ここのところ、ずっと「北斗の拳」のアニメ版(DVD)を見ていた。
何せ、26巻(152話)もあるし、それぞれに平均6話(1話で約25分)もあるので、平日ならせいぜい2~3話しか見られない。
今更なぜ?と思うかもしれないが、まあちょっとしたきっかけがあるにはある。
いずれにしても、少しずつ見て、この連休でやっと完結!?
と言いたいところだが、実は120話前後あたりで、ついに断念してしまった。
なぜか?
まず、全体の印象としては、「よくもまあ、こんなにいろいろと考えるものだなあ」というものだった。
ただ、最初の方は、とにかく画がヒドかったと思うが・・・
このマンガが連載された1983年頃に、一度「週刊少年ジャンプ」を見たことがあるのだけど、とても流行りそうなものではなかった、と記憶している。
特に、すべての男が好きになってしまう、というほどのヒロイン・ユリアなんて、とてもじゃないけど、「いい女」には見えなかった。
むしろ、「そっくり」と言われながら、まったく顔の違うマミヤの方が、よっぽど色っぽいし。
その後改善されてきたのか、あるいは元々発想が面白かったのか、このマンガは一世を風靡するようになった。
途中から画にも慣れてきて、何とか筋も追えるようにはなったのだが・・・
とにかく、いろんな人物が出てくるのだが、「○○は△△の兄」だの、「□□は××の義弟」だの、人間関係が複雑、と言うよりは、ムチャクチャいいかげんな感じ。
調べてみると、当初は最初に出てくるボスキャラのシンが「ラスボス」になる予定だったそうだが、その後意外にも人気が出てきたので、シンで終わらせるわけにはいかなくなり、次から次へと登場人物を無理やり作り出した、というのがホントのところらしい。
そう考えると、先ほどのように「よくもまあ、こんなにいろいろと考えるものだなあ」と言えるかもしれない。
あと、出てくるザコ・キャラが、判で押したようなモヒカン刈りな上に、大半の連中が「へっへっへ」とか「ひっひっひ」とかうすら笑いばかりの頭の悪い連中ばかり。
そして、ザコの中のボスキャラだけは、なぜか異常にデカい。
こういう設定にも慣れながら(我慢しながら?)、物語は先へ進むわけだけど、終盤でついにキレた。
それは・・・
ユリアの兄であるリュウガ(ジュウザの異母兄でもある)という男が出てきたあたり。
ユリアの兄だから、当然恋人であるケンシロウは、生死はともかく、名前くらい知っているものと思っていたら、「何?ユリアに兄がいたのか」という感じ。
ただ、これはまだいい。
リュウガが、「ケンシロウが救世主に相応しいかどうか確かめるため」に、戦いを挑んだのだけど、敗れた後、実は「戦う前から腹を切っていた」というのだ。
はあ?
戦う前に腹を切る?
いったい、何のために。
劇中では「死を覚悟しているから」というような説明をしていたが、そんなバカなヤツがいるわけがない。
もし戦ってリュウガが勝ったのなら、単にケンシロウが「救世主に相応しくない」というだけのこと。
わざわざ不利な条件で戦う理由などどこにもない。
しかも、この事前腹切りのことを「陰腹」だと言っていた。
調べてみると、「家来などが、あらかじめ腹を切った上で、主君などに対して死をもって訴える」というようなことらしいのだが(「影腹」という言葉もあるが、こちらは意味が少し違うようだ)、相手の力量を量るために戦うのだから、意味合いがまったく違う。
どうして、こんなわけのわからない行動を取らせたのか、理解に苦しむ。
これは「まっ、いいか」で済む問題とも思えなかったわけだ。
そしてその後、「修羅の国」に入っていったあたりで、とうとうついていけなくなってしまった。
だいたい、「15才までに100人相手を倒さなければならない」と言っておきながら、「その生存率は1%」と言っていた時に、思わず「えっ?」と言ってしまったぞ。
咄嗟に数字は出てこなかったけど、「一人が100人倒すのだから、101人いないとおかしい」・・・というのではない。
倒された100人は、自分が倒されるまでぼ~っとしているのか?
