ゴエモンのつぶやき

日頃思ったこと、世の中の矛盾を語ろう(*^_^*)

全国自立生活センター協議会 メールマガジン   2011年 4月 8日発行

2011年04月09日 18時09分43秒 | 障害者の自立
3.東北関東大震災障害者救援本部の活動報告

4月1日から4泊5日のスケジュールで、救援本部の西尾と安達で宮城県と福島県に行ってきた。

4月1日、地震から3週間たったこの日、仙台市太白区のCILたすけっとを訪問した。
東北道は多少の凸凹はあったが復旧しており、八王子から5時間程度で到着した。

 出迎えてくれたスタッフの笑顔にほっとしつつ、
割れた自動ドアに地震当時の怖さを感じた。
さっそく乗り付けたトラックの荷台から布団や経口栄養剤などの物資と
ヘルパーの足にと寄付された原付を降ろす。
事務所に入り、暖かいせんべい汁をご馳走になりながら、この3週間の話しを聞いた。
スタッフは無事であること、市内のライフラインはほぼ復旧し日常生活は営めること、
今後近くの市所有地に仮設住宅ができるだろうから介助派遣で支援していくことなど。


4月2日、救援本部の杉田と合流し、多賀城市と石巻市の避難所を訪問した。
「やるべき事は、現場を見たらわかる」という佐野さん(滋賀・ポテトファーム)の言葉通り、
避難所は多くの問題を抱えていた。
多賀城市文化センターは避難者で足の踏み場はなく、むっとする空気で溢れている。
和室に入室できた人やロビーのソファーが使えた人はまだ良いが、
多くは堅いタイル敷きの廊下にダンボールとせんべい布団を敷いて寝起きをしている。
一目で、高齢者や障害者が長期生活ができるような環境ではないとわかる。
畳やソファーなどは、高齢者・要介護者の優先使用などの配慮はあったのだろうか。
タイル敷きの廊下の片隅で、ダンボールの上に敷かれた布団がシワ一つ無く
きれいに折りたたまれている光景に目を奪われた。
辛い避難生活の中にありながら、身の回りのものを整える事を忘れない心遣いが、
とても痛々しく、胸がしめつけられた。

避難所生活の壮絶さを初めて目にして言葉もなく、ただ石巻市へトラックを走らせた。
津波被害にあった石巻市立病院の患者が避難しているという遊楽館(ゆうがくかん)を目指す。
ここはスポーツ施設で、体育館がある。
体育館に150~160人の患者がきれいに並べられている(言葉通り、並べられている)のだが、ついたては一切無い。
説明によると看護師やヘルパー等の人手が足りず、ついたてがあると患者の急変に対応出来ないからだ、という。

人手不足を解消するために、近所の中学生がボランティアで手伝いに来ており、
布団の間を歩き回りながら、患者が手を挙げたら看護師を呼ぶ役割を担っていた。
ついたてがないと言うことはプライバシーが無い。
オムツの交換が必要な患者は、その場で布団をはぎ取られ、下半身を露わにされてオムツ交換となる。
それが、中学生の目の前で行われている。
 
夜、福島市に移動し、駅前のホテルに泊まった。余震が続く。


4月3日、福島市、南相馬市、郡山市を訪問。
福島市ではILセンター福島に中手さんと設楽さんを訪ねた。
マスコミ報道でも知られているが、福島市は第一原発から30km圏外であるが放射線の測定数値はきわめて高い。
中手さんの話しでは、殆どの家庭で子供を他県の親類縁者の所へ避難させていると言う。

「今後、福島県出身だというだけで結婚できない、という福島差別が起こるだろう」
という言葉に、福島の人達が抱える恐怖を垣間見た。

114号線を東へ走り南相馬市に入る。街は閑散とし、商店は閉まり人気が無い。
とりあえず、と市役所へ行く。
日曜日にもかかわらず多くの市民が住民課を訪れていた。転居届を出しているのだろうと思った。
ボランティアの受付は社会福祉協議会へ、という張り紙を頼りに社協へ。ここは救援物資の受け付け場所にもなっていた。
トラックのナンバーが八王子なので気になった、という男性が話しかけてきた。
この男性も八王子からボランティア活動を行うために来たという。

男性によると、この物資受付所で10名程度が活動しているが、南相馬市の人は1人だけで、他はボランティアらしい。
物資倉庫となっている講堂の中を見せてもらうと、私設の倉庫程度の物資しかなかった。
これで現在市内に残っている2万人の市民を支えるのは無理があるだろうと思った。
話しを聞くと理由は原発だ。隣の相馬市なら行ってくれるドライバーはいても、南相馬市へと言うと一様に断わられるらしい。
そこで、現在はボランティア達が相馬市の倉庫へ物資を分けてもらいに行っていると言う。

海岸へ向かい、津波被災地を見た。
家も田畑も、道路のアスファルトも、高圧電線の鉄塔までも流されてしまった現場で、
ゴルフクラブを手に泥の中を歩く住民の姿があった。
津波から3週間、毎日何かを探し歩いているのだろう。涙があふれた。

