1975年6月1日、大分県で第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)が開幕した。当時皇太子ご夫妻の天皇、皇后両陛下は大分市営陸上競技場での開会式に出席された。梅雨入り前の快晴。陛下は「困難を乗り越え、この大会に参加された皆さんの姿が、多くの身体障害者に希望と励ましを与えると思います」とあいさつした。
海外17の国と地域から選手約200人を迎えたフェスピックは、資金の多くに寄付金を充てるなど草の根の力で開催された。両陛下はアーチェリーや陸上などの競技を観戦し、選手と和やかに言葉を交わした。選手宣誓をした吉永栄治さん(78)は「両陛下の出席で大会は注目され、盛り上がった」と振り返る。
「手作り」の大会に両陛下が出席した背景に、実行委員会事務局長を務めた別府市の整形外科医、中村裕(ゆたか)さんとの親交がある。障害者スポーツの発展に精力的に活動していた中村医師が両陛下と初めて会ったのは60年代初め。英国で開かれた「国際ストーク・マンデビル大会」に出場した日本人選手と、選手を率いた中村医師を、陛下は東宮御所に招いた。陛下が名誉総裁を務めた64年の東京パラリンピックでは中村医師が選手団長を務めた。
65年10月、中村医師は障害者が働く施設を別府市に設立する。「障害者に仕事は無理」「働かせるのはかわいそう」という考え方が根強く残る当時、「保護より機会を」の信念で障害者の社会参加に奔走した。「太陽の家」と名づけたその施設を両陛下は66年に初めて訪ねた。その後も太陽の家の関連施設の訪問を続けている。
81年9月29日夜、別府市のホテルで「障害者の雇用」をテーマにした懇談会が開かれた。中村医師の他、ソニー創業者の井深大氏、オムロン創業者の立石一真氏、ホンダ創業者の本田宗一郎氏らが参加。中村医師から障害者雇用の意義を説かれ、協力した経済界の重鎮たちだった。
この懇談会に「第1回全国豊かな海づくり大会」への出席のため大分に滞在していた両陛下も参加した。陛下の発言が記録に残る。「学校の教育だけでは身障者と健常者が仲良く暮らしていける気持ちを育てるのは難しい。学校教育と家庭が一緒になって区別のない社会を作り出すことが大切ではないでしょうか」
中村医師の妻廣子さん(79)は「夫は誰に対しても並外れた熱意をぶつける規格外の人だった。障害のある人とない人の共生を目指した熱意を、陛下は受け止めてくださったのだと思う」と振り返る。
陛下が示してきた障害者に寄り添う姿勢。その源流に、福祉の発展に生涯をささげた人物との出会いがあった。
中村医師は84年に57歳で急死。陛下は皇后さまと連名でお悔やみの言葉を届けた。「大変おしい方を亡くされて残念です」
2015年10月、太陽の家の創立50周年式典が別府市で開かれた。フェスピックで宣誓し、太陽の家で働いた吉永さんは「大きな希望に向かって走り続けた」と、中村医師と過ごした日々を記念スピーチの中で語った。両陛下はこの式典にも出席し、スピーチに拍手を送った。吉永さんは「陛下のあたたかいまなざしに、多くの人が力づけられてきた」と話す。=つづく
1975年6月1日、大分県で第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)が開幕した。当時皇太子ご夫妻の天皇、皇后両陛下は大分市営陸上競技場での開会式に出席された。梅雨入り前の快晴。陛下は「困難を乗り越え、この大会に参加された皆さんの姿が、多くの身体障害者に希望と励ましを与えると思います」とあいさつした。
海外17の国と地域から選手約200人を迎えたフェスピックは、資金の多くに寄付金を充てるなど草の根の力で開催された。両陛下はアーチェリーや陸上などの競技を観戦し、選手と和やかに言葉を交わした。選手宣誓をした吉永栄治さん(78)は「両陛下の出席で大会は注目され、盛り上がった」と振り返る。
「手作り」の大会に両陛下が出席した背景に、実行委員会事務局長を務めた別府市の整形外科医、中村裕(ゆたか)さんとの親交がある。障害者スポーツの発展に精力的に活動していた中村医師が両陛下と初めて会ったのは60年代初め。英国で開かれた「国際ストーク・マンデビル大会」に出場した日本人選手と、選手を率いた中村医師を、陛下は東宮御所に招いた。陛下が名誉総裁を務めた64年の東京パラリンピックでは中村医師が選手団長を務めた。
65年10月、中村医師は障害者が働く施設を別府市に設立する。「障害者に仕事は無理」「働かせるのはかわいそう」という考え方が根強く残る当時、「保護より機会を」の信念で障害者の社会参加に奔走した。「太陽の家」と名づけたその施設を両陛下は66年に初めて訪ねた。その後も太陽の家の関連施設の訪問を続けている。
81年9月29日夜、別府市のホテルで「障害者の雇用」をテーマにした懇談会が開かれた。中村医師の他、ソニー創業者の井深大氏、オムロン創業者の立石一真氏、ホンダ創業者の本田宗一郎氏らが参加。中村医師から障害者雇用の意義を説かれ、協力した経済界の重鎮たちだった。
この懇談会に「第1回全国豊かな海づくり大会」への出席のため大分に滞在していた両陛下も参加した。陛下の発言が記録に残る。「学校の教育だけでは身障者と健常者が仲良く暮らしていける気持ちを育てるのは難しい。学校教育と家庭が一緒になって区別のない社会を作り出すことが大切ではないでしょうか」
中村医師の妻廣子さん(79)は「夫は誰に対しても並外れた熱意をぶつける規格外の人だった。障害のある人とない人の共生を目指した熱意を、陛下は受け止めてくださったのだと思う」と振り返る。
陛下が示してきた障害者に寄り添う姿勢。その源流に、福祉の発展に生涯をささげた人物との出会いがあった。
中村医師は84年に57歳で急死。陛下は皇后さまと連名でお悔やみの言葉を届けた。「大変おしい方を亡くされて残念です」
2015年10月、太陽の家の創立50周年式典が別府市で開かれた。フェスピックで宣誓し、太陽の家で働いた吉永さんは「大きな希望に向かって走り続けた」と、中村医師と過ごした日々を記念スピーチの中で語った。両陛下はこの式典にも出席し、スピーチに拍手を送った。吉永さんは「陛下のあたたかいまなざしに、多くの人が力づけられてきた」と話す。
「太陽の家」を見学される皇太子ご夫妻時代の天皇、皇后両陛下。左から3人目は中村裕医師
■ことば
国際ストーク・マンデビル大会
パラリンピックの前身とされる国際的な障害者のスポーツ大会。英ロンドン郊外にあるストーク・マンデビル病院のルードウィッヒ・グットマン医師が、第二次世界大戦で負傷した兵士のリハビリにスポーツを取り入れたことに始まる。1948年、同病院でアーチェリー大会が開かれ、52年には他国も参加して国際ストーク・マンデビル大会になった。64年の東京大会で「パラリンピック」との名称が使われ、後に定着した。
毎日新聞 2018年6月19日