◆本県選手出場契機に浸透を◆
知的障害者のスポーツの祭典・スペシャルオリンピックス夏季世界大会が、きょう米ロサンゼルスで開幕する。177の国と地域から参加したアスリート7千人を含む約1万人の選手団が8月2日までの9日間、25の競技で熱戦を繰り広げるとともに、交流を図る。
日本からはコーチも含め118人が水泳、陸上、ボウリング、卓球、テニスなど11競技に参加。本県からはただ1人、ゴルフ競技に延岡市の日吉健文さん(38)が出場する。日吉さんは同競技で唯一の日本人選手でもある。ゴルフ歴12年。これまで週に1時間半の練習を重ねてきた。その成果を余すところなく発揮してきてほしい。
県内からは過去4人
スペシャルオリンピックスは、知的障害者にスポーツのプログラムや、その成果発表の場としての競技会を提供する国際的スポーツ組織。ケネディ元米大統領の妹の故ユニス・ケネディ・シュライバーさんが1963(昭和38)年に創設した。その世界大会は68年にシカゴで第1回大会が開かれ、現在は五輪と同じく夏季、冬季大会がともに4年に1度、開かれている。
本県の選手としては、2007年にあった上海大会のゴルフ競技と、13年に韓国・平昌で(ピョンチャン)開かれた冬季大会のスノーシューイングという競技に、それぞれ2人ずつ、計4人が出場している。
05年に長野で冬季大会が開かれた際には、本県でも聖火リレーが行われ、スペシャルオリンピックスの存在はずいぶんと知られるようになった。しかし、オリンピックとセットで開かれる身体障害者の大会・パラリンピックなどと比べると、まだまだその認知度は低いと言わざるを得ない。
主な目的は社会参加
スペシャルオリンピックスの最大の目的は、知的障害者にスポーツを通して自信と勇気を持ってもらい、ひいては社会参加を促すことにある。03年に設立されたスペシャルオリンピックスの本県組織「スペシャルオリンピックス日本・宮崎」(中馬光久会長)によると、県内でもこの12年間、スポーツによって大きな成長を遂げた知的障害者は多いという。
本県の現在の競技人口は100人強。だが、実際にはその2~3倍の潜在人口がいるという。そうした人々を掘り起こし「知的障害者のスポーツ」の裾野を広げていくには、ボランティアも含め多くの支援も必要だ。まずは知的障害者のスポーツがもたらす成果と意義をもっと多くの人が知ることから始める必要がある。今回の本県選手の同夏季世界大会への出場をその大きな契機ととらえたい。
世界陸上、世界柔道、全国高校野球選手権…。これから大型のスポーツ大会がめじろ押しで、今夏もそこで生まれる多くのドラマが見る者に感動を与えてくれることだろう。それらを堪能する傍らで少しでもいい、日本ではまだ途上にある「知的障害者のスポーツ振興」に意識と関心を注ぎたい。
4月の統一地方選で、聴覚障害者の女性2人がそれぞれ東京都北区議選と兵庫県明石市議選で当選した。議会は2人の支援に乗り出しているが、健常者と比べて政治活動の金銭的負担は大きい。専門家は「当事者と対話をしながら、必要なサポートをしていくことが重要だ」と指摘する。
「障害がある児童に対する教育について質問します」。先月25日の北区議会の一般質問。斉藤里恵区議(31)がパソコンに入力した内容が音声に変換され、スピーカーを通じて議場に流れた。
「筆談ホステス」だったことで知られる斉藤区議は1歳10カ月で聴力を失い、スムーズに言葉を話せない。当選後、区議会は音声を専用ソフトが文字に変換し、タブレット端末に表示するシステムを導入。斉藤区議の発言はパソコンの文章を音声にして議場に流す。以前から聴覚障害者の傍聴対応として検討されており、斉藤区議の当選が導入を後押しした。
ただ、システムを初めて使った5月の臨時議会では「区長」が「苦労」になるなど誤変換が目立った。委員会の質疑ではミスが増え、斉藤区議は「(議会側の)要約筆記がなければ理解が難しかった」という。
斉藤区議は議会外での活動のため、文字変換ソフトを自前でも購入。それでも付き添いが必要になることが多く、事務所の担当者は「人件費も余分にかかる」と話す。
明石市議会は、生まれつき耳が聞こえず、話すことができない家根谷敦子市議(55)をサポートするため、議会や委員会で手話通訳者を公費で配置した。先月22日の一般質問では、壇上の家根谷市議が手話で質問し、議場の後方で通訳者が声に出して内容を伝えた。
家根谷市議は選挙では家族が手話を通訳し、支持を訴えた。明石市議会の政務活動費の規約に手話通訳者の手配に関する項目がなく、現在は議会外での通訳者手配は自己負担となっており、市議会は規約の改正を検討している。
立命館大学の長瀬修客員教授(障害学)は「障害者が議員になり、議会のバリアフリー化が進むのは良いことだ。議員活動の中で出た意見を取り入れながら、資金面などの支援をしていくことが大切だ」と話している。
2015/7/25 日本経済新聞
成年後見制度で後見人や保佐人が付くと公務員になれないとする地方公務員法の規定は、法の下の平等などを定めた憲法に違反するとして、知的障害者で元大阪府吹田市臨時職員、塩田和人さん(49)が24日、市を相手取り、職員としての地位確認や約950万円の損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こした。
訴状によると、塩田さんは平成18年6月に臨時職員(1年更新)として採用され、データ入力業務などに従事。ところが22年に唯一の家族だった父親=死亡=ががんで余命宣告を受けたため、大阪家裁の審判を経て司法書士の保佐人を付けたところ、23年5月末に更新が認められず失職した。
塩田さんはその後、保佐人を補助人に変更する申し立てが家裁で認められて復職。しかし24年5月末、市が採用の更新を拒んだため、再び職を失った。
塩田さん側は、成年後見制度の利用はそもそも市側が勧めたのに、職を失うことになる地公法の規定を説明しなかったと主張。規定は法の下の平等を定めた憲法のほか、障害者の社会参加を促す障害者権利条約に違反するとも訴えている。
同制度をめぐっては東京地裁が25年、後見人が付くと選挙権を失うとした旧公職選挙法の規定を違憲・無効と判断し、法改正された。
成年後見制度 知的障害や認知症などで判断能力が不十分な人が、財産管理や契約行為で不利益を被らないよう支援する制度。平成12年に導入された。本人らから申し立てを受けた家裁が、本人の判断能力から保護の必要性の高い順に「後見人」「保佐人」「補助人」として親族や司法書士らを選任する。後見人と保佐人が付いた場合、公務員や医師などの地位は失われる。
2015.7.24 産経ニュース
埼玉県警は23日、深谷市黒田、NPO法人「ぶどうの木」代表理事の男(67)を準強制わいせつ容疑で逮捕した。
発表では、男は5月16日午後、同市のホテル内に知的障害のある20歳代女性を連れ込み、体を触るなどわいせつな行為をした疑い。調べに、男は「気持ちを抑えられなかった」と供述している。
同法人は障害者の自立を支援しており、女性は同法人が経営する同市のグループホームの入所者。就労支援施設の職員が「ホテルに行った」などと女性から聞いて、5月末に県警に相談した。「カラオケに行こう」と連れ出されていたという。
化粧ができたり、デモに参加して大声で叫んだりと、平和を手に入れた戦後七十年間に人々が刻んだ喜びの日を五回シリーズで取り上げた連載「わたしの記念日」。反響編として、読者から募った「あなたの記念日」の一部を紹介する。
◆岐阜空襲の翌日
一九四五(昭和二十)年七月九日夜、岐阜市の市街地は空襲で80%を焼失。当時、五歳の吉原勘太郎さん(75)=名古屋市中川区=も逃げ惑った一人だ。
「両親と妹の四人で防空壕(ごう)に逃げましたが、岐阜駅の方からB29が迫って焼夷(しょうい)弾がヒュルヒュルと落ちてくる。ここじゃダメだと小学校に逃げ、恐ろしくて震えていました」
翌十日、母の実家に身を寄せた吉原さん。ほぼ一日がかりで歩くと、日も暮れかかっていた。
「叔母が温かく迎えてくれました。出されたのが、芋ご飯とすいとん。茶わんを口に近づけると、サツマイモの甘いにおいがした。何も食べていなかったから、ガツガツと二、三杯はおかわりしたのでは。叔母の『たんと食べんさい』という言葉が、一番やさしい思い出です」
自由律俳句を詠む吉原さん。平和を願い、あの日の思いをしたためた。
「すいとんでしのいだ遠い日のちゃぶ台」
◆妻と結ばれた日
戦死した叔父の名を付けてもらったという吉永彰さん(70)=滋賀県彦根市=は戦後七十年がそのまま人生と重なる。妻みち子さんと結婚式を挙げた七二年十月一日、そのころ、日本は活気にあふれていた。
「ピアノや自動車販売の仕事をしました。頑張れば頑張るほど売れて、いい時代でしたね。妻には、着物もウエディングドレスも着せてあげられた。それも平和な時代だからこそ。年を重ねるにつれ、感謝の思いが強くなっている。会ったことのない叔父の墓参りを欠かしません」
二〇〇一年に妻、〇七年に次男を病気で亡くし、今は自宅を処分してマンションで一人暮らし。
「まさかの連続で食欲もなく、不眠も続き八キロ近くやせました。今、ようやく一人暮らしに慣れ、時折、アルバムの楽しかったころを思い眺めています。健康な間に見聞を広げたいと一人旅をしています」
◆中部国際空港(セントレア)開港日
片桐幸一さん(65)、てるゑさん(66)夫妻=三重県桑名市=の記念日は、セントレアが開港した十年前の二月十七日。イベントで大好きな空港キャラクター「なぞの旅人フー」と記念撮影し、北海道へ旅立った。
「私たち障害者の夫婦が、空港の建設中から思い描いていた夢がかないました。札幌のホテルの窓からは雪が舞い、眼下の駐車場の車はホワイトチョコレートのようでした」
あれから十年。弱視だった幸一さんは視力を完全に失い、てるゑさんは肺が圧迫されて二十四時間の酸素吸入が必要になった。外出もままならない。
「障害者同士が支え合う毎日は戦争ですが、本当の戦火をくぐり抜けた人と比べると大したことない。一生懸命働いたお金で旅した思い出は今も宝物です」
2015年7月25日 中日新聞