郡山市へ向かう道中、浪江町へと続く道路が警察車両によって封鎖されているのを見た。
夕方、オフィスILを訪問。


4月4日、いわき市と田村市を訪問。
原発から20km圏内の川内町等の人々が避難しているビッグパレットふくしまを訪問。
1万人ほどの人が避難生活をしているという。施設内には、人目や寒さを防ぐためダンボールで作った小屋が建ち並ぶ。
工夫を凝らした生活に、長い期間ここで寝起きしていることが読み取れる。

ここで不思議に思うことが2つあった。一つは障害者の姿を全く見かけないと言うこと。
人口の8~10%が障害者であるということからすると、800~1000人程度の障害者がいてもおかしくないのだが。
もう一つは、介護が必要な方のスペース、と張り紙がされている場所が2階にあると言うこと。
エレベーター前もダンボールハウスで埋め尽くされ、エレベーターが機能していないことが推測できるのだが、
どうやって要介護者が2階へ移動するのか、不思議である。

日のある内に被災地を見ておきたくて、いわき市へと急いだ。途中雪が降ってきた。
いわき市もライフラインが復旧しつつあり、街には部活帰りと思われる自転車通学の学生が集団で走っていた。
CILいわきには連絡もなく訪ねてしまったが、長谷川さんが快く出迎えてくれた。
CILいわきは現在新宿区の戸山サンライズに避難している。しかし、集団避難も時間的に限界があると言う。

曰く、事業を中断している間に一度はなれたヘルパーは二度と戻ってこない、という不安がある。
なるべく早く戻り事業を再開しないと、今後の障害者の生活が保障できなくなる、と言葉を続ける。
原発の怖さは常に念頭に置きつつの事業運営となる。
いざとなれば150人規模で集団避難できるルートと避難先を確保しなくては、と言う。
しかし、いわき市全土が避難勧告が出ると言うことは、福島市も郡山市も同様であり、100万人が避難するということになる。
それをどこで受入れるのだろうか。

その時点で、東京が全く原発被害を受けていないわけではないだろうし。

夕方、田村市に鈴木夫妻を訪ねた。

農家は土地を本当に大切にしてきたんです。手を掛けて可愛がれば、土地は応えてくれる。
猫の額ほどの土地でも、他人の手に渡らないようにするために近しい親類縁者と結婚して、そうまでして守り抜いて来た。
それを手放すのはどんなに辛いか。放射能に汚染された土地でも、見た目には全くわからない。
それが悔しい。色が付いていたり、臭いがしたりしてくれれば、あきらめもつくのだけど。
鈴木(き)さんが、涙ながらに話してくれた。

言葉につまる妻にかわって、微笑みながら言葉をつなぐ鈴木(た)さんの
「福島は貧しいところなんです。日の当る土地は田畑にし、自らは日陰に住むんです。」
という言葉が、深く胸に突き刺さった。


多くの介護派遣事業所も被災し、利用者の安否確認が進んでいない。
現在仙台と郡山に現地拠点を設置し、その作業にあたっている。
今後、仮設住宅のバリアフリー化、介助派遣の人材確保、ヘルパー講座の講師派遣、被災者の心のケア、
ピアカウンセラーの派遣、原発被災者の避難場所の確保、などなど思いつく課題は沢山ある。
ひとつひとつ、しかし早急に進めていきたい。
(安達)

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◇◇小径(こみち)◇◇

これまでの価値観が覆される大災害がおこった。
100億円寄付する人まであらわれた。100億円持っているよりも、
人の為になることがしたい、そのほうが充足感を得られる、
そんな価値観のシフトがおこっている。

金が全てではないとは言いつつも、復興支援、とりわけ避難困難障害者の支援には
お金がかかる。一説には10億円とも言われている。

しかし、人は飽きる。早くも街頭から募金活動が姿を消した。
募金離れがおこっている。確かに、毎日送られてくる被災地の状況や原発の恐怖に
、心は疲れ、自らの生活不安が増長され、他人のことが考えられなくなり始めている。

自分もそうだった。現地を見るまでは。

現地では、今日も藁をも掴む思いで捜索活動を続けている人がいる。
ヘルパーが避難してしまい、介助者不足に陥っている障害者がいる。
避難所では生き延びる事ができないと、自宅に残ることを決めた障害者がいる。

さまざまな個別ニーズに応えるには、物資ではなく柔軟な金である。
やはり募金は大切な支援だ。(あ)
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 発行:全国自立生活センター協議会(JIL) 事務局

「スピーチサポートDS」開発

2011年04月09日 02時01分42秒 | 障害者の自立
 発話が不自由な人のコミュニケーションを支援する携帯型ゲーム機用のソフト「スピーチサポートDS」を、障害者の社会参画を支援するNPO法人プロジェクトゆうあい(松江市殿町)とソフトウエア開発のワコムアイティ(同市北陵町)が共同開発し、発売した。入力した文字を音声に変換できる他、近距離であれば同ゲーム機同士でリアルタイムな会話ができる。

 ソフトは任天堂の携帯型ゲーム機「ニンテンドーDSi」専用で、インターネットを経由しダウンロードする。価格は500DSiポイント(500円相当)。島根県内の企業が同ゲーム機用ソフトを発売するのは初で、障害者向け支援ソフトとしては全国2例目という。

