕事ができる」という条件を設けている自治体の場合、少しでも介助や通訳が要ると思われる人は、採用対象から除外されがちとなる。

 同会の臼井久実子事務局長は「明記していなくても、単独の職務遂行を暗黙の前提としている場合もある」と指摘する。全国ろうあ連盟事務局(東京)は「『採用条件だから』と、就職後、どうしても必要な会議で手話通訳を求めても付けてもらえないという相談が多く寄せられる。試験時の手話通訳もすべてでなく、要約筆記も多くの自治体で未対応だ」とする。

 「前例がなければ作ればいいと思った。大変な道のりだったけれど、これからがスタートです」と沖田さんは話す。

 採用の仕方と職場環境の整備が密接にかかわるのは言うまでもない。沖田さんの一歩が、さらに多くの人の次のステップにつながることを願う。

毎日新聞 2011年4月13日 大阪朝刊