今年の7月1日は、いつもの年よりも1秒だけ、1日の時間が長いんですよね。貴重な1秒を、皆さんはどう使いましたか?
障害学という分野があります。これまでのような専門職からのアプローチではなく、当事者の視点から障害について理解を深めていこうという学問です。
障害学では、障害そのものを3つのカテゴリに分類しています。
- 器質的障害
- 能力的障害
- 社会的障害
僕自身を例に御説明しましょう。
僕は、脳性マヒという先天性の障害を持っています。もっと厳密に定義すれば(脳の傷害によって引き起こされる種々の運動機能障害)が脳性マヒ本来の症状であり、これが器質的障害にあたります。
器質的障害があるがために2次的に生じる障壁を(能力的障害)といいます。僕の場合でいえば、「脳性マヒによる不随意運動のために細かい作業が難しい」というようなことが挙げられます。あるいは、言語障害により他者とのコミュニケーションがとりにくいというハンディも、このカテゴリに入るかもしれません。
「障害があるために○○することが難しい」というような問題が生じた時、障害学ではこれを能力的障害ととらえるのです。
能力的障害が社会活動の制約に結びつくと、社会的障害と呼ばれるカテゴリになります。障害者という理由だけで就職ができなかったり、公共の交通機関を利用しにくかったりする例がこれにあたります。
(障害は社会によってつくられる)
障害学の基本的な主張です。障害によってどうしても変えられない部分は本当にごくわずかで、ほとんどの障壁は周囲の理解と工夫によって充分に乗り越えられるのだと、障害学は言っているのです。
障害そのものを克服することは、確かに難しいかもしれません。しかし、便利な福祉機器やUD(ユニバーサルデザイン)を上手に活用すれば、障害によるハンディを感じずに生活することができます。
僕は脳性マヒのため自力での歩行はできませんが、電動車椅子に乗ることで移動面でのハンディキャップを解消しています。また、文字盤やトーキングエイドを使うことで、言語障害による不自由さを補うことも可能です。
能力面でのハンディを機械によって補填することができれば、それはもう障害ではなくなります。
- 言語障害があるため発話が難しい
- トーキングエイドを外出時に持ち歩く
- 人とのコミュニケーションが簡単に!
わかりやすいプロセスを御紹介しました。このような工夫がいくつも積み重なって、僕の日常は成り立っています。
決して特別なことではありません。視力の悪い人はメガネをかけます。それと同じことなんです。歩くことができないから、車椅子に乗る。自分でしゃべることが難しいから、トーキングエイドを使う。障害があるからできないと決めつけるのではなく、どうすればできるのかをまず考える。試行錯誤を重ねれば、アイディアは自然と浮かんでくるものです。
障害は、目に見えるものだけではありません。外見からではわかりにくい例として、識字障害が挙げられます。識字障害はLD(学習障害)の一種に分類され、文字の読み取りが難しいことが特徴です。ハリウッドの有名俳優がこの障害をカミングアウトするなど、世界的にも認知度が高まりつつあります。
識字障害によるハンディには、電子機器が有効です。たとえば授業中、先生の話をテープレコーダーに録音してあとで聴けるようにすれば、黒板の文字をその都度読み取る必要がないので授業に集中できます。また、公共施設などでも、文字による案内表示と音声ガイダンスを組み合わせれば、より広い障害特性の人をカバーすることができます。
けれど残念なことに、ハンディを特殊な工夫によって補うという発想に対して、日本は理解が遅れている面があります。
教育現場はとくに保守的なのか、(他の子も同じ条件なのだから)(本人がもっと努力するべきだ)などと、障害を持つその子のほうをまわりに合わせようとする傾向が強いのです。
識字障害の人たちが、日々どのような環境に置かれているかということへの想像力が欠けているのですね。学習障害の原因は決して本人の努力不足ではない。周囲のちょっとした理解と工夫で救われるのだということを、この機会にぜひ知ってください。
周囲の無理解と、偏見。
障害者の社会参加には、必ずといっていいほどこのふたつのハードルがつきまといます。
広汎性発達障害のために時間の管理が不得意な人がいます。そのせいでしばしば仕事にも遅刻してしまうのですが、こういう障害特性なんだといくら説明しても、まわりの理解は得られません。発達障害という単語はなんとなく頭に入っていても、時間管理は社会人として必須スキル、という固定観念があるため、上司や同僚には(ただただ時間にルーズな人)としか映らないのです。
こうした場合、単純に遅刻を許してほしいと訴えても問題の解決にはなりません。組織は一定の枠組みを必要としますから、それに沿った行動を社員に求めるのは当然です。
まずは、その枠組みが本当に合理的なものであるかを上司と本人で確認し、多少遅刻したとしても業務に支障が出ない部署に配属してもらうといった話し合いが必要になります。
障害は、当事者のみの問題ではありません。むしろ、(障害を持った個人を社会がどう見るか)ということのほうが重要なのであって、その延長線上にノーマライゼーションやインクルーシブの思想があります。
どんなに活動的で能力があっても、その人の障害をマイナスとしか見なさず、閉鎖的な環境に閉じ込めておくような社会なら、せっかくの才能も活かされずに終わってしまいます。逆に、障害をたんなる特性としてとらえ、そこからあらゆる可能性を見つけていけるような社会なら、どんなに重い障害があってもその人は充実した人生を過ごせるでしょう。
障害を社会で受け入れるモデルケースとなるのは、スウェーデンです。世界でもトップクラスの福祉先進国であるスウェーデンは、障害者が暮らしやすい国としても知られています。
スウェーデンの福祉システム(スウェーデン・モデルと呼ばれます)についての本を読むうちに、僕のなかでひとつのイメージが出来上がっていきました。
「障害者にきびしい国」
これが、僕にとってのスウェーデン像です(もちろん、いい意味で)。
第一に、よほどのことがないかぎり障害者とは呼ばれません。少しぐらい足が不自由でも、その人は(歩くのが多少苦手な健常者)と見なされ、就労などの機会は平等に与えられます。日本で障害者に認定されている人の7割以上がスウェーデンでは健常者と呼ばれるのではないかと、あるエッセイに書いてありました。障害者の定義が日本とはまるで違うのです。
障害者にきびしいといっても、決して冷たく扱うわけではありません。実際はその逆で、必要なサポートは惜しみなく提供します。
電動車椅子でバスに乗るのは当たり前。リフト付きタクシーがごく普通に街中を走っている……こんな住みやすい国なら、僕も移り住みたいです。障害を社会全体で受け入れる土壌がしっかり育っているから、当事者の立場になっても自分ひとりで悩まずにすむ。日本もこの視点を学んでいくべきです。
(障害をつくるのが社会なら、障害を受け入れるのも社会の役割である)
障害学を通して得た結論です。 立石芳樹 (たていし・よしき)
2015年7月 6日 朝日新聞