そんなはずはあるまい。
つまり、倒す相手も、それまでに何人か倒してきているはず。
となると、簡単に言えばトーナメント方式みたいな感じだから、優勝者(?)が100人倒すためには、2の100乗ということで、それこそトンデモない人数が必要になる。
まあ、まさかそんな計算になるとは思っていなかっただろうけど、とにかく安易な発想の数々に、そろそろ嫌気がさしてきたわけだ。
しかも、修羅の国の勝者(100人倒してきた者)が意外と弱くて、作者も当初の設定を忘れているんじゃないか、と思えるほど。
などと考えているうちに、「もういいや」となったわけだ。
だから、ケンシロウがカイオウを倒すところは、見ていない。
まあ、途中でバテたとは言え、レイの最後や、ラオウとトキ・ケンシロウとラオウの対決などは、いわゆる「感動する」場面だとは思う。
熱狂する人たちが出てくるのも、わかるような気がする。
ただ・・・
あえて揚げ足を取るようなことを言えば・・・
「愛に殉じる」(シン)とか、「愛深きゆえに、愛に苦しむ」(サウザー)とか、最後にケンシロウが「ずっと尊敬していた」みたいな言い方をしていたラオウなどは、何のことはない、自分の欲望のために殺戮を繰り返した、ただの暴力野郎じゃないか。
・・・という気がしないでもない。
戦国武将や三国志に出てくる英雄たちと違い、「自国を守るため」とか「部下を守る」という発想がまったくない。
だから、感動の後に、ちょっとした違和感が残ってしまう。
まあ、登場人物して見れば、キャラの立つ面々ばかりで、面白いと言えば面白いのだろうけど・・・
でも・・・
名セリフは、よく考えていると思う。
「お前はもう死んでいる」なんて、どうして思いついたのか・・・
以上、「北斗の拳」の感想でした。
何せ、26巻(152話)もあるし、それぞれに平均6話(1話で約25分)もあるので、平日ならせいぜい2~3話しか見られない。
今更なぜ?と思うかもしれないが、まあちょっとしたきっかけがあるにはある。
いずれにしても、少しずつ見て、この連休でやっと完結!?
と言いたいところだが、実は120話前後あたりで、ついに断念してしまった。
なぜか?
まず、全体の印象としては、「よくもまあ、こんなにいろいろと考えるものだなあ」というものだった。
ただ、最初の方は、とにかく画がヒドかったと思うが・・・
このマンガが連載された1983年頃に、一度「週刊少年ジャンプ」を見たことがあるのだけど、とても流行りそうなものではなかった、と記憶している。
特に、すべての男が好きになってしまう、というほどのヒロイン・ユリアなんて、とてもじゃないけど、「いい女」には見えなかった。
むしろ、「そっくり」と言われながら、まったく顔の違うマミヤの方が、よっぽど色っぽいし。
その後改善されてきたのか、あるいは元々発想が面白かったのか、このマンガは一世を風靡するようになった。
途中から画にも慣れてきて、何とか筋も追えるようにはなったのだが・・・
とにかく、いろんな人物が出てくるのだが、「○○は△△の兄」だの、「□□は××の義弟」だの、人間関係が複雑、と言うよりは、ムチャクチャいいかげんな感じ。
調べてみると、当初は最初に出てくるボスキャラのシンが「ラスボス」になる予定だったそうだが、その後意外にも人気が出てきたので、シンで終わらせるわけにはいかなくなり、次から次へと登場人物を無理やり作り出した、というのがホントのところらしい。
そう考えると、先ほどのように「よくもまあ、こんなにいろいろと考えるものだなあ」と言えるかもしれない。
あと、出てくるザコ・キャラが、判で押したようなモヒカン刈りな上に、大半の連中が「へっへっへ」とか「ひっひっひ」とかうすら笑いばかりの頭の悪い連中ばかり。
そして、ザコの中のボスキャラだけは、なぜか異常にデカい。
こういう設定にも慣れながら(我慢しながら?)、物語は先へ進むわけだけど、終盤でついにキレた。
それは・・・
ユリアの兄であるリュウガ(ジュウザの異母兄でもある)という男が出てきたあたり。
ユリアの兄だから、当然恋人であるケンシロウは、生死はともかく、名前くらい知っているものと思っていたら、「何?ユリアに兄がいたのか」という感じ。
ただ、これはまだいい。
リュウガが、「ケンシロウが救世主に相応しいかどうか確かめるため」に、戦いを挑んだのだけど、敗れた後、実は「戦う前から腹を切っていた」というのだ。
はあ?
