本記事は、中途頚椎損傷で車椅子生活を送る三代達也さんについて書かれた古川雅子さんのご記事「障がいがあっても、一歩踏み出す勇気を――車いすで世界を旅して分かったこと」に対する私見です。
三代さんが中途障害者となられてからの再起とその後のチャレンジを、私は心から讃えます。また古川さんも、日本の障害者が置かれた状況への深いご理解と、三代さんのご活動への敬意を持って書かれたのだと拝察します。爽やかな読後感の、素晴らしい記事だと思います。
しかし、どうしても言わざるを得ないことがあるのです。
古川さんのお名前とともに「Yahoo!ニュース 特集編集部」とクレジットされた記事に物申すのは、正直なところ、吹けば飛ぶような一オーサーとしては怖いことなのですが、怖れをねじ伏せて書きます。
読み終わった瞬間、「素晴らしい」と思いつつ、気持ちがざわざわしはじめました。
時間が経つとともに、直接知る何人もの障害者のやるせない表情が思い浮かびました。
そして「書かなくちゃ」と決意しました。
「輝く障害者」に傷つく人々
どのような形でもかまいません。ある障害者のある側面がポジティブに紹介されるとき、あるいはポジティブに見られる活動をしているとき、傷つく障害者が必ずいます。その障害者たちのの心の中には、
「同じ障害なのに、あなたはなぜ、同じようにできないの? グズグズしてるの? 明るくないの?」
という声が響きます。それは本人が勝手に作り出したものではなく、幻聴でもなく、繰り返し繰り返し暗に陽にぶつけられているうちに、本人の中に内面化されてしまった「世の中」のモノサシです。
私は、それほど注目や賞賛に値することはしていませんが、それでも
「あなたみたいな人がいるせいで、働いていない私が比較されて非難された」
「あなたは大学院まで行けて上場企業に勤務した経歴があったら出来るんだ、恵まれてるからって威張るな」
「あなたが文章を書くせいで、私のような、より恵まれない障害者の声が聞かれなくなる」
というようなことを言われることがあります。
すべて、「はあ? 何? その言いがかり?」で済ませてかまわないはず。
その障害者と私を比較して心ない言葉をぶつけた人は、私ではありません。
私は確かに、同世代女性の中では恵まれた経歴を持っています。バリアを突破する努力はしてきましたが、同等以上の能力があっても努力してもバリアに潰された同世代女性も、多数見てきました。「運がよかっただけ」という思いがあります。でも、大学院修士課程を修了してから約30年後に不当利得であるかのように言われても困るだけです。そう言われても、過去をなかったことにはできませんし。
書きたいのなら、自分の声を聞いてほしいのなら、手段はたくさんあります。困っている何かを変えたいのなら、誰かが読むところに文章を書くことより効率的な手段が数多くあります。
……その方のお気持ちは、そういう言葉で言い表せるようなものではないのだろうとは思います。しかし私は、そういう言葉をぶつけられたら、なるべく冷静に、上記のようなことをお答えします。最初は当惑しましたが、ここ数年は「よくあることだ」となりました。
お答えする時、その方の顔に浮かび上がる悔しさや怒りが入り混じったような一瞬の表情、その次に広がる哀しみを見ることは、何度経験しても慣れません。しかし私は、そのように申し上げます。
特に、私が女性障害者であることに「優しい」「温かい」「受け止めてもらえる」というような期待を結び付けている方には、そのジェンダー規範を背景とした期待にお応えせず裏切ることこそ、私の役割だと思っています。
パーソナルストーリーのパワーを考える
たとえば、貧困地域の子どもの困難について訴えるとき、感情を揺さぶりやすいパーソナルストーリーを使う方法があります。
「A地域のBちゃん(5歳)は、2歳の弟を背負って洗濯や水運びをしています。1年前、歩いて3分のところに井戸ができました。その前は、歩いて10分かかる川まで水を汲みに行っていました。お母さんは弟が生まれる時に死んでしまいました。お父さんは朝から晩まで必死で低賃金労働に就いています」
人の顔を見せず、データに語らせる方法もあります。
「A地域の一人あたり所得の中央値は2.5米ドル。絶対的貧困ラインより少し上ですが、A地域の医療・衛生の状況はよくありません。出産件数のうち3%で産婦が亡くなります。これでも、産婦の死亡率は5年前の6%に比べると向上しました。井戸の密度が増加して……」
同じ地域について語っているとしても、印象は全く異なります。どちらの方法にも、利点と欠点があります。
パーソナルストーリーは、人の感情に訴えかけて行動や思考を変化させる、大きなパワーを持っています。ところが、感情に訴えかけたのは一例、またはせいぜい数例です。感情を揺さぶられた人は、どこかでその例を「モデル」としてしまいます。そして、同様の状況にある別の実例、あるいは、その人にとって好ましくない側面を見た時、「こういう、同情や共感に値しない人たちのためなら、自分は動かなくていいんだ」というネガティブな感情を呼び起こしがちです。
「そういうものなのだ」という読み手の理解、読み手のリテラシーがあれば、パーソナルストーリーは人を傷つけたり無視したりするパワーではなく、より多くの人とつながるパワーを発揮します。
不毛な「理想からの引き算」を止めよう
これは、私自身が貧困を伝える時に常に注意していることですが、どれほど注意しても「充分」ということはありません。
結果として「理想の貧困」「理想のコミュニティ」「理想のマイノリティ」「理想の障害者」「理想の生活保護制度利用者」といった非実在理想像を伝えてしまったことにならないように、「理想じゃないから社会から排除していいんだ」という反応をゼロにできないまでも最小限に出来るように、いつも苦慮しています。
古川雅子さんは、このような問題を当然ご理解の上で、上記の記事を書かれたのでしょう。
私は、三代達也さんと古川さんのご記事に感動された読者の皆さんにお伝えしたいのです。
「その感動が誰かを居心地悪くしないかどうか、少しだけ考えてみていただけませんか?」
と。
障害を受容できない障害者もいます。
そもそも障害者が「障害の受容」を迫られること自体に疑問を感じている障害者もいます。
世間が怖くて外に出られない障害者もいます。
働けないことその他のコンプレックスを、「生活保護で、皆さんの税金で楽しませてもらっています」という露悪的な表現でしか表現できない障害者もいます。
どんな障害者がいても、いいじゃないですか。その人なりの背景があり、その人なりの判断があり、その人の今があるんです。
まずは、「その人はその人なりの最善最良を尽くしたので、今があってその人なりの最善最良であり、たぶんその路線の未来があって最善最良である」と認めていただけないでしょうか。
たとえ、どんなにツッコミどころだらけの過去と現在であっても。
障害発生後、生活の再構築に必要なものは?
