Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

「沖縄の心」は強し

2010-08-22 15:49:04 | スポーツ

コナサン、ミンニチワ!立秋、そして処暑の時期を迎えても、依然厳しい残暑の今夏である。

その様な中、昨日、全国高校野球甲子園夏季大会決勝が沖縄代表興南高と、神奈川代表東海大相模高の対戦にて行われ、興南高が13-1にて快勝。沖縄代表としては、高野史上初めての夏季大会優勝並びに同一年の春夏連覇の快挙を果たした。まずは、一言奉祝申したい。

高野初の沖縄代表校、首里高の夏季甲子園大会出場は1958=昭和33年。当然ながら、当時の沖縄は米合衆国の占領統治下であった。選手各位は旅券を持って本土入り、当時の福井代表、敦賀高との初対戦は0-3の敗北を喫するも、本土の観客の反応は暖かく「又是非来る様!」との声援が多く寄せられた由。ただ、記念に持ち帰りを図った甲子園の土が、当時の植物防疫法で外国の土と判断され、那覇港にて投棄処分の憂き目に遭った史実があるのも事実である。

初出場当時は、満足な練習環境も整っていなかったと言われる沖縄代表も、年毎に着実にレベル・アップを果たし、平成初期の1990年前後よりは、甲子園大会にても首位戦線に食い込む力量を見せ始め、優勝の文字も現実を以て語られ始める。更に今年に入って、遂に興南高によって積年の夢が実現に至った次第。春夏連覇は、高野史上6校目と言う事だ。

興南高野球部主将は、「これは、沖縄県民で勝ち取った勝利」との優勝コメントを残したとされる。想えば、先の大戦大東亜戦争こと太平洋戦争時の、唯一の日米地上戦にて広島・長崎の原子爆弾投下被害に匹敵する20万を超える犠牲を生じ、戦後は米合衆国の基地負担などで塗炭の苦しみを味わって来た、沖縄県民各位の強い応援あったればこその栄冠である事は想像がつくと言うものだろう。未だ普天間飛行場移転問題などで揺れ続ける沖縄。それらの解決と並び、此度の快挙が、不況下でも頑張る沖縄県民各位への大いなる希望となる事を、心よりお祈りしたい。

035

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜空~駅の記憶

2010-08-22 02:21:00 | インポート
ミーSAN今晩は。今月の拙日記にても度々触れて参りましたが、立秋、そして処夏の時期を迎えても尚、全国的に猛暑の傾向が続いている様です。貴地元の北日本にても不安定な天候の日が多い様で、全く今夏の空模様は世界的にも「何かがおかしい」と申さざるを得ない様ですね。
水害も多い。報道にては、遂に貴地元の近くでも残念な事故が生じてしまった様ですね。我国も近隣の諸国も、大きな災害が続発している模様。犠牲各位へのご冥福と復興への確かな道が開ける事を祈りたい所。又、お互い引き続き健康安全留意にて、続く秋を迎えたいものであります。

その様な中、先月は親族と共に、新潟・秋田両県の日本海側へ遠出する機会に恵まれました。秋田よりの帰途、夜行列車にて、首都圏を周り、埼玉県下のJR鉄道博物館を見学した事は、前回記事にて触れましたので良ければご参照を。
今回は、表題に沿い、その夜行列車の行程などに少し触れたく思います。
秋田よりの帰途乗り込んだのは、東京上野へと向かう上り特急「あけぼの」で、横になれる座席扱いの車両もありましたが、色々逡巡した末、昔ながらの普通の寝台を選びました。親族も納得してくれた様で、暑かった乗車前、入浴が叶わなかったのがちと残念でしたが、まあ快適な車中ではありました。

道中の深夜2:30am過ぎだったでしょうか。新潟県下にて、もう絶えて久しい汽笛による出発合図を聞き、少しく感激した次第。国鉄の頃は、全国の全列車にて当然の様に吹鳴されていたのですが、1980年代の昭和末期に至って、一部より「騒音ではないか」との主張をきっかけに一斉にとり止められてしまった経緯があるやに聞きました。背景には、欧米の鉄道には汽笛出発合図の習慣がなく、我国も倣うべきとの論調があった模様。事実とすれば、随分安易な事だとも思います。

以前申した記憶もありますが、この問題が生じる少し前、私は以前の勤務先の都合で、神戸市の三宮界隈に1年半程住んだ事がありました。
仕事の都合で、朝よりの日勤と夕方よりの夜勤がありましたが、前者の時は、朝 神戸港へ出入りする大型船の汽笛が目覚まし代わり。夜 寝る時はこれ又、西日本より東京へ向かう夜行特急「ブルー・トレイン」の三宮駅を発つ出発合図にて床に入ったものであります。
この様に、列車の汽笛出発合図は、我国の各地にて時計の代わりに利用されていた地域も多かったのです。そうした習慣を顧みる事もせず「欧米がこうだから、日本も同様にさえすれば」などと言う思潮は随分安易だし、遺憾な事だと思います。想えば、こうした事以外にも、我国内の多くの所でこうした思考が横行している様に思われ、例えば夏の蝉時雨や秋の虫の饗宴など、我々日本人は情趣の音と理解するも、欧米にてはただのノイズと受け取られている由。そんな事共が、真に国民の利益にそぐわないのであれば、それは糾されるべきだと思います。

もう一つ、「夜空」に因む話題を記させて下さいませ。それはこの初夏、奇跡的とも言える帰還を果たした探査衛星「はやぶさ」の事であります。
2003=平成15年の出発以来、7年もの時空と数十億kmもの天文学的な距離を、幾多の障害や不調を乗り越え飛び続け、遂に帰還を果たした姿には、本当に心打たれるものがありました。
大気圏再突入の宿命で、衛星本体は燃え尽きて華と散った訳ですが、宇宙物質を運ぶカプセルは曲がりなりにも無事帰り、今後の調査と解析を待つ事となります。
本当に、最後まで帰還を信じて諦めなかった、関係各位の執念の努力を讃え、偉大な事ができる我国技術の至高さへの敬礼と共に「はやぶさ」自身にも「何があっても、必ず帰る」との強い意思があった事を信じたく思います。一部で囁かれている様な、無駄な所業では決してない。今の、変調を来たした気象の分野への貢献だって可能だと思います。盆の頃続いた曇天により、流星を観る機会を逸したのがやや残念ではあるが、そうした事を想像してみるのも又「夜空」の楽しみだと思うのです。

「はやぶさ」と言えばもう一つ、夜空の下を、地上を行く勇者がありました。
戦後間もなくから昨春まで、ほぼ半世紀もの間、東京と九州を結び走り続けた夜行特急「はやぶさ」がそれ。来年、新青森進出を果たす東北新幹線の新列車としての復帰が決まったのは喜ばしい事ですが、それまでは暫しの間、風雨をついて日夜走り続けたこの特急の事を、夜の名古屋駅より何度か世話になった記憶と添付画像、そして以下の一編と共に振り返りたく思います。

「眼前の闇 見えぬ行き先 だから楽しい 夜の出発(たびだち)・・・」*(三日月)*
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする