■広島・長崎・核〈中〉
1945年8月9日未明、南海の小島、テニアンを米軍のB29編隊が飛び立った。広島に続く2発目の原爆を搭載した爆撃機「ボックス・カー」のほか、気象観測機、計測機、写真撮影機からなる構成だった。
写真撮影機には、米軍人に交じって、英国人2人がオブザーバーとして搭乗していた。
その一人が当時27歳の空軍大佐、レナード・チェシャーだった。対ドイツ戦線では爆撃航空団長として対空砲火をかいくぐり、何度も奇跡的に生還した伝説の持ち主だ。核兵器が実際に使用される場面を軍人の目で見守らせ、今後に生かそうという首相、チャーチルの意向で派遣された。
原子雲は完全なまでの対称性を保って長崎の上空へと巻き上がってきた。「『私に抗して戦うことはできない』と宣言しているかのようだった。安堵(あんど)と、やっと終わったという希望の後から、そのような兵器を使ったことに対する嫌悪感がこみ上げてきた」と後年、著書で振り返っている。
戦後、彼の人生は一転した。福祉財団を立ち上げ、障害者のための施設運営に奔走した。生前を知る人は「一種の聖人だった」と語る。現代の英国では、レナード・チェシャーという名を聞けば、障害者福祉を思い起こす人の方が多い。
その転身の陰に何があったのか。
■英軍人、正当化と苦悩と
長崎の原爆投下を米軍の写真撮影機から目撃したチェシャーは、その機中では違和感を覚えていた。「あの飛行のすべては、私が慣れていたものとは違った」
ドイツ空襲で英空軍爆撃団が使った飛行機は空調設備がなく、チェシャーたちはできるだけ厚着をして、上空の凍える寒さに耐えた。これに対して、はるかに高くを飛ぶ米軍のB29は快適で、防弾服を着けず半袖でいられた。
「対空砲の射程の外で居心地の悪い思いだった。公正ではないと感じられた」
原爆投下作戦の後、チェシャーはハワイ、米本土を経由し英国へ戻った。「原爆には戦争の意味をなくすだけの威力があり、各国が保有すればむしろ平和につながる」。翌9月、首相のアトリーにそう報告し、任務を完了。空軍を退役したのはその直後だった。
軍人最高の勲章を受け、栄達を約束されているなかでの唐突な終わりだった。後年、長崎原爆の経験が理由かと問われると強く否定し、長年戦い続けて「もうたくさんだ」という気になったからだ、と説明した。
それでも、核について、機会があれば自らの体験を語った。日本の学者らと、原爆投下をめぐって火花を散らしたこともある。
亡くなる前年の1991年、ロンドンの帝国戦争博物館で開かれた太平洋戦争開戦50年の国際会議。当時の朝日新聞の記事や出席者によると、チェシャーは、「原爆投下が戦争を早く終結させ、多くの人の命を救った」との典型的な正当化論を語った。
これに対して、日本から出席した外交史の専門家で、国際大学教授だった細谷千博が「原爆投下には英国もかかわった。原爆投下を犯罪という意見もある」と指摘した。チェシャーは「もちろん英国はかかわっていた。原爆投下の理由を聞くのは、なぜ英空軍がヒトラーを爆撃したか、と同じ質問だ。原爆投下は犯罪ではない」と反論した。
「原爆投下だけが犯罪か。東京大空襲では原爆を上回る死者が出た」と投げかけた独フライブルク大学教授だったベルント・マルティン(74)には、こう応じた。「ドイツに原爆を投下せよと言われたら、一切ためらわずに決行したはずだ」
しかし、彼の内面では、違和感もぬぐえずにいた。
原爆投下作戦から米本土に戻る際に乗った軍用便には、原爆関連の物資も搭載されていた。乗り合わせた米兵たちが「何とすばらしい体験だ」と話すのを聞き、チェシャーは我を忘れて「私はそうは思わないね」と叫んだ。機内は険悪な雰囲気になったという。
帝国戦争博物館の元館長で軍事史家のノーブル・フランクランド(93)は「確かに彼は核抑止論を信じ、広島と長崎への原爆投下は必要だったとも考えていた。だが同時に、それがもたらした結果を見て、深い悲しみも感じていた」。かつて英空軍に所属し、チェシャーとともに飛んだ経験もあって親しかった。
チェシャーは著書で、原爆は終戦を決定づけたと主張する前に、こうも記した。「あの1発の爆弾がもたらした恐怖と共に生きなければならないことは、つらい体験であり、個人的には大いなる後悔の源だ」
欧州戦線での戦略爆撃と、日本への原爆投下の双方に関わったチェシャー。
彼は、どちらもやむない手段だったとの信念を抱くと同時に、原爆による人道的被害に対しては良心の苦悩も抱え続けた。原子雲の目撃者から福祉の道へ転じた歩みには、その葛藤が映っている。(ロンドン=梅原季哉)
■米開発の地、問われる原爆観
原爆を使用した米国は、投下をどう考えているのか。
長崎原爆の原材料のプルトニウムがつくられた米ワシントン州ハンフォードの「B原子炉」。国定史跡として保存され、原爆開発を推し進めた「マンハッタン計画」の歴史が展示されている。
ここには、原爆を投下した側の論理があった。
《8月14日、我々の爆弾が平和をつかみ、ジャップ(日本人の蔑称)は降伏した》と書いた70年前の地元紙の号外。世界初の本格的な原子炉の稼働を誇る技術者の証言ビデオ。原爆投下そのものについてはキノコ雲の写真がある程度で、地上で何が起きていたかはいっさい紹介されていない。
この地でいま、米国人の原爆観を問う計画が進んでいる。ハンフォードなど、マンハッタン計画の関連施設のあった全米3カ所を国立公園として整備する。展示も全面的に見直す方針だ。
展示内容の決定を担当する米国立公園局の副局長、ビクター・ノックス(61)はこの4月にハンフォードを視察した際、地元住民との交流会で述べた。「ここでつくられた爆弾は、世界の歴史を変えた。公園は原爆開発と、戦争に打ち勝つために困難に耐えた労働者らについて語るものになるでしょう」
国立公園化に対する地域の期待も大きい。公園化に動いた地元の元連邦議員は「B原子炉はたった18カ月でつくられたという。国立公園も同じペースで開園してほしい」と発言して、会場の笑いを誘った。地元紙には《年間1万人だった観光客が10万人に増えるのでは》との予測が載った。
ただ、米国内では「原爆を礼賛する展示になりかねない」との懸念も広がる。
念頭にあるのは、典型的な正当化論が根強く浸透している現実を浮き彫りにした20年前の「スミソニアン論争」だ。米国立スミソニアン航空宇宙博物館が戦後50年に広島・長崎の被爆資料の展示を計画したところ、退役軍人団体などの抗議で挫折した。
「あのときも『バランス』を目指しながら実現できなかった。その教訓を学んでいるのか」。首都ワシントンで先月、開かれたマンハッタン計画70年のシンポジウムで、会場から声が上がった。国立公園局の担当者、パトリック・グレガーソンは答えた。「破壊的な歴史につながったという側面もある。すべての話を聞き、バランスが取れた視点を目指したい」
第2次世界大戦の終結直後、米国民は圧倒的に原爆を肯定。45年8月のギャラップ社の世論調査では85%が投下を支持した。その後の研究で、原爆開発にかかった巨費の正当化▽ソ連との外交上の駆け引き▽日本への憎悪・復讐(ふくしゅう)心――といった、典型的な正当化論と異なる側面もわかってきた。それでも今年4月発表のピュー・リサーチ・センターの調査では、投下を正当化できると答えた割合は高齢層(65歳以上)を中心に56%にのぼった。
スタンフォード大学の歴史学教授、バートン・バーンステイン(78)は言う。「スミソニアン論争後、米国民は原爆投下の功罪について関心を失ってしまった。ただ、原爆使用の是非の問題は米国人のナショナリズムに深く根ざしている」
国立公園局などは近く、国立公園化の基本構想を発表するという。=敬称略(ハンフォード=中井大助、田井中雅人)
■編集後記
私にとって長崎は、記者として歩み始めた原点の地だ。個人的には、「爆弾が平和をつかんだ」などと称賛する声は、とうてい受け入れられるものではない。
ただ、もともとナチスに抗する純粋な正義感から原爆開発に関わった人々がいたことも事実だ。そのナチスとの戦いから転じ長崎原爆に関わったチェシャーが抱いた葛藤を知り、胸を突かれる思いがした。
過去の原爆観は現在にも反映され、原爆礼賛は今後の核使用をも容易にしかねない。加害と被害が複雑に絡む中だからこそ、両者の対話が必要だと感じる。
チェシャーが原爆正当化論を語った国際会議があった帝国戦争博物館。広島に投下された原爆リトルボーイを収納するために5個作られた金属製外殻のうち、現存するスペアの実物が展示されている
2015年7月27日 朝日新聞