障害者が普通に働ける社会を作りたい
パラスポーツの体験会で、ほぼ必ず見かける柔道家がいる。滑らかな口調と、軽快なトークが人を引き寄せる。声の主は、2008年北京パラリンピック日本代表(視覚障害)の初瀬勇輔(37)だ。現役選手を続ける傍ら、多くの団体や企業の役員を務める初瀬の行動力の源には「障害者となり、エントリーシートを送った120社に面接を受けさせてもらえなかった」経験がある。
最初の転機は、浪人中の19歳。左目を閉じると、右目の視野が欠けていた。緑内障だった。弁護士を目指して中央大法学部に進学。だが、2年生だった23歳の時、今度は左目が緑内障に。現在は、中心視野がなく、正面にいる人の顔や姿は見えない状態だ。当時は幸い、学業支援のために後輩が2年間も付き添ってくれるなど、周囲が支えてくれた。
大学4年だった05年夏、友人から視覚障害者柔道の存在を聞いた。日本視覚障害者柔道連盟に連絡すると、「11月に全日本大会がある。県で3位になったなら、出場しては?」と勧められ、7年ぶりに畳に上がった。中学・高校時代の友人らが一緒にけいこしてくれた。初出場の全日本大会の90キロ級で優勝。翌06年フランスでの世界選手権にも出場し、アジア・太平洋の障害者スポーツ大会・フェスピックでは金メダルを獲得した。
就職活動期を迎え、柔道で日本王者になった初瀬は「就職はすぐに決まるだろう」と考えた。だが、その思いは、打ち砕かれる。障害者雇用制度のある国内企業約120社に応募したが、面接に進んだのは2社のみ。うち障害者が従業員の9割を占める人材紹介会社への就職が決まった。
この経験を経て、11年には障害者雇用コンサルティング会社「ユニバーサルスタイル」(本社・東京都豊島区)を創業。いずれも柔道選手で、16年リオ大会に、夫婦選手で初めてパラリンピックの同一種目に同時出場した広瀬悠、順子夫妻(ともに伊藤忠丸紅鉄鋼)や、12年ロンドンで金、16年リオで銅メダルを獲得した正木健人(エイベックス)らの就職を橋渡しした。17年からは企業向け健康経営コンサルタント会社の社長も務め、現在は自分を書類だけで「落とした」会社との仕事も少なくないという。
20年大会を前に、パラアスリートの雇用は増えた。だが、東京大会後の21年には「パラバブル」が弾けると言われる。初瀬は「僕が今、働けるのは幸運だったから。21年までに、障害者が普通に働けるように世の中のシステムを作りたい」。
では、「選手・初瀬勇輔」の目標は? 16年リオ大会への日本代表選考会で「指導」一つの差で8年ぶり出場を逃した。東京大会への気持ちを尋ねると「出るだけではなく、メダルが取れる選手として出場したい」。東京で、表彰台の中央に立つ39歳の初瀬を、ぜひ見たい。=敬称略

(毎日新聞社オリンピック・パラリンピック室委員・山口一朗)