コナサン、ミンバンワ!2010=平成22年8月も、拙日記を宜しくお願い致します。
毎年8月、私は1カ月間のテーマをおおまかに決めて記事を進める「特集日記」を綴る事にしているんですが、今夏は、幼少時より今日までの折々に世話になった、鉄道の駅に関する想い出などを思うままに記せたら、などと思っている所。
その中より、今の社会にての色んな問題や政治のあり様、そしてこの時季必ず取り上げられる、戦争と平和の問題に触れる事ができればとも思います。
又、ほぼ毎回の事ですが、記事の内何回かは、私の知友各位に宛てた、伝言の文体を取らせて頂ければとも思う次第。この方々とは、なるべく事前に連絡の上、一応の理解を得る様にしようと考えております
まず、最初は私と鉄道駅との最初の出会いの記憶より。
生まれて初めての駅の記憶・・・それは確か、近畿日本鉄道名古屋線の蟹江駅だったと思います。確か1959=昭和34年秋、当地東海一帯に大害をもたらした、伊勢湾台風の襲来より暫く経った後だったと思います。
この台風で近畿日本鉄道も大きな損害を被り、名古屋線は長期休止を余議なくされました。ただ、この事は「怪我の功名」の側面もありました。
同線の復旧に際し、旧国鉄線と同じ線路幅より、新幹線でお馴染みの広めの線路幅だった大阪線に合わせて線路を改修、そのお陰で悲願だった名古屋~大阪間直通特急の誕生に繋がったのは有名な話であります。
この特急の誕生の詳細と、今日までの歩みについては又の機会に触れるとし、今回は割愛致しますが、災害より立ち直った直後の名古屋線に乗って、東三河の母方の祖父が、当時私達の住んでいた海部郡蟹江町(当時)を訪ねてくれた事があり、その帰りを見送ったのが鉄道の駅との最初の出会いではなかったかと記憶しています。
まだ空調もなかった頃の電車に乗り、窓から危険ではないかと思わせる程身を乗り出し、愛用の帽子を振って豊川市の自宅へ帰るべく、名古屋行きの上り列車で帰途につく祖父の笑顔に溢れた姿は、今も鮮やかに、幼かった我が記憶に残っています。*(新幹線)*
毎年8月、私は1カ月間のテーマをおおまかに決めて記事を進める「特集日記」を綴る事にしているんですが、今夏は、幼少時より今日までの折々に世話になった、鉄道の駅に関する想い出などを思うままに記せたら、などと思っている所。
その中より、今の社会にての色んな問題や政治のあり様、そしてこの時季必ず取り上げられる、戦争と平和の問題に触れる事ができればとも思います。
又、ほぼ毎回の事ですが、記事の内何回かは、私の知友各位に宛てた、伝言の文体を取らせて頂ければとも思う次第。この方々とは、なるべく事前に連絡の上、一応の理解を得る様にしようと考えております
まず、最初は私と鉄道駅との最初の出会いの記憶より。
生まれて初めての駅の記憶・・・それは確か、近畿日本鉄道名古屋線の蟹江駅だったと思います。確か1959=昭和34年秋、当地東海一帯に大害をもたらした、伊勢湾台風の襲来より暫く経った後だったと思います。
この台風で近畿日本鉄道も大きな損害を被り、名古屋線は長期休止を余議なくされました。ただ、この事は「怪我の功名」の側面もありました。
同線の復旧に際し、旧国鉄線と同じ線路幅より、新幹線でお馴染みの広めの線路幅だった大阪線に合わせて線路を改修、そのお陰で悲願だった名古屋~大阪間直通特急の誕生に繋がったのは有名な話であります。
この特急の誕生の詳細と、今日までの歩みについては又の機会に触れるとし、今回は割愛致しますが、災害より立ち直った直後の名古屋線に乗って、東三河の母方の祖父が、当時私達の住んでいた海部郡蟹江町(当時)を訪ねてくれた事があり、その帰りを見送ったのが鉄道の駅との最初の出会いではなかったかと記憶しています。
まだ空調もなかった頃の電車に乗り、窓から危険ではないかと思わせる程身を乗り出し、愛用の帽子を振って豊川市の自宅へ帰るべく、名古屋行きの上り列車で帰途につく祖父の笑顔に溢れた姿は、今も鮮やかに、幼かった我が記憶に残っています。*(新幹線)*