戦う前に腹を切る?
いったい、何のために。
劇中では「死を覚悟しているから」というような説明をしていたが、そんなバカなヤツがいるわけがない。
もし戦ってリュウガが勝ったのなら、単にケンシロウが「救世主に相応しくない」というだけのこと。
わざわざ不利な条件で戦う理由などどこにもない。
しかも、この事前腹切りのことを「陰腹」だと言っていた。
調べてみると、「家来などが、あらかじめ腹を切った上で、主君などに対して死をもって訴える」というようなことらしいのだが(「影腹」という言葉もあるが、こちらは意味が少し違うようだ)、相手の力量を量るために戦うのだから、意味合いがまったく違う。
どうして、こんなわけのわからない行動を取らせたのか、理解に苦しむ。
これは「まっ、いいか」で済む問題とも思えなかったわけだ。
そしてその後、「修羅の国」に入っていったあたりで、とうとうついていけなくなってしまった。
だいたい、「15才までに100人相手を倒さなければならない」と言っておきながら、「その生存率は1%」と言っていた時に、思わず「えっ?」と言ってしまったぞ。
咄嗟に数字は出てこなかったけど、「一人が100人倒すのだから、101人いないとおかしい」・・・というのではない。
倒された100人は、自分が倒されるまでぼ~っとしているのか?
そんなはずはあるまい。
つまり、倒す相手も、それまでに何人か倒してきているはず。
となると、簡単に言えばトーナメント方式みたいな感じだから、優勝者(?)が100人倒すためには、2の100乗ということで、それこそトンデモない人数が必要になる。
まあ、まさかそんな計算になるとは思っていなかっただろうけど、とにかく安易な発想の数々に、そろそろ嫌気がさしてきたわけだ。
しかも、修羅の国の勝者(100人倒してきた者)が意外と弱くて、作者も当初の設定を忘れているんじゃないか、と思えるほど。
などと考えているうちに、「もういいや」となったわけだ。
だから、ケンシロウがカイオウを倒すところは、見ていない。
まあ、途中でバテたとは言え、レイの最後や、ラオウとトキ・ケンシロウとラオウの対決などは、いわゆる「感動する」場面だとは思う。
熱狂する人たちが出てくるのも、わかるような気がする。
ただ・・・
あえて揚げ足を取るようなことを言えば・・・
「愛に殉じる」(シン)とか、「愛深きゆえに、愛に苦しむ」(サウザー)とか、最後にケンシロウが「ずっと尊敬していた」みたいな言い方をしていたラオウなどは、何のことはない、自分の欲望のために殺戮を繰り返した、ただの暴力野郎じゃないか。
・・・という気がしないでもない。
戦国武将や三国志に出てくる英雄たちと違い、「自国を守るため」とか「部下を守る」という発想がまったくない。
だから、感動の後に、ちょっとした違和感が残ってしまう。
まあ、登場人物して見れば、キャラの立つ面々ばかりで、面白いと言えば面白いのだろうけど・・・
でも・・・
名セリフは、よく考えていると思う。
「お前はもう死んでいる」なんて、どうして思いついたのか・・・
以上、「北斗の拳」の感想でした。
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