私がもう一つ気になったのは、障害者福祉制度の利用について、記事内で全く触れられていなかったことです。もちろん古川さんは、制度に精通していらっしゃることでしょう。
三代さんは、障害基礎年金の対象になるはずです。介護給付(ヘルパー派遣)なども利用しておられるかもしれません。
練馬区は、東京都の中でも障害者福祉が比較的利用しやすいことで知られています。多数の障害者が道を切り開き続けているからです。 代表的な方には、ALSで人工呼吸器を装着して介助を受けてロビイングや陳情に飛び回ってきた橋本みさおさん(Arsviより)がいます。
もちろん、障害者だから障害者運動に参加しなくてはならないということはありません。「生きる」「暮らす」が切り開かれているところに、「外で活動する」「働く」「スポーツする」「踊る」「歌う」、その他もろもろ、選びたい選択肢で(選びたくない選択肢は選ばずに)自分の人生を充実させていくことは、そのまま、障害者と障害者「も」生きる社会を豊かにすることにつながります。
しかし、障害者が全体として健常者より多くの資源を必要とする存在であることそのものは、変えようがありません。
優遇しろとは言いません、せめて平等を
障害の発生した時点がいつであれ、障害者は生きるために、自分自身・家庭・地域社会・自治体福祉・年金システムなどから必要な資源を調達する必要があります。
何がどの程度利用できるかは、人それぞれ事情が異なります。
ここで考えてみていただきたいのは、「資源調達は本人の責任で行わなくてはならないのか?」ということです。「生きる」「暮らす」、すなわち生存に関わるコストを支払うために疲弊していたら、それ以上の活動はできません。
そして障害者の相当数は、そのような状況に置かれているのです。健常者なら直面しなくてよい困難を乗り越えて「生きる」「暮らす」を可能にするところで、既に疲労消耗。あるいは、「生きる」「暮らす」でいっぱいいっぱいの状況に沈めてしまおうという謎の力に抗いながらアップアップ。
これで「社会参加を」「就労を」と言われても困ります。私自身、その謎の力と戦いながら、生活と仕事や学業を必死で守る毎日を送っています。
一人の希望のストーリーを、みんなの希望にするには?
私は「三代さんに、困って苦しんでネガティブで楽しめない障害者になってほしい」などとは、全く思っていません。むしろ、ここまで獲得され蓄積されてきたものを活かして、もっともっと、ご自分の望む達成や充実を続ける姿を見せていただきたいと思っています。そのこと自体が、障害者たちに「自分も、あんなことができるかも」「あんなことをしたいと思っていいんだ」という新しい選択肢を与えます。またその周囲の人々にも、「障害者がああいうことをして悪いわけはないよね?」という可能性の拡大をもたらします。
今は「生きる」「暮らす」がままならない障害者に対しても、同様です。もしかすると、その選択肢に気づいたことの表現は、まず「あの人は恵まれているから出来るんだ」という僻みったらしい言葉で行われるかもしれませんが。
一人の希望がみんなの希望になるために必要なのは、「誰もが、実際に近づける希望である」ということです。
「自分もしてみたいなあ」「自分も出来る範囲で実現する」という思いや言葉や行動が、周辺のすべての人の「すべての人にその資格があり、あなたにもできる」という理解に支えられ、実現方法探しが「生活保護なのに?」などと妨げられずに応援されれば、一人の一つの希望は、実際に、みんなの希望の種になるでしょう。
……このように書きながら、私はどこかで「日本人だから、ここは日本だから、そんなことは無理だ」と思っています。
「2018年9月のあの日、日本には無理だと思ったけど、やればできたじゃないか」
と言える日がくることを望みつつ、本稿を締めくくります。
フリーランスライター(科学・技術・社会保障・福祉・高等教育)