 入力した文章を音声化したり、ゲーム機の通信機能を使い、手書き文字や絵を最大4人で同時に共有できたりする。また、二つの画面のうち一方を上下反転で表示でき、文字によってもスムーズな会話が可能となる。

 昨年7月、タッチパネル式の小型パソコン用として商品化したソフトを、ゲーム機用に応用。ゆうあいのスタッフとともに5日、松江市役所で会見したワコムアイティの今岡克己社長は「障害のある人をはじめ、多くの人のコミュニケーションツールとして広がれば」と話した。



- 山陰中央新報

全国初:ブリヂストン工場内に障害者就労支援施設開所

2011年04月09日 01時55分59秒 | 障害者の自立
企業と学校法人が協働~「働き教育センター」オープン
株式会社ブリヂストン(本社:東京都中央区)は、滋賀県彦根市にある同社工場内に障害者職業訓練施設である「働き教育センター」を開設、3月21日に開所式が行われた。

一般就労を目指す実習生が4月から1年間、将来ブリヂストンや関連会社で働くことを目指して、工場内での作業実習やパソコン操作などトレーニングを受ける。



全国初の取り組み
通常、社会福祉法人や民間非営利団体(NPO)などが障害者自立支援法に基づき、障がい者の就労支援施設事業所を開設、運営を行っているが、民間企業の事業所内にこうした施設を設置するのは全国初であるという。

働き教育センター彦根を運営する学校法人関西福祉学園が、彦根工場と交流の深い滋賀県立甲良養護学校を通してブリヂストンに協力を依頼、今回の実現に至った。


CSR活動に積極的に取り組むブリヂストンの従業員
ブリヂストン彦根工場では日頃から、養護学校の教育を支援するため、従業員による作業指導、スポーツ交流といったボランティア活動を行うなど、コミュニケーションを密にとったCSR活動に積極的に取り組んでいる。

関西福祉学園の辻理事長は、今後も障がい者の社会的自立を目的とした事業展開に意欲を見せており、同様の取り組みが民間の多くの企業に広がっていくことを期待している。

株式会社 ブリヂストン
http://www.bridgestone.co.jp/

学校法人 関西福祉学園 働き教育センター
http://www.hukusi-shiga.net/study/3/index.htm

障がい者の働く場ニュース

障害者受け入れパンの子会社

2011年04月09日 01時53分52秒 | 障害者の自立
 造船・海運業のツネイシホールディングス(福山市沼隈町)は障害者雇用を担う子会社を発足させた。地元の社会福祉法人「ゼノ少年牧場」から従業員を受け入れ、パン作りに取り組む。

 子会社「ツネイシチャレンジド」は資本金1千万円で1月に設立した。障害者雇用促進法に基づく特例子会社の認定を2月に受けた。従業員14人中5人が知的障害者で、ゼノから受け入れている。

 職場は、これまではグループ企業で経営してきた沼隈町草深のスーパー敷地内にあるスワンベーカリー沼隈店。毎日70~80種、千個を売る人気店だ。5人は1日6時間、週5日働いている。

 「パンの名前を覚えるのが難しかった」と話すのは、1月に就職した河瀬英里香さん(19)。丸めた生地に衣を付け、食器や鉄板を洗い、カフェの飲み物を作るのが主な仕事だ。

 営業時間は午前9時から午後7時まで。電話084(987)0433。

中国新聞

視覚障害者京都マラソン:県立盲学校高等部2年・佐倉さん、1キロの部初優勝 /三重

2011年04月09日 01時51分13秒 | 障害者の自立
 ◇3分43秒自己ベスト--「次は3キロに挑戦」

 ◇伴走者・松村さん、「腕の振り」指導

 県立盲学校高等部2年、佐倉豪さん(16)=名張市梅が丘南4=が、3月6日に京都市で開かれた「第28回視覚障害者京都マラソン大会」1キロ男子全盲の部で初優勝した。伴走者の生活支援員、松村孝範さん(50)=名張市つつじが丘南6=とゴールテープを切った。佐倉さんは「最初は信じられなかった。満足です」と話している。

 同部には市内外から13~70歳の13組が出場。佐倉さんは昨年は4分18秒で2位だったが、今年は前回を上回る3分43秒の自己ベストを記録した。松村さんとの公式大会出場は初めてだった。

 佐倉さんは生まれた時から全盲で、マラソンは小学5年ごろから始めた。毎週末、松村さんを含む同市の障害者併走ボランティアグループ「走風(そうふう)」(佐伯典彦代表)のメンバーら計4人が交代しながら、約1時間の練習をしている。メンバーはマラソン出場者や陸上経験者だ。

 ボランティアによって練習内容は違い、松村さんとの練習では腕の振りを意識。松村さんは「『腕を上げて』と口が酸っぱくなるまで言っている」と話している。

 大会当日は、練習の成果が発揮され、最初からスピードが出た。佐倉さんは「もっと練習して、次は3キロの部に挑戦したい」と意気込んでいる。

毎日新聞 2011年4月8